第7話 ミロとその仲間たち
休日の朝から騒がしい。
「奏太! 電話線抜けてる!」と千佳の声が下から響いてくる。
そうだった。いつかの無言電話から線を抜いていたんだった。ゴールデンウィークも最終日になっていて、千佳は友達と出かけるのか、電話をかけようとしたのだろう。電話が使えないと怒り狂っているので、とりあえず下に降りた。
「え? そうなんだ」と僕は知らないふりをした。
自分が抜いたと知ったら、恐ろしいほど、怒られるに違いない。電話線を差し込むだけでいいのに、こんなことにまでこき使われる。
「はい。これで使えるから」
「もう、行っていいわよ。…早く行きなさいよ」と手で追い払う。
「お
「散髪。その後、パチンコでも行くんじゃない?」
「出かけるの?」
「うるさいわね…さっさと上行きなさいよ」
物凄い怖い顔で僕を睨むので、ここは素直に部屋に戻ることにした。千佳は誰かとデートでもするのだろうか。結局、別れてなかったのだろうか。詮索したところで何一ついいことはないから、気にしないことにした。それに今日は遼子とエビフライデートがあるからだ。エビフライだけだとつまらないので、美術館に行くことになった。生まれて初めて自分の意思で美術館を訪れることになる。僕はお気に入りの水色のシャツをきて、チノパンを履いて身だしなみを整える。久しぶりのデートだ。階段を降りると、千佳が電話の前で少し固まっていた。
「使えない?」
「…今から出かけるの?」と僕の問いは無視して聞いてくる。
「うん。晩御飯は食べてくるから」
晩御飯なんてほぼ作ったことのない千佳だけど、念の為、伝えておく。
「ふうん。わかった。御飯いらないのね」
まるで毎日作っている人のような台詞だ。もしかして透明なご飯を毎日作っていたのだろうか、と思うぐらいだ。何にしろ、今の僕にとっては些末なことだ。玄関をぬけて、そのまま外へ出た。晴天で外の光が眩しすぎる。駅までの道を目を細めながら急いだ。
大きなターミナル駅で待ち合わせをしている。僕は早めに着いたので、卒論の小説を読むことにする。推理小説が好きだったので、シャーロックホームズのシリーズにした。イギリス英語特有の言い回しなんかを卒論で書いていくと面白くなりそうだ。英語だからかもしれない。一文も頭に入ってこない。何度も同じ行を繰り返している。諦めて、鞄に本をしまった。英文科にいるからと言って、英語が喋れるわけでもないし、スラスラ読み書きできるわけでもない。本当なら、英語を使ってできる仕事を探すべきなんだろうけれど、自分が仕事に使えうる英語を習得できてるとは思えなかった。人の行き交う様子を眺めていると、人並みの向こうに遼子を見つけた。そこだけ明るく光って見える。僕は思わず手を振った。
僕は遼子と違ってオーラもないから、気づいてもらえないだろうと思ったが、すぐに遼子は笑顔で手を振りかえしてくれた。遼子の着ている白い綿のワンピースはいつもより幼く見せる。絵の具で汚れるからと言って、いつもは黒いTシャツにGパンだった。
「遅くなって、ごめんなさい」
「ううん。僕が早く来ただけだから。ほら、ちょうどいい時間だ」と言って、腕時計を見せる。
僕たちは切符を買って、美術館までの電車に乗り込んだ。
「シュールレアリスム、ミロとその仲間たちって書いてるね」
「ミロが数点で、その仲間達の絵がほとんどなのよね」と残念そうに言うが、僕にはミロもシュールレアリスムも分からない。
全く何もわからないという顔をしていると、遼子が教えてくれた。
「よくシュールって、会話で言ったり、漫画で書かれてたりしてるでしょ? なんか、怖い雰囲気とか、ありえないこととか」
「うん」
