第5話 彼女の救世主
明日は遼子とのランチだと言うので、意気揚々とベッドに入り、僕はすやすやと眠っていたのに、電話の呼び鈴で起こされた。誰もいないのか? としばらく誰かが出てくれるのを期待して、ベッドの中で我慢をしていたが、呼び鈴は永遠に続いていた。寝る前に留守番電話にするべきだった、と後悔しつつ、毛布を撥ね飛ばして起き上がった。もしかして母親かもしれない。いや、母親ならこんな時間に電話してこないだろう。夜の十時を回っていたから、僕がすでに寝ていることは知っているはずだった。階段を降り切るまでに呼び出し音よ、切れてくれ、と呪いをかけつつ階段を降りたが、僕には呪のセンスがないようで…。階段を降りきり、一階のリビング到着するまで電話は単調に呼び鈴を鳴らし続けていた。
諦めない呼び鈴に僕は諦めて受話器をあげる。寝ていたから、声が掠れて低い声になった。
「もしもし」
「…」
(まさかの無言電話? そんなのに貴重な睡眠時間を邪魔されてしまった!)と怒りが芽生えて何かを言おうとした時に、通話が切れた。
怒りの矛先が電話線に向かい、僕は電話線を抜いた。これで誰も我が家に電話して来れない。もし家族に何があろうとも、もう僕には知ったことではない。大体、こんな時間に家にいない家族なんて…。そう思うと、なんだか視界がぼやけてきた。母が出て行く前も、そうだったかもしれないが、出て行ったあとはさらにみんながバラバラになってしまった。母のせいではなくて、もともとバラバラだったのが、なんとか母のおかげで繋がっているだけの、アンバランスな家族だったのだ。僕は仲良し家族が羨ましいと心の底から思っている。そんな家の子どもになりたかったな、とどうしようもないことを切望している。父親は母がいなくなって、帰ってくるのがさらに遅くなったが、どこで何をしているのかなんて、僕は聞かなかった。聞いたからと言って、早く帰ってくるわけでもなし、まして早く帰ってきて一緒にご飯なんか別に食べたくもなかった。
僕たちは仲良し家族じゃないのに、どうして目から涙が出るんだろう。
どうしてうまくやれなかったのかな。
これじゃあ、眠れなくなってしまうな、と重たい体をなんとか動かして、二階の自分の部屋まで戻った。のろのろとベッドに潜り込む。自分でかなり繊細な方だと思うのだけど、なんと言うか、おやすみ三秒という体質で。恥ずかしながら、すぐに眠ってしまった。
遼子と待ち合わせした食堂はいくつかある中でも、割と美味しいものが食べられる食堂で、値段も少しだけ高い。外で食べるよりは断然安いのだけど。美味しくないけど、安い食堂と言うのもある。もうそれは苦学生のための必要施設で、味のないスープに麺が入っていて200円しなかった。
遼子と僕は食券を買って、席を探した。遼子はご馳走様すると言ったが、それは断って、結局、割り勘で食べることになった。本当は僕がご馳走するべきだったのかもしれない、と後で悩んだけれど、遼子は全く気にしていないようだった。日替わりランチはハンバーグに目玉焼きが乗っているもので、シンプルで美味しかった。
「エビフライがついてるとなお良かったんだけどな」と遼子がフォークを目玉焼きに刺して言う。
半熟の黄身がとろっと溶け出して、ハンバーグの上を滑り落ちていく。
「エビフライ…随分、食べてないな…」
「そうなの?」
「母親が離婚して、ご飯作るはずの姉が帰ってこなくて…、ラーメンとかレトルトカレーとか、最近はそれすら面倒で冷奴とか…納豆とか」
「ん? なんか健康的になってる?」
「…確かに。…でもエビフライ食べたい」
「じゃあ、今度はエビフライ食べに行こう」と遼子は僕を見て、微笑んだ。
「うん」
離婚の話を突っ込まれるかと思ったけど、遼子はエビフライの店に誘ってくれた。ちょっとその優しさに感動する。
「本当は、私が作ってきてあげるとか言えたらいいんだけど、料理は全然ダメで」
