第11話 僕にできること
僕がゼミの授業を終えて、教室を出ると、そこに遼子が立っていた。ポニーテールをしていて、白いTシャツの上にデニムのオーバーオールを着ている。絵を描くスタイルなのだろう。ズボンのあちこちに絵の具がついている。
「あれ? どうかした?」
「奏太を待ってた」と髪を揺らして微笑む。
「あ、そうなんだ」
もっと気の利いたことが言えたらよかったのに、僕はちょうど教室から出て来る同じゼミ生の視線が気になって、遼子と一緒にその場を離れたくて、急いで歩いた。
「急いでるけど、用事があるの?」と遼子が聞く。
「何でだか、わかんないけど、遼子と話してると、百貨店でバイトさせられるんだ」
「何、それ?」
「僕にもわかんないけど、とりあえず、ここから離れて、ゆっくり話そう」と早歩きで急ぐ。
「わかった」と返事をしながら、遼子も早歩きをしてくれた。
エレベーターに一番最初に乗り込み、誰も入ってこれないようにすぐに閉めるボタンを押した。
昨日ゼミ生から聞いた高田藍の話を遼子に説明する。
「奏太は好かれてるってこと?」
「それはないらしい。でも男の子はみんな自分が好きじゃないといけないらしくて…、親切にもアルバイトを紹介してくれるんだ」
「親切にも? お節介にも? の間違いじゃないの? それにしたって何でアルバイトなの?」
「僕がお金に困っていて、ゼミの合宿に行けないと思ってるみたいで。なんかきちんと説明するのも面倒で適当に話してたら…いや、話してもきっと聞いてくれなかったな、あれは」
エレベーターの扉が開くと、競歩の勢いで校舎を出て、ふと僕は立ち止まった。ここからどこに向かえばいいのか、遼子に聞こうと思ったからだ。昼を食べるには少し早い時間だった。
「遼子の用事は一体、何?」
「昨日、来てくれたって、森本くんが教えてくれたの。水曜は学校お休みにしてて、ごめんね」
「あ、うん。…何か言ってた?」
内心、僕の下手くそな踊りの話をしたのではないかと、気になったが、森本肇は意外といい人なのかもしれない。
「ソーダがすごく疲れた顔してたって言ってたから。心配になってきたの」
「…。ちょっと就職活動に疲れてて、…遼子に会いたくなった」
少しも格好つけれずに、正直に言った。遼子は柔らかく笑って、「そっか」と言った。
「私も…昨日は奏太といればよかった。水曜日は、ほら、画廊行ったり、いろんな人に会ったりしてるんだけど、最低」と呟いた。
遼子の作品を見ずに、若い女性としてしか見てもらえない、と前に言っていたことを思い出す。だから唇を噛んでいる遼子の話を僕が聞いていいものか、躊躇した。
僕たちは校舎を出たところで話していたので、後から出てきたゼミ生にばっちり見られて、「新田君、またね」とわざわざ声を掛けられた。僕も適当に挨拶を交わしたが、遼子は俯いたままだった。
「大丈夫?」
「真っ黒…。キャンバス真っ黒に塗りつぶしちゃった」
「遼子…。僕に何かできることある?」
なんだろう。僕は遼子の救世主だということを思い出してしまった。だから何とかして彼女の力になってあげたい。僕が画廊を持っているわけでも、コネクションがあるわけでもないけれど、些細なことでも何かできることがあるはずだ、と思ってしまった。
「うん。…でも…無理だと思う」
「無理かもしれないけど、言ってみて。…力になりたいから」
遼子は躊躇いがちに、希望を口にした。僕は遼子のためなら、一肌脱いでもいいと思ったけれど、まさか物理的にそうなるなんて、考えもしなかった。頬を赤くしている遼子とは反対に僕は真っ白な顔をしていたと思う。ヌードになる必要性、作品のコンセプトを説明してくれていたけれど、僕には理解できなかった。
「…そ、そんなにいい体してないんだけど」
なんとか返事したのはそんな言葉だった。
「腕の筋肉が綺麗だったから」
「腕?」と自分の腕を見る。
牛乳配達を毎朝しているので、そこそこ重いものも持ち上げたりしている。そのせいでマッチョとまではいかないが、筋肉の筋が見えるくらいには鍛えられていた。まさかそんなんところを見られていたとは思いもしなかった。
「あの、まさか学校で脱ぐんじゃ」
「ううん。ちゃんとアトリエを借りつるもり」
遼子の写実的な絵はかなり上手かった。きっと僕を知っている人が見たら、僕のヌードだってわかるだろう。体をもっと鍛えておくべきだったかもしれない。いろんなことがぐるぐる頭を巡る。
「ごめんね。変なこと言って。やっぱり…ごめん」
ポニーテールがぴょこんと跳ねるようにお辞儀をした。
「あ、ううん。やるよ」
なんでこんなことを言ったのか、自分でも理解できない。ただ理由があるとすれば、遼子のことが好きで、どうしようもない気持ちだ。モデルになったら一緒にいる時間も増えるだろうし、とそんな利己的な理由もないわけじゃないけど、でも力になりたい、僕は彼女の救世主でありたいって思ったから。
そう思って、僕は笑ってみた。
ほら、これでよかった。僕の大好きな人が目の前でちょっと涙を潤ませて、喜んでいる。
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