第3話 牛乳と曇り空
美術なんて、何の知識もない。中学校で習った色の輪っか、色相環で終わっている。それすらも「黄、黄色味の緑…」で止まってしまう。知ってる絵はゲルニカとモナリザくらいだ。そしてどちらの絵も遼子の絵とはほど遠い。僕は遼子の絵については…なんと言うか、綺麗とか美しいの範疇には入らない絵の具の暴力というか、狂気というか、家に置きたくはないものだった。
それはまぁ、いいとして、一番の問題は遼子の言っていることがさっぱりわからない。僕はなるべくシンプルに生きたい。難しいことは考えたくない。だって考えてみて。世の中は面倒臭いことで溢れているんだから。せめて自分の中くらいシンプルでいさせてほしい。そう思っているのに、遼子は面倒臭いことを考えるタイプらしい。絶対、いいところのお嬢さんで、きっと生活が良すぎて、毎日に退屈しているのだろう、とめちゃくちゃなプロファイリングをしてみた。こんなことを考えていることはすでに僕は面倒臭いことを考える人間になったのかもしれない。
毎日が単調でつまらなかった日々があっという間に変わっていく。週休二日が無くなったいうのに、僕は土曜日に大学へ行くことが楽しみで仕方がない。みんなは花金と言って夜遊びに出掛けているが、僕は土曜日のドイツ語再履修クラスへの遅刻厳禁のために早く寝る日だった。ドイツ語の授業を受けて、僕は必死でノートを取る。遼子は「後で、ノートを写させて」と言って、一度も自分が書くことはしなかった。そしてその後、遼子の絵を観に行く。僕が思うことを率直に伝えると、なぜか涼子は嬉しそうに聴いてくれた。きっと素人だからこその意見を知りたいのだろう、と思って、忖度なく言うことにした。
「グロテスクに見える」と言うと、
「それって最高の褒め言葉よ」と思ってもみない答えが返ってくる。
絶対、意思疎通が上手くいっていないと思うけれど、お互いに正直に言っている言葉なのだから噛み合わなくても仕方がない。嘘をついたとしても、綺麗な絵だとは言えないからだ。ところが、そんな嘘を調子良くつく男が現れた。
「遼子ちゃん。相変わらず綺麗な絵を描いてるん?」
熊のような大きな体を揺すりながら、遼子に近づいてきた。
「はー? どこが綺麗なの?」と迷惑そうな顔で答えた。
「いや、この歪んだフォルムこそ、美しい。隣におる人だれ? 浮気相手?」
「ソータ。私の救世主」
思わずそんなことを言われて顔が熱くなるが、遼子は棒読みの台詞だった。
「救世主? この男が? 細い、ひょろい奴が?」
「…。あの…誰ですか?」
「俺のこと知らんの? もぐりやな。俺は舞台監督を目指す森本肇」
そういえば、演劇コースとかもこの大学はあったな、と思い出して、やっぱりやばい人しかいないと言うのは本当だった、と思った。
「英文科の新田奏太」
「やっぱりモグリやん」
「モグリじゃないよ。ちゃんと芸術に向き合ってくれる人なの。…まぁ、知識はないけど」と遼子はフォローにならないフォローをしてくれた。
「そうやろ? 知識ないやつの意見聞いて、意味ある?」
「うるさいなぁ。あんたの演劇は専門家しか見ないわけ?」と遼子がくってかかると、熊のような体が一回り縮んだ。
「奏太、行こう」と言って、腕を引っ張られた。
そして駅までの途中のハンバーガーショップで遅い昼ご飯を一緒に食べた。幸せだった。嫌な男だと思った森本が現れてくれたおかげて、初めて遼子と学校外で時間を過ごせた。どこの高校だったか、何の曲が好きか、とか、初めてたわいのない話ができた気がする。
その幸せな土曜日の反動で日曜は体が重く、屍のようになって、一日中、引きこもって、美術の手引き書を眺めていた。どんなに眺めても、そこに遼子はいないのだけど。
まだ明けやらぬ早朝に女帝千佳が二度目の朝帰りをした。玄関を覗いて目が合うと、僕は黙って、トーストを焼いて、コーヒーを淹れた。
「どうかした?」と千佳に心配された。
「…? おにぎりがよかった?」
「いや、サービス良すぎて、気持ち悪い」
サービス良いなら、黙っててほしい。僕は女帝に従うつもりはないけど、無駄な軋轢を産みたくはない。
「いるかな…と思って」
「ありがと」
耳を疑った。女帝が謝意を述べた。
(いや、そっちの方が気持ち悪いだろう)という言葉は飲み込んで、引き攣った笑顔になった。
「…何か面白い?」と即座に暴君に戻った。
全く面白くないので無言で立ち上がって、牛乳配達に出かけることにした。玄関まで出てから、家の牛乳を冷蔵庫に入れ忘れたことに気がついた。千佳が入れてくれるかもしれないが、また何か言われるのも面倒だ。僕はそっと戻って、ダイニングを覗いて、…そのまま玄関に戻った。
あの千佳が声を殺して泣いていたからだ。後ろ姿だったけれど、確実に泣いているのが分かる。僕はなぜか衝撃を受けた。
姉は四つ上で、口も立つし、喧嘩も勝ったことがない。体格差ができた時には僕はもう姉を力でねじ伏せようという気持ちは持ち合わせていなかった。暴君さながらの横暴ぶりには困らされていたが、僕にとって姉は最強と言ってもいいくらい強い存在だった。
その姉が…泣いている。それはソ連が崩壊した時のような衝撃だった。
その日の朝は雲が垂れ込めていて、朝日はぼんやりと光るだけで、一層、曖昧な気持ちを膨らませた。配達を終えて、家に戻ると、ダイニングは誰もいなかった。暗いテーブルの上にはぬるくなった牛乳がびっしょり汗をかいていて、僕が焼いたトーストは一口も齧られることなくゴミ箱に捨てられていた。
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