第6話 ハートとエビフライ

「新田君」とゼミの教室を出ようとした時、高田藍から呼び止められた。

「この間、休んでたでしょ? 夏休みにゼミ合宿行くんだけど、いつが都合いいかな?」

「あー、それ…。ちょっと教授と相談する。多分行けないから」

「え? どうして?」

「休みがお盆休みしかなくて。流石に帰省する人もいるだろうし。僕は数に入れないで。ごめん」

「アルバイト、休めないの?」

「うん。…本当、ごめん」

 数少ない男子学生は力仕事に貴重なのかもしれない。でも海辺でバーベキューしたり、花火したりするだけだから、そんなに大変なことではないはず。そのために、千佳に牛乳配達を数日頼むなんて、自分の命を放り出すようなものだ。

「就職決まった?」

「ううん。何社か行ったけど…。高田さんは?」

「私はお父さんの知り合いの会社に行くの」

 コネがあるって、素晴らしいって、心から思う。千佳だって家では女帝だけれど、会社では一般事務員だし、父親は車の整備士で特に人事権なんて持っていない。

「そうなんだ。いいなぁ」

「…もしアルバイトきついなら、他のバイト紹介しようか? 私のお父さん、百貨店の部長だから夏だけのバイトとか紹介できるよ」

「…ありがとう。またお願いするかもしれない」

 きっと彼女は親切心で言ってくれてるのだろうと思う。いや、絶対、百パーセント親切心でできている…はずだ。なのに器の小さい僕はこの親切な申し出にものすごく苛々としてしまう。

「希望の売り場とかあったら、言ってね」

(あれ? 働くなんて言ったっけ?)

「うん。まぁ…でも百貨店なんて買い物にも行かないから」

「きっといい社会勉強になると思うの。社会人としてのマナーも身につくよ」

(社会人としてのマナー…ない…か。まぁ、ないか)

 後ろから、高田藍の友達が呼ぶ声がして、ようやく僕は解放された。ほっと一息ついた時に、会話が聞こえてきた。

「藍、なんで新田君と話してるの?」

「えー? だって可哀想なんだもん。ゼミでいつも一人だし」

 友達が「藍、優しいー」とか言う声が聞こえた。

 ほら、彼女は優しいでできているんだよ。

 そして僕は一人ぼっちで可哀想なんだって。

 なんでやねん

 と心の中で言ってみた。

 イントネーションがはともかく、タイミングは良かったはずだ。

 でも彼女は間違えていない。僕はゼミ合宿にも行けない可哀想な男子学生だ。本当のこと言うと、行きたいなんて少しも思ってなかったんだけど。


 そしてその後もゼミの後には必ず高田藍からアルバイトの話をされて、僕はついに折れて、ゴールデンウィーク中の三日だけ、夕方には終わるバイトをすることになった。お得意様に景品を渡すと言うだけの簡単な仕事だった。

 百貨店でアルバイトして、就職できたらいいけど…、とぼんやり考えたけれど…そんな簡単な話があるわけがない、と自分を戒めた。

 そしてリクルートスーツを取り出して、アルバイト先の百貨店に向かった。現場に出る前に簡単な研修があるという。顧客様だけが入れる催事場で景品のタッパーをご案内はがきと交換するのだが、顧客なので失礼のないように、髪型もチェックされ、立っている間は右手の上に常に左手を置いておくように、と教えられた。何度かお辞儀と挨拶の練習をさせられて、現場に入った。アルバイトはもう一人来ると言っていたが、もう一人はなかなか現れなかった。指導する社員が少し顰めっ面をしていたが、顧客が来たので、二人で笑顔で対応する。

「大学四回生なのに、アルバイトとかしてて、大丈夫?」と人が途切れた時に社員に聞かれた。

「就職活動してるんですけど、交通費や、証明写真やら…意外とお金がかかるんです」

「ちょっと前だと、会社説明会に参加してくれた学生に交通費として一万円学生に配ってたりしたけどね」

(ここの日給より高い)と悲しい気持ちになった。

 開店時間を三十分近く過ぎた頃に、もう一人のアルバイトがやってきて、僕は正直驚いた。前髪は目にかかっているし、耳にももちろんかかっている。

「あー、すいません。何したらいいっすかね?」

 社員が教えている間も、聞いているのか聞いていないのか、適当に頷いてる感じだった。説明後に「トイレに行って来るっす」と言って、消えてしまった。

「はぁぁぁぁ」と深いため息をついて、「偉い方の親戚なんだ」と教えてくれた。

 彼には何の指導もなく、時間は過ぎていった。物を売る仕事でもなければ、お金を扱う仕事でもないので、そんなに難しくない。

「だる。この時給、いくらっすか?」と突然、質問された。

「八百五十円」

「え? あ、そっすか」とキョロキョロと視線を動かした。

 その返答を聞いて、自分の時給とは違う、そして彼の方が高額なんだと分かった。やる気を失いそうになるのを必死で耐えていると、いかにも金持そうなマダムがやってきて、彼に声をかけた。

