第12話 生きる価値

 ヌードモデルになると決めてからは僕は若干、筋トレをする様になった。腹筋したり、ペットボトルを上げ下げしたりするだけだけど。だから少し寝る時間が遅くなった夜の十時に電話が鳴った。また例の無言電話かと思って取り上げる。「もしもし」というのも面倒くさくて、今日は黙っていた。無言対決でもしようかと腹を決めた時に、電話の向こうから赤ちゃんの鳴き声が聞こえてきた。そしてすぐに電話が切られた。いたずら電話なんて、一人暮らしで退屈をしている人間がしていると思っていたので、予想外に思えた。

「いや、待てよ…人間じゃないの…かも」

 慌てて受話器を置いて、二階へ上がる。ベッドの中に潜り込んで震え、今日は女帝でもいいから早く帰って来て欲しいと思った。僕しかいない時にかかってくる無言電話。赤ちゃんの鳴き声。心霊現象…。ありえない、怖すぎる。

 こういう時は寝るに限る。僕にはおやすみ三秒という特技があるのだから。本当に一番役に立つ特技だ。今度、就活の集団面接で「僕にはおやすみ三秒という特技があります」と言ってみてもいいかもしれない。それがどう仕事に生かされるのかは理由づけが難しそうだけど。そんなことを考えているうちに僕の特技は生かされた。


 牛乳配達をしている時に、無駄に立ち漕ぎをしたり、髪の毛を切りに行った方がいいかな、とか、モデルのことで頭がいっぱいになる。就職について悩む隙が無くなったおかげで気分が落ち込むことは無くなった。牛乳配達をしていると、早起きのお婆さんが外に出ていて「うちにも配達してほしい」と言ってくれることがたまにある。「後一年かぎりなんです」と言って断っているが、たまに「それでもいいから」と言ってくれるところには配達させてもらっている。

「買い物の荷物が楽になって助かるわ」と言われると、嬉しさ半分、申し訳なさ半分な気持ちになってしまう。

 続けてあげられたらいいんだけど、とは思うが、バイトとしての収入はかなりいいが、本職としては正直、厳しい。エリアを増やしたり、営業をかけたりするのも大変だ。たまに声をかけられて、配達するのは気楽でいい。でもこの仕事のおかげで、体力もついたし、体も確かに締まってはいる。モデルになるとは思わなかったけど、遼子に綺麗な腕を褒められたから、この仕事をやっていてよかったな、と初めて心から感謝した。

 配達を終えて家に帰ると、また千佳が朝帰りをしていた。玄関先で会うとなんというか気まずい。

「…今から寝るから起こさないで」

 土曜日なので、仕事は休みらしい。何となく、僕より気楽そうでいいな、と思った。

「あのさ」

「何よ」

 ものすごく不機嫌そうな顔でこっちを見る。

「早く帰ってき…いや。無言電話がよくかかってくるんだけど」と恐る恐る様子を見ながら話し出してみた。

 すると何かピンときた顔をして、僕を指差す。

「あ、電話線抜いたの、やっぱりあんたね」

 (女帝の野生の勘、怖えぇ)とちょっと震えた。

「え? ううん。昨日は、赤ちゃんの鳴き声で」と情けない声で言うと、僕が電話に怯えていると思ったのか、嬉しそうに笑った。

「何それ? あんた、呪われてるんじゃない?」

 そう言って、さっさと自分の部屋に上がった。今は朝だからか、心霊現象よりも女帝の方が怖かった。

(呪われてる?)

 どうやら髪の毛を切る前に、神社に行った方がいい気がしてきた。ともかく今日は土曜日なので、僕は学校に行く準備を急いでした。軽く汗をかいたので、シャワーを浴びようと、脱衣所に行くと、父親が起きて歯を磨いていた。歯を磨きながら、数回、えずいている。確かにこんな姿を見てたら、愛も冷めるだろうな、と母親の気持ちになった。

「いつまで牛乳配達やってるんだ? 就職は決まったのか?」

「卒業までバイトのつもりでやるって言っただろ。就職は決まってないよ。超が何個もつく氷河期だって知ってるだろ?」

「せっかく大学行ってるのに」

 自分は大学へ行かずに工業高校から自動車整備士として働いているから、今ひとつ分からないのだろう。まぁ、分かろうともしないところが、母親から嫌われた点かもしれない。父を見るたびに、どうして母が出て行ったのか、その答えを探してしまう。小さい頃は大好きだったはずなのに、今は少し悲しい気持ちで父を見てしまう。いや、ちゃんと働いているだけで、僕より立派なんだけど。あんなに大きかったと思っていた父の体が、随分、萎んだ体に見える。

「お酒…辞めたら?」

「それ辞めたら生きる価値がない」

 お願いだ。それ以上悲しいことを言わないでほしい。

 僕は何回、歯磨きでえずこうが、気持ちをわかってもらえなかろうが、父のことを嫌いにはなれないのだから。


 ドイツ語の授業が始まる前に遼子が「本当にいいの?」とモデルについて確認した。

「何か変な気分だけど、まぁ、前向きに頑張ってる」と僕は名簿を開けたドイツ語講師の方を向きながら、答えた。

「何を?」

 もうすぐ出席を取り始めそうだ。二回生から呼ばれるので、僕たちは最後だ。

「筋トレとか。ヘアカットもしようかなと思って」と僕が気を遣って、小声で答えたのに、遼子は思い切り吹き出した。

 当然、二人とも怒られた。僕は至って真面目な気持ちだったというのに。横で、遼子は必死に笑いを堪えていて、名前を呼ばれても、手を上げるだけで、返事ができずにいた。ついには遼子は教室をしばらく退室する羽目になった。笑いが収まるまで、トイレにいたらしい。僕の努力はそんなに滑稽だったのだろうかと軽く落ち込んだ。

 あまりにも理不尽だし、不本意な気持ちになる。授業が終わって席を立った時、「何がそんなにおかしかったんですか?」とドイツ語教師に訊かれた。

「僕の努力です」とむっとした声で答えた。

 不思議な顔をした後、「若いってそれだけで価値がありますからね」とトンチンカンな言葉が返って来た。

 全く、こっちは努力を笑われたというのに。まぁ、大したことはしていないんだけど。隣にいた遼子はさっさと教室を出ていた。

「でも単位は落とさないでください」

「はい」と言って、僕も教室を出た。

 遼子は出たところで、待ってくれていた。

「さっきはごめんね」

 すぐに謝ってくれる。

「いいよ。僕が見当違いな努力をしていたってことだろ?」

「うん。…でも…私も伝え方が悪かったのかなって思ったから」

 腕の筋肉が綺麗と言われただけで、筋トレを始める単純なところを笑われたんだろうな。恥ずかしくて、顔が熱い。

「私は奏太の今のままを描きたかったの。ガラスみたいに透明な…中身。もちろん、腕が綺麗だとは思った。でも筋トレまでしなくて、今のままでよかったの」

 僕は熱くなった顔を両手で隠して「それだとガラスの乙女心が…」とわざと言った。

 また僕の冗談に笑ってくれた。遼子といると、きらきらした時間にかわる。

「奏太と一緒だと楽しい」

 共有できたなら、なお幸せだ。

 人生に無駄なことは何一つないってことを今、理解した。不必要だった筋トレだって意味がないわけじゃない。遼子を笑わせることができたんだから。僕が君の救世主であれれば、それが僕の生きる価値だ。

「お腹空いたねぇ」

 のんびりした声で、幸せな午後が始まった。

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