第10話 素人のダンシングクイーン
会社説明会に急いでいたら、急に雨が降り出した。困ったなと思っていたら、突然、上品な年配の女性に道を聞かれた。たまたま僕が知っている場所だったので、きちんと伝えることができたが、その女性は僕が就職活動をしていると知って、自分の傘を差し出してくれた。
「地下道を行くので大丈夫です」と断ったが、その地下道まで行きましょうと、譲らない。
母親と同じくらいの年齢の女性と同じ傘に入って歩くのは物凄く気まずかった。
「就職大変何でしょう?」と話しかけられる。
「えぇ。はい」
なんだか泣きたくなった。全く見ず知らずの人の親切に触れて、動揺してしまう。彼女にも同じ年頃の子供がいるのかもしれない。だから優しくしたのかもしれない。何も知らない僕のことを身内のように思ってくれたその優しさが僕を刺した。
地下道に降りるときに「頑張ってね」と心から応援してくれたその言葉に崩れそうになる。
「はい」と返事をして地下への階段を降りた。
その日の説明会では沢山の学生に対して、一般的な仕事内容と応募説明をして終えた。帰りのエレベーターの中で、ちょっと洒落たスーツの男が「もうここは内定決まってるらしいよ。一般で取るのはほんの数人で」と知ったようなことを一緒にいる女子学生に話した。相槌を打っている女の子に、さも当然のことのように「有名国立大学じゃないと、書類も通過しない」と言っていた。そいつの言葉はエレベーターの中を重い空気にしていった。今から思えば、牽制だったかもしれないけれど、そんな幼稚な方法は意外と効果的だった。それを聞いて、僕のように応募も諦めてしまった学生も多かったはずだ。そもそもどんな会社か分かったとしても、仕事内容なんて、本当は始めてみないとわからない。自分がしたいことなんて、きっと仕事上でできるはずがない、と思っていたので、給料と賞与をきっちり払ってくれる会社を探していた。職種なんて、僕を採用してくれるのなら、何でも構わなかった。だからダメそうな会社はあっさり諦めた。どうしてもそこで働きたい理由もなかったからだ。
就職活動では個性の強い人間に合うことがあった。自分の長所を答えてください、という質問に「私は晴れ男です」と高らかに宣言し、半ばこじつけのような理由で「晴れ男は御社にとって有益だ」とアピールする。灰汁の強さに押されて、僕は一回聞いただけで、忘れてしまうような印象の弱い長所しか言えなかった。就職活動で出会う学生たちは、みんなお互いをライバル視していて、仲良くなるどころか、まるで海の中の生き物のように、食うか食われるかのような殺伐とした関係だった。
最終面接までの道のりの遠さに気がおかしくなりそうだった。
どこかで働かなくてはいけない。
と
一体、何が僕にできるというのだろう。
という命題と問いがぐるぐると波のように襲いかかってくる。
もう限界だ、と思い、翌日、朝から僕は道路の向こう側にある芸術科コースの校舎に足を運んだ。道路を渡って、門をくぐるとすぐ右手のコンクリート打ちっぱなしの地面でダンスをしているグループがいた。しばらく立ち尽くして見ていると、森本肇が近づいてきた。
「お! 久しぶり。ゾンビみたいな顔色やな」
「元気そうで何より」
肩を思わず叩かれた。
「いたっ」
「踊りに来たんやろ?」
「そんなわけ…」という僕の腕を引っ張って、ダンスしている中に放り込んだ。
「ま、見よう見まねでやって」と言って、音楽を流す。
曲はアバのダンシングクイーンだった。担ぎ出されたとはいえ、他の人たちが真剣に踊っている中で突っ立てるわけにもいかないので、僕は横の人がやっている通りに体を動かしてみた。半テンポどころか、かなりずれているし、とっても不細工だと自分でも思うけれども、森本肇が何度も音楽をかけるので、踊り続けるしかなかった。
「君、君、とってもよかった。いいお手本になったよ。ありがとう」と鷹揚な態度で腕を取られて、僕はダンスから外された。