「シュールレアリスムから来てるの。超現実的主義って、日本語だと、とっても現実的って思ってしまうけど、実は現実を超えるっていう意味なの。シュールは〜の上にって言う言葉で、レアリスム=《は》現実。現実を超えた先のことを芸術にしてるってことなの。だから作品自体も抽象的だし、奇抜で理解をするのは少しだけ難しいんだけど…。幻覚や夢を描いたりするのに…麻薬を用いる画家もいたみたい。でもミロは貧しくて、お金がなかったから、空腹で幻覚を見てたみたいなの。スペイン人だから明るい色使いと、そんな彼の純粋さが出てる絵で…私の好きな画家」
「…。ものすごく分かりやすい解説なんだけど」
「え? そうかな」
僕が夜な夜な手にとっては、数頁で眠てしまう美術概要と書かれた本を何度みても、ルネッサンスも印象派もさっぱり理解できなかったのに、今の数分で、僕はシュールレアリスムについて理解できた気になった。
「美術史も結構面白いのよ。人間の生きた歴史でもあるから…。宗教に寄っていくこともあるし、その時代を映してるし。西洋の画家に日本の浮世絵が大きな影響を与えることもあったし。あ、今度、広重の展覧会あるの、行く?」
遼子と出かけられるのなら、どこでも行きたい。
「広重の絵は当時の日本人の視点から見た日本の景色が見れるの」
「どう言うこと?」
「今の私たちって、遠近法とか西洋美術を学んでいるから、当時の日本人とは見方が少し違うの」
そんな話を聞いているうちに駅に着いた。美術なんて、中学以来のお付き合いで、本当に久しぶりだったけど、遼子の話を聞いていると、興味がそそられた。
「遼子が先生だったらよかったのに」
「…学校では描くばっかりだもんね。描けないと嫌いになちゃうよね」
少し歩いて、大きな公園の中に美術館はあった。古い建物で、独特の匂いがする。館内は人が多かったけれど、そんなに騒がしい雰囲気ではなかった。遼子はじっくりと観るのかと思っていたが、割とさっさと歩くので、驚いた。
「好きな絵だけ、時間をかけてみたいの。そうしないと、体力がなくなって、観るのが辛くなるから」
「なるほど」
流石にミロの前では少し止まって観ていた。僕は初めて観たミロを好きになった。丸い黒い形と、赤い色と、なんと言っていいのか分からないけれど…。
「かわいい」
「でしょ? きっと好きになってもらえると思った」と遼子が安心したように笑った。
「きっと子どもみたいに純真な人なのかな」
「そうかも。ピカソのこと、怖いって言ってたから」
「え? そうなの?」
「そうみたい」と弾ける笑顔で笑った。
いつか、遼子も自分が思うような絵が描けるといいのに、と僕はこっそり思った。今の絵も悪くはないけれど。少し、悲しすぎる。僕たちはミロとその仲間たちの難解な絵を一時間ほど見て、出口に向かった。
展覧会のパンフレットや葉書が売られている。僕は何かの記念に買おうと思って近づいた。ミロの絵に使われている丸い形のキーホルダーが売られていた。
「かわいい」と言って、遼子が手に取る。
「解説してくれたお礼にプレゼントさせて」と僕はキーホルダーを二つ買った。
「これで僕はミロを理解できた…。多分」
「理解できなくても、好きになれたらいいんじゃないかな」
「四分の一が遼子、十六分の一がミロ…で埋まった」
僕も遼子も早速鞄にキーホルダーをつけた。まるで恋人みたいにみえる。公園の売店でソフトクリームを買って、食べながら歩いた。日差しがキラキラと木々の葉の間から落ちている。幸せが足元から押し寄せてきて、僕は何かに感謝したくなった。
「ドイツ語落として…よかった」
「え?」
遼子が何かを考えるようにわずかに目を細くした。
「再履修してなかったら、こうして美術館に来ることもなかったから」
「ほんとだ」と言って、ソフトクリームを慌てて食べている。
溶けるのが早い季節になった。僕もしばらくは無言で食べることにした。吹き抜けていく風も心地い。さらさらと遼子の髪が風に揺れている。今でもあの日をクリアに思い出せる。もうあんな気持ちになることはないけれど。
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