第9話 透明なモデル
僕は遼子の
土曜の朝はしっかり目覚める予定だったのに、また夜中の無言電話がかかってきて、何となく気持ち悪くてあまり眠れなかった。おおあくびをしながら、再履修クラスのドイツ語の教室のドアを開けた。教室には遼子しか座っていなかった。遼子は漫画を読んでいた。
「おはよう」と漫画を閉じて挨拶をしてくれる。
「あれ? 誰もきてない?」と僕は声をかけた。
すると遼子は軽く笑って「休講」と言った。
「え?」
「朝来たら、誰もいなくて、もしかして…って思って、見に行ったら休講だったの。…もうみんなさっさと帰ってしまったみたいね」
「どうして帰らなかったの?」
「昼から絵を描くつもりだし…何より奏太に会いたかったから」
「…あ、ありがとう」
そんなことを言われると、嬉しく無いはずがない。
「それにちょっとお願いがあるんだ。今日は奏太を描かせてくれない?」
「え?」
「すぐ終わるから。そこに座ってこの漫画読んでて」とさっきまで遼子が読んでいた本を渡してくれる。
「手塚治虫?」
「すっごく面白いの。読んでる間にさっさと描くから」
鞄から色鉛筆と大きなスケッチブックを取り出した。僕は窓際に座らされて、渡された漫画を読み始めた。ルードウィヒ・Bというタイトルだった。最初は遼子の視線や、鉛筆の走る音が気になっていたが、次第にこの漫画の魅力に取り憑かれて、ひたすらページをめくっていった。漫画なんて久しぶりだったけど、時間を忘れて読み耽ってしまった。軽いチャイムの音が鳴って、遼子の「もういいよ」という声がするまで動けなかった。僕は自分が描かれていることをすっかり忘れて、遼子にこの漫画の続きがないかと聞いた。
「漫画の続きはね…」と言って、指を天井に向けて差した。
「ん?」
「未完なの」
「えー! これ、連載中に亡くなったの?」
「そうなの。続きはあの世のお楽しみかな」
遼子は少し楽しそうな感じで答えたので、きっとわざとこの本を選んだに違いない。続きが読めないなんて、ある意味地獄じゃないか、と僕はどうしようもない気持ちになって、立ち上がった。
「私も奏太と同じ気持ちだから。一緒の気持ちを共有したくて」
「うわぁぁぁ。それはひどい。こんなに面白い漫画なのに、先が読めないんて! 先に未完って言ってくれれば」と漫画を突き返した。
「ごめん。本当にごめん。お礼とお詫びにたこ焼き奢るから」
「お礼?」
「モデルになってくれたお礼よ」
そういえば、絵を描いてたんだ、とようやく自分がどんな風に描かれた気になる。おどろおどろしい奇妙な絵になっているんじゃないかという不安もあったが、見せてもらうことにした。初めて見る遼子の写実的な絵だった。
「絵…上手いんだね」
「これくらいは簡単にかけるよ」
「ちょっと男前に描いてくれてる」
「奏太は…綺麗だもん」
そんな風に言われることがないから、返事ができなかった。色鉛筆で描かれた僕は透明感のある光を受けていて、人物画というよりは周りの景色の中に溶け込んでいた。窓から見える木々の緑と光と風がまるで教室に吹き込んでいるようだ。
「五月」
「五月?」
「この絵のタイトル」
確かに、この絵は僕が主人公じゃなくて、今の空気感だった。
「五月がとっても良く描けてると思う」と僕は言った。
「奏太がとっても綺麗で透明だったから」
遼子の言っていることはいつも通り僕には少しも理解できなかった。でも漫画を読んでいた僕は確かにそこにいたけれど、心はどこか違うところにあったかもしれない。そういう意味だな、と解釈をした。
「さぁ、たこ焼き屋さんに行こう」と遼子はスケッチブックを勢いよく閉じた。
それで思い出したけど、未完の途轍もなく面白い漫画をわざと読ませてくれたことに対して、僕はたこ焼き屋に着くまでずっと文句を言った。文句を言い続けると、何だかおかしくなってきて
「生まれて初めてかもしれない。死にたいって思ったの。あの世に行って、続きを教えてもらいたいってちょっと本気で思ってる」
「そうなの。私も死ぬのが怖くて堪らないんだけど、この本の続きを知れるならって思っちゃった」
「いつか、そんな日が来たら、僕はこの未完の漫画のことを思い出すことにする」
「そしたら、穏やかに…じゃなくて楽しみながら…」
「死が怖くなくなるなんて、最強になったのかも」と僕は笑った。
若さってつまらないことを考えて、泣いたり、笑ったりする。その時は分からないけれど、ただの馬鹿だ。僕は遼子といて、自分が最強の救世主になった勘違いをしたほどの最高の馬鹿だった。青空は心地よくて、たこ焼きの焼けるいい匂いが漂っている。嫌なことなんて、一つも起こらない。
「奏太、ごめんね」
何に謝られているのかわからなかったけれど、僕はもう怒ってはいなかった。
「ううん。いつも…ありがとう。遼子の方が」
「私が?」
「幸せにしてくれてるから」
僕じゃなくて、なぜか遼子の方が泣きそうな顔をしていた。僕たちはお互いにちょっと傷ついていて、お互いが必要だったんだと思う。恋人としてではないけれど、一緒に過ごすことで、なんとかやっていたのかもしれない。
救世主は僕じゃなくて、遼子だった。
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