第17話 使い捨てカメラ
遼子が驚くほど早く絵を描いたので、昼過ぎに終わってしまった。アトリエの写真を使い捨てカメラで何枚か撮っていた。
「本当は夜も来て、撮りたいんだけど」
「また来たらいいんじゃない? 来週土曜日だったら付き合える」
「うん。毎週デートのシール貼ったもんね。事務所行って、予約してくる」
僕は荷物と共に遼子が帰ってくるのを待っていた。窓から公園を覗く。家族連れ、恋人、友達、楽しそうにそれぞれの時間を過ごしている。いつか遼子は僕に恋をしてくれることがあるんだろうか。誰かの代わりではなくて。
階段を登って来る音がして、遼子が「予約できたよ」と声をかけてくれた。相当な荷物を二人で抱えて降りる。
「どんな絵を描いたの?」
鍵を返した時に管理人さんに言われて、遼子は「まだ途中で」と答えていた。僕の裸とわかる絵があるので、見せる訳には行かない。
「いつか、できたら見せて」
「はい」と笑顔で頭を下げていた。
僕は絵の具セットとスケッチブックを持った。遼子はキャンバスを持っている。
「この荷物、大変だから、家まで一緒に行くよ」
「…。うん。でもそれより、ピクニックしない? 隣の公園で」
「この荷物どうするの?」
「駅のロッカーに預けよう」
僕たちは地下鉄の駅にあるロッカーに自分たちの鞄以外、全部入れた。途端に身軽になる。
「ハンバーガー買って、公園で食べよう」と遼子は羽が生えたように軽い足取りで地下鉄の構内から外へ出る階段を登っていく。
僕も一つ飛ばしで階段を駆け上がる。遼子に追いついて、振り返って言った。
「ハンバーガーじゃなくて…ご飯が食べたい」
「ご飯? ライスバーガーあったはず」
「…OK」
僕がため息ついた瞬間、するりと脇を抜けて、出口まで一気に登って行った。そして上から「早く」と僕を急かした。
ランチの時間は過ぎていたが、店は混雑していた。確かにライスバーガーがあったので、それを食べることにする。
「なんで、ご飯がいいの?」
「朝、パンだったから」
「昼もパンじゃダメなの?」
「家でろくなもの食べないから、なんか選べる時にちゃんとしておこうと思って」
「ふーん」と頷いたかと思うと、遼子は「ちょっと家に電話してくる」と言って、僕にホットチリバーガーとオニオンリングとウーロン茶と言う注文を委ねて店を出て行った。
オーダーを終えて、出来上がりを待っている時に、遼子は帰ってきた。
「お金、渡すの忘れてた。いくらだった?」
「いいよ」
「悪いし。あ、それから、やっぱり家まで来てくれる?」
「…いいけど。これを食べたら帰るの?」
「ちょっとゆっくりして、夕方くらいに帰りたいんだけど、奏太は用事あるの?」
「全く、何にもない」
「じゃあ、うちでご飯食べない? お母さん、良いって言ってくれたから」
「え? 今、それを電話しに行ってたの?」
「うん。荷物運んでくれるお礼に食べて行って」と言って、千円札を渡してくる。
「晩御飯ご馳走になるから、これは受け取れない」
「良いの?」
「うん」
いきなり遼子の家に行くことになるとは思わなかった。荷物が多いから、家の前までは行こうかとは思っていたけれど、お邪魔することになるとは。髪の毛を切っていてよかったと思った。
出来上がった商品を受け取って、公園へ向かう。さっき見た景色の中にいる自分が不思議になる。
「奏太、あそこのベンチ空いてる」と言い終わる前に走り出していた。
僕も走って、追い越して、先にベンチに座った。すると遼子は笑いながら、そこに僕がいないかのように、僕の膝の上に腰を降ろした。
「いただきまーす」と言って、紙袋を開け始めたので、むっとして、後ろから紙袋を奪った。
「あ」
紙袋の中から、ウーロン茶を取って、膝の上の遼子に渡す。
「はい、どうぞ」
ウーロン茶を飲ませて、口封じさせたところで、オニオンリングを取り出して、僕が食べた。
「あ、私の」
「乗車賃です」ともう一個、食べた。
減ったオニオンリングの袋にポテトを足して渡した。ようやく遼子は膝から降りて、ベンチに腰を下ろし、足したポテトを抜き出した。
「嫌いなの。奏太、食べて」と言いながら、僕の口に近づける。
口を開けて、一本ずつ食べさせられる。
「最後」と言って、遼子は自分の口にポテトを挟んで突き出してきた。
口にポテトを挟んでいるから、言葉にならず、唸りながらさらに近寄ってくる。
僕は笑いが止まらなくなって、紙袋からもう一つのオニオンリングの袋を出した。遼子の目が大きく開かれると。ポテトが齧られて、地面に落ちた。
「二つ買