「一体、何だったんだ?」と聞こうとした瞬間に森本肇は「今の、今のやで。見たやろ? 素人の動き。それをしなあかんねん」と小柄な女の子に伝えた。
「ついつい、上手く踊ってしまうから、それじゃあ、素人に見えへんやろ?」
どうやら僕は素人の踊りの手本にされたようだった。
「ほら。この子たち、うっかり上手に踊ってしまうからさ」
聞くと、自己肯定感の低い女の子がダンスを通して、仲間に出会い、自信をつけていくというストーリーらしい。よくある感動サクセスストーリーの劇を練習しているようだ。
「一人だけ下手で、そこから努力をして上手くなっていくはずやねんけど、最初っからリズムに乗れてしまうから…。ほんまにちょうどよかったわ。ありがとう。助かった」
あからさまにむっとした態度で、僕は「どうも」と言った。
「え? 何? ありがとうって?」
「そんなこと言ってな」と言った時に背中を思い切り叩かれた。
「そんなん、お互い様やーん。ダンスしたから、血流よくなって、顔色、ゾンビから人間に戻ったやん」
確かにかなり体を動かしたから、ちょっとすっきりしたが、叩かれすぎについては文句の一つも言いたかった。口を開けて抗議しようと思った瞬間に
「遼子ちゃんに会いにきたんやろ?」と耳元で囁かれた。
思わず気持ち悪さにぞっとして、身震いを三回もしてしまった。
「犬かいな」とため息をつく。そして「遼子ちゃんはいませーん。本日は学校に来ない日でーす。毎週、水曜日はお休みされてまーす。また明日のお越しをしておりまーす」と苛立たせる口調で教えてくれた。
「でも水曜日にも来てもらえると、嬉しく思いまーす」と全然嬉しそうではない顔で言う。
「もう来ないから」と僕も顔を顰めて、答えた。
すると森本肇は笑って、「ソーダってほんまにええやつやな。普通、踊るか?」と言い出した。踊らせといて、と本気で腹が立つ。
「ほんで…よかったら、昼飯ご馳走して」と図々しく頼んできた。
踵を返して、ここから離れることにした。道路を渡り、自分の校舎に向かうまで「頭にくる」、と地面を強く踏んで歩いていると、同じゼミ生に会った。
「新田君? どうしたの?」
「何が?」
「なんか、怒ってるみたいに見えたから」
「ちょっと…、いや…大分、嫌なことがあって…」
「え? もしかして藍のこと?」
「藍? あ、高田さん? いや、関係ないよ」
「そうなんだ。新田君ていつもあんまり感情出さないから、藍からしつこくされて、怒ってるのかと思った」
「あぁ、バイトのこと?」
「あの子、自分が一番じゃないと嫌みたいで。別に新田君に興味がある訳じゃないのに、違う学科の子と一緒にいるのを見ただけで…あれだからね」と肩を少しあげて、おろした。
「別に付き合ってるわけじゃないけど…」
「全ての男は自分に気があるって思ってるのよ。面倒くさい」と最後は吐き捨てるようにいった。
(あれ? この子、前に高田さんのことを優しいとか言ってなかったっけ?)と思ったが、黙っておいた。
余計なことは言わない方が絶対いい。
「あ、藍には内緒よ」と言って、笑いながら去っていった。
一瞬、体温が二度下がった気がする。
そんな彼女の後ろ姿を見て、心に広がる暗雲を吐き出そうと僕はため息をついた。森本肇のことは嫌いだし、好きになることはないけれど、この薄ら寒い感じはない。僕の居場所がどこなのかわからなくなって、その場で立ち止まってしまった。広いキャンパスに大勢の学生が行き交っている。でも僕には居場所も、会いたい人もいなかった。明るい日差しの中で宙に浮かんだような気になった。
(消えても、誰も、何も言わないだろうな)と思って昼前の青空を見上げる。
ふと森本肇に叩かれた背中はしっかりとヒリヒリした痛みを伴って、僕の存在を証明した。
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