第8話 エビフライとフォーク
老舗の洋食店に行くことにした。外に出ているメニューを眺めると、オムライスや、ハンバーグ、カツレツのメニューに並んで、エビフライもあった。
「こうしてメニューを見ると、エビフライだけじゃなくて、他のものも食べたくなるな」と僕が言うと、遼子も同じ気持ちだったみたいで、結局、エビフライも乗っているオムライスセットにした。スープとサラダがついている。
壁は年月を感じさせるような少し茶色に薄汚れていたが、お客はたくさん入っていて、賑やかに食事をしていた。僕たちは小さな二人掛けのテーブルに案内された。他の人たちが美味しそうにいろいろ食べているのを眺めると、どれも食べてみたくなってしまう。初志貫徹でオムライスとエビフライのセットにした。
「奏太はビールとか飲まないの?」
「うーん。飲んでもいいけど、飲まなくてもいいかな。遼子は飲むの?」
「飲みそうに見えるでしょ? でも全然ダメ。苦いし、頭が痛くなる」
「あー、それじゃ、本当に飲まない方がいいね」
僕がそう言うと、遼子は不思議そうな顔をした。
「そんなこと言う人、珍しいかも」
「どうして?」
「だって殆どの人は慣れてないだけだから、飲まなきゃって言うのよ」と口をへの字に曲げて、涼子は言った。
「何のために?」
「大人になるための通過儀礼?」
「…そうかな。お酒飲めたって…大人になれないことだってあると思うし」
「奏太って…年のわりに成熟してる気がする」
「若さがない? ってこと?」
「そうじゃなくて、色々考えたり、経験してきたのかな、と思って」
「まぁね。母親が出ていったり、姉にこき使われたり、罵られたり…結構、苦労してるんだよ」
「後半部分は誇張してるでしょ?」
「いやいや、本当に姉は…僕を召使か、あるいは奴隷かと思ってるはず」
千佳のことを思い出すと、本当にゾッとして、寒気が走った。僕が体をぶるっと震わせたのを見て、遼子は笑った。
「私は一人っ子だから…」
「あ、ちょっと待って。当ててみるから。一人っ子で、大事にされて育ってる。それからピアノ習わせてもらってるはず」
「え? なんで分かるの?」
「大体、見たらわかる。愛情たっぷりもらってそうだから」
「ピアノは? どうして分かったの?」
ここでシャーロックホームズなら、年頃の女の子にしては短い爪と骨張った指、君の手がピアニストの特徴を備えているから、とか何とか言うんだろうけど…。あの当時の女の子は割とピアノを習っている子が多かったので、それは適当に言ってみた。
「たまたま当たっただけ」
「なーんだ」
「でも一年に一度は家族旅行には行ってそう」
「うん。二回くらい行くかな」
僕が羨ましく思う理想の家庭で遼子は育てられている。だからこそ大胆に自由に生きていけるのだろう。
「奏太は行かないの?」
「家族旅行? 記憶にないくらい小さい頃に京都に行ったらしいんだけど。あんまり覚えてない」
そんな話をしていると、オムライスとエビフライのセットが運ばれてきた。結構なボリュームがあるが、ふわふわ卵にかけられたブラウンソースが美味しそうだ。エビフライにはタルタルソースとレモンのくし切りがついている。
「美味しそう」と遼子は早速手を合わせて、いただきます、と言った。
熱々のオムライスとエビフライは口の中を火傷させそうだったけれど、温かいものが胃のなかに収まるとそこからじんわりと満たされた気持ちになる。
「美味しい」
好きな人と美味しいものを食べるとこんなに幸せな気持ちになるんだ、といつも一人で空腹を抑えるためだけの食事をしていたから、分からなかった。
「うん。ほんと…う」
遼子も熱いのか、熱を逃しながら、口に手を当てて、喋ってくれる。いつも綺麗で、隙の無い雰囲気だが、今日は少し可愛く思える。一緒にいる時間が長くなればなるほど、きっと好きになるだろう、とそんな予感がする。
僕がじっと見ていたからなのか、遼子が首を傾げた。
「食べないの?」
「うん。いや、遼子が可愛く見えて。いつも綺麗なのに」
目を大きく開いて、遼子は顔を赤くした。
「奏太にそんなこと言われたら、恥ずかしい」
「え? 友達だから?」
「う…ん?」
お互いを見て、何とも言えない微妙な顔をしている。二人とも。
「友達って言うと…そうなんだけど…。でも」
「あ、ストップ。それ以上」と言葉が出ずに首を横に振った。
「何?」
「僕が勝てないから」
「勝てない?」
「遼子の画家になる夢に」
一瞬、真顔だった遼子が大きくため息をついてから、笑った。
「遼子の夢を応援したいから。好きにはならないように、頑張る」
「なんか、少し寂しい気もするけど…」
「いや、本当は…かなり」
「かなり?」
その先を言っていいのか、僕は迷って、エビフライにナイフを入れた。そうだ。傷は早めの方が回復するんじゃ無いか、と思い至り、カットしたエビフライにフォークをぶすっと差し込んで「好きだ」と。情けないことに、エビフライを見つめつつ、うつむきながら、言った。
しばらくの沈黙の後、「そのエビフライ、ちょうだい」とにっこり笑う遼子がいた。震えるフォークの先にエビフライが刺さって浮かんでいる。その奥に遼子の口が開かれて待っていた。震えを最小限に抑えて、なんとかエビフライを運んだ。
「結婚式でするやつみたい」と遼子が言って、今度は僕に食べさせようとしてくれる。
「エビフライでする人はいないんじゃ無いかな」と恥ずかしくて、素気なく言ってしまった。
そうして僕の告白は遼子のお腹の中へ消えていった。
オムライスはほぼ無言で平らげた。別に返事が欲いわけじゃ無いけれど、気まずさを感じてしまう。さっさと食べて、帰りたくなってきた。
「奏太が…嫌じゃなかったら、たまに一緒に出掛けたい」
「嫌じゃ無いけど」
「恋人っていうのはちょっと分からないの。奏太のことは好きだけど。こうして一緒にいるのも楽しいし。でも…そんなどっちつかずの関係って失礼かな、とも考えて」
遼子も無言だったのは真剣に考えてくれたからだった。僕は自分の気まずさと恥ずかしさだけでいっぱいだったのに。
「僕の方こそ、ごめん。僕は遼子に絵のことも教えてもらえて、楽しかったし、また行きたいと思ってる。それに、本当に遼子の夢が叶うといいな、とも思ってるし。それにはその…いろんなの人とお付き合いもあるだろうし…」
「それは…私の実力不足かな」
食べきれないのか、遼子の皿には半分ほどオムライスが残っている。
「こんなこと言うの…卑怯な気がしてるんだけど…。本当に奏太に救われてて、あの時、救世主だって言ったのは本当なの。奏太と一緒にいると気持ちが落ち着くし、楽になる。今まで息が詰まりそうだったから」
「お役に立てるなら」
「そばにいて…欲しい」
曖昧な関係の始まりだった。
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