「ううん。大きなエビフライを食べに行こう。頭がついた立派なやつ」
「わかる! 二匹で鉄板にいっぱいになっちゃうくらいの」
食べてるのはハンバーグなのに、エビフライの話で盛り上がった。食後のコーヒーは僕がご馳走することにした。そんなに美味しくないけど、コーヒーじゃなくて、僕は遼子との時間を楽しみたかったから。
「ねぇ、奏太は私の絵、好き?」
「…本当のこと言っていい?」
僕は好きな人に正直でいたいと思った。特に遼子には嘘をつきたくなかった。
「言って」
「家には飾りたくない」
そう言うと、遼子はすごく傷ついたような、それでいて思い当たる節がある様に頷いた。
「なんか、怒ってる?」
「怒ってないよ」と遼子は首を横に振ったが、僕はそういう意味じゃないと言った。
「なんて言うか、それが芸術なんだと思うんだけど、遼子の絵を見ると、苦しくなる。怒りがぶちまけられている様な…そんな気がする。だから家には綺麗な可愛らしい絵が望ましいし」
遼子の目から涙がこぼれた。傷つけたのかもしれない。
「…そうなの。私…怒ってる」
昼から授業があると言っていた遼子は授業に行かなかったし、そして卒論のゼミがある僕も休むことにした。
「誰も私の絵を見てくれないから」
本当に画家になりたくて、遼子はいろんな画廊にも顔を出していたし、画家ともコンタクトを取っていた、と話し始めた。
「パトロンになってくれるっていう人もいたの」
ふと噂が頭をよぎった。いろんな人とデートしていると言う。
「でもね。…みんな私の絵なんか見てない。若い女の私に興味があるだけで、私の絵じゃないの。私の作品がどんなものでも関係なくて、私の思考にも興味がなくて、見られてるのは私の外側…身体。それが気持ち悪くて…。そう見られている自分が気持ち悪くて、グロテスクで。だから作品も気持ち悪いの」
それを聞いて、僕は生まれて初めて芸術が何か分かった気がする。
「いろんなものを描いてるけど、全部、私。グロテスクな自分」
「僕はグロテスクなんて遼子のことを思ったことないけどな」
「…ありがとう。どうしてかな。奏太といると、ちょっと綺麗なものも描きたくなる」
「いつか、描いてよ」
そう言うと、悲しそうに笑った。
「今はまだ描けない」
「うん。待ってる。いつか描いたら、見せて」
不確定な約束でも未来に僕と遼子が交わるといいな、と思った。
「奏太は私の救世主って思ってるのは本当で、すごく救われてる」
「だったら光栄だな」と素直に言ってみた。
こんな弱い僕が彼女の救世主になれるとしたら、僕にだってそれは奇跡だ。
「かっこいいよ。奏太は」
それを聞いて、同じゼミの子に、土曜日にランチをしているところを見られて、冷やかされるのかと思ったら、遼子とは釣り合わないみたいなことを言われた話をした。
「その子は奏太が好きなんだよ」と言って笑う。
「それはない」
「奏太が釣り合わないんじゃなくて、私が釣り合わない」と呟いた。
そして視線を外して、窓の外を見ている。その横顔がとても綺麗で、僕に絵を描く才能があればよかったのに、と思った。いつまでも遼子の顔ばかり見ているのも変かと思い、一緒に窓の外を見ると、ドイツ語の講師が歩いているのが見えた。それで僕はノートを返してもらう口実を思い出したのだけど、なぜか遼子はずっと視線を動かさなかった。
窓越しにドイツ語講師と目が合ったので、僕は軽く頭を下げた。向こうも「おや?」と言う顔を一瞬見せて、頭を下げて去っていった。遼子はなぜか無表情で、視線を逸らした。
その後、すぐに「ノート、ごめんね」と言って、カバンからノートを取り出して渡してくれた。
僕はそれをそのまま受け取って、カバンに入れた。わずかな違和感も一緒にしまった。
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