「あら? ちゃんとやってるのね? お昼一緒に行きましょう?」

「あ、小林様、いつもありがとうございます」と社員が頭を下げる。

「お昼、彼、連れて行くから」と言って去っていった。

 昼休憩も六十分ではないらしい。いや、もう本当に辛くなってくる。そして自分の爪先を見て、なるほど、これが社会勉強になるのか、とぼんやり考えた。

 休憩後もひたすら、社会勉強だと念仏のように唱え、数々の理不尽さを耐えて終わった。

「君のような人だったら、どこかきっと就職できるよ」と社員さんに労いの言葉をもらった。

「ここは募集されてるんですか?」

「…一般募集は今年はなくて。まぁ…コネで数人は新入社員が入るけど」

 どれだけ就職活動をしても、僕が入る隙はどこにもない。たった一日で、物凄いダメージを受けた。百貨店の裏口から出ると、疲労感が半端ないので、今日はもうご飯を食べて帰ることにした。さっさとラーメンでも食べようかとフラフラ歩いていると、突然、背中を叩かれた。

「奏太!」

「遼子…」と僕は初めて、彼女の名前を呼んだ。

 遼子はパーマ頭の中年の男と一緒にいた。

「リトグラフ作家の川中さん。百貨店で個展開いてて」

「僕も…。その百貨店でアルバイトしてた」

「奏太、大丈夫? ものすごく疲れた顔してるけど」

「社会の…縮図を見せられて…」

 遼子は川中さんに、その場で別れを告げた。僕が心配だからと言って。川中さんはあっさり引き下がって、帰って行った。

「いいの? 画家になるのに」

「…うん。奏太、本当にひどい顔してるよ?」

「その自覚はある。とりあえず、ご飯食べて帰るつもり」

「一緒に食べていい?」と遼子が聞いた。

「もちろん。エビフライ食べたいけど、お店探す元気ない」

「うん。何でもいいけど…ちょっとちゃんと食べた方がいいかもね」と言って、僕を24時間営業の食堂に連れて行った。

 ショーケースにはできあいのおかずが並んでいて、うどん、カレーなども注文すれば作ってくれるところだ。遼子は僕のトレーにほうれん草のおひたしと、納豆を乗せて「後は、好きな物注文して」と言った。

 遼子はカツカレーを注文していたので、同じ物を頼んだ。

 席に着くと、ずっと立ちっぱなしだった足が癒される。

「遼子に会えて良かった」

「どうして?」

「…すごく惨めな気分だったから」

「奏太」

 どうしたって、取り繕うことができないほどに疲れていた。コネクションがない中での就職活動。いい加減なアルバイトの彼との時給の差。僕が頑張ったとしてもどうにもならないことばかりだ。

「奏太は全然、惨めなんかじゃないよ。いつも透明で綺麗のなのに、今日はちょっと燻んでるだけだよ」

「うん。燻んだ。ものすごく」

 本当は遼子の前ではいい格好をしたい。少しでも男前でいたいのに。何もかもが億劫になってしまう。納豆とほうれん草を食べるように促された。何も言わずに口に運ぶ。特に美味しいとも思わず、ただ、体にはいいんだろうな、と思いながら噛んだ。

 遼子は何も言わず、店内にあるテレビを眺めている。夕方のニュースが流れていた。ゴールデンウィークに家族連れが楽しむレジャーの様子を映している。

「彼が嫌じゃなくて、自分が嫌だった」

「ん?」とテレビから視線を僕に置いた。

「何もかも恵まれている彼に嫉妬しているくせに、蔑んでいる自分もいて…。僕の方がしっかりやってるなんて…そんなつまらない意地で、彼を馬鹿にした」

「本当に辛かったんだね」と遼子は呟いた。

「自分が嫌になる」

「分かるよ」

 遼子がそう言ってくれると、少し救われる気がした。カツカレーが運ばれてきた。薄いカツだったけれど、今の気分にはこれくらいで十分だった。

「ねぇ。奏太が自分のこと嫌いになったら、その分、私が奏太を好きになってあげる。そしたら変わらないから」

「ん? 何が変わらないの?」

「好きの量が」

 やっぱり遼子の言っていることは理解できない。そもそもこんな僕を好きになるということもありえない。

 僕が黙っていると、遼子はカバンから緑色のペンを取り出して、紙ナプキンに丸を描いた。

「これが奏太の心」

 線を二本入れて、僕の心を四分の一、カットする。

「この部分を私が好きになって、埋めるから、元通り」

 カットされたところに小さなハートをたくさに描いて、埋めていく。まるで頑張れ、頑張れって言ってくれてるようだった。

「なんだよ、それ」

「え?」

 遼子は手を止めて、僕を驚いたように見る。

「そんなに遼子のハートが埋まっていったら、遼子のことしか考えられなくなる」

 僕は少し泣きそうな笑顔だったと思う。遼子のことをそんな風に思ってはいけないってわかっていたから。

「…ほんとだね」

 遼子には画家になるという夢があって、僕はそれが叶えばいいな、と思っているから。それは僕にとっても幸せなことだから。四分の一以上は好きになったら、困るんだ。

「奏太の心…埋めちゃった」

「ありがと。元気になれた」

 少し恥ずかしそうな遼子の笑顔を見れて、今日は本当にいい日になれた。百貨店のアルバイトも悪くないな、と思うことにする。カレーはなぜか本格的に辛くて、美味しかった。少し汗をかきながら、後は無言で食べた。

「ハートをくれたお礼に大きなエビフライご馳走させて。アルバイトしてるからお金もあるし」

 遼子は嬉しそうに頷いてくれる。

 体の疲労感はまだ残っているけれど、心は随分チャージされた。遼子も汗かきながら、カレーを口にしている。僕はテレビの天気予報を見た。天気予報が一番好きな番組だ。だって唯一、高確率で未来を知れるんだから。

 明日は曇りらしい。

 残り二日は心を無にして、アルバイトをこなした。

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