第4話 彼女の噂

 卒業研究について、内容を決めて進めて行かなければいけない。僕は英文科だけど、英文学が好きなわけでもない。英語ができれば就職にはいいだろうと思っただけだった。こんな僕は何について研究すればいいのだろう。同じゼミ生は七割が女子だった。明るく楽しそうに話しているが、僕はぼんやり窓の外の景色を眺めている。青々とした木々が風に揺られていた。

「新田君、何するの?」

「うん…。決めてない」

 同じゼミ生の高田藍が話しかけてきた。友達が多く、いつも大勢の友達と一緒にいるので、まさか僕に話しかけてくるとは思わなかった。

「翻訳がでてる本を選べば簡単じゃない?」とかわいい笑顔で教えてくれる。

「うん…そうだね」

「新田君…。芸術の女の子とご飯食べてた?」

「え?」

「土曜日。サークルの集まりがあって、ハンバーガーショップの前を通ったら、見かけたから」

 遼子と食べてたのを見られていたとは思いもしなかった。

「…恋人?」

「まさか…。再履修のドイツ語で一緒になって。もう落とせないから、一緒に勉強してるだけ」となぜかどうでもいい嘘をついた。

「あ、そうなんだ。あの子、綺麗な子だよね。…でも、あんまりいい噂聞かないから」

 わざわざ話しかけてきたのは、この話がしたかったのか、と僕はため息をついた。高田藍はかわいい顔の造りをしているのに、なんだか舌なめずりしてそうな雰囲気で話す。噂好きで、僕の苦手なタイプだった。

「いろんな男の人とデートしてるのかな? 見るたびに違う男の人と一緒で…、年も離れてて」

「僕が相手にされるわけないよ」と言うと、高田藍は「確かに」と明るく笑った。

(その正直な反応、結構、傷つけられたんだけどな)といつものように心の中だけで呟いておく。

「まぁ、一応、友達として忠告しておくね」と笑顔で元の友達の場所に戻っていった。

(友達だったんだ…)と軽い衝撃を受けた。僕は友達だなんて思ったこと、一度もないんだけどな、と言い返すチャンスもないまま、教室を出た。

 高田藍の言った言葉が僕の心の奥に沈んでしまったようで、噂が本当なのか、ただの噂なのかどうにも気になってしまう。

 土曜でもないのに、僕はまるでジャングルの中に立つような蔦で覆われたトタン建造物の前に立っていた。遼子がいるのか、いないのか、入ってみないとわからない。重い扉を開けると、土曜日とは違って、数名の学生がいて絵を描いていた。その中に遼子の姿は見えなかった。

 またすぐ後ろで扉が開いて、そばかすが目立つポニーテールの女の子が入ってきた。

「どうしたの?」と僕に聞いてくれる。

「倉田さんにノート貸してて」

 確かに貸してはいるが、特に返して欲しいとは思っていない。ただ会うための口実だ。

「遼子? 待ってて」と言うと息を吸い込み、大きな声で「リョーコー」と叫んだ。

 すると、屋根まで吹き抜けているようにも見えたが、壁に部屋があったようで、二階部分の廊下に遼子が現れて、「あ」と手を振ってくれた。

「ノートだってー」とさらに大きな声で、ポニーテールの女の子が叫んだ。

 慌てたように、階段を駆け降りてきて、遼子は僕の前に来た。それがスローモーションのように見えて、僕のためにわざわざ走ってきたという錯覚に陥る。

「ごめんね。今日は持ってないの。ドイツ語の授業の前にいるよね?」

「急いでないんだけど…」

「でも…明日は来ないから…奏太は木曜日、学校に来てる? いつも借りてばっかりだから、お礼にランチご馳走する」

「え?」

「リョーコが珍しいこと言ってるー。いつも男に奢らせてばっかりなのに」とポニーテールの女の子が驚く。

「奏太は特別だもん」と遼子がわざと腕を組んできた。

「えぇ! 付き合ってるの?」

「内緒!」とウィンクをした。

 僕はまるで棒切れのように突っ立っていた、と思う。正直、どんな顔をしていたのか、自覚もなかった。心臓が激しく鼓動し、血液が脳に集中しているのは分かった。

「でも午後から授業があるから…学食でもいい?」

 どんな場所でも遼子といられるなら、文句はない。時間を告げると、遼子はさっさと二階へ上がっていった。ポニーテールの女の子は僕を見て、何かを言いたそうにしたが、黙って、奥の方へ行った。少しぎこちない歩き方になっていたかもしれないが、なんとか重たい扉を押して表に出た。

 空気が急に軽くなったような気がする。腕を取られて触れられたところが、遼子の柔らかいニの腕をまだ覚えている。うっすら笑いが浮かんでいたのかもしれない。向かいから来た森本肇に気が付かなかった。突然、声をかけられて、幸せな空気が弾けてしまった。

「なんでこんなところにおるん? 遼子ちゃんに会いにきた?」

「ノートを返してもらおうと思って」

「ふーん。用事が終わったら、さっさと戻って」

 言われなくても戻るつもりだった。

「なぁ。ソーダ。遼子ちゃんのこと、好きなんか?」

「ソーダ?」

「そーたやろ? 愛称やんか。プチプチ空気が弾けるソーダでええやん」

「良くない。別に愛称で呼ぶほど、仲良くないし」

 なぜか心の呟きを森本肇には口に出してもいい気がした。

「仲良くしよーや。同じ女を好きなもの同士」

「なんでやねん」とテレビで見たことがある台詞を言ってみた。

「うわぁ。イントネーションが気持ち悪い。…けど、ナイスツッコミやで」と親指を立てた。

「一回、言ってみたかっただけ」と言うと、本物の「なんでやねん」が返ってきた。

「ほんまになんでやねん…やけど。ソーダのこと、嫌いじゃないかも」

 熊のような大きな体をくねくねし始めている。言ってることと、その動きが面白くて、思わず笑ってしまった。

「…舞台監督じゃなく、お笑い芸人を目指したらいいと思う」

「なるほどな。遼子が気にいる訳やな。そんなこと、俺に言うやつおらんもん」と思いきり背中を叩かれた。

「っいた」

「またうちにも来て」と体育館のような建物を指差した。

 僕は底意地の悪い男なのだろう。遼子と学食でのランチを約束したと言うだけで、森本肇が惨めに思えて、優しくしてしまいそうになる。鷹揚に頷いた。軽い風が通る。道路を挟んで向かい側は僕の教室があるキャンパスだ。信号が青に変わる。後ろの未開地のような世界から抜け出した。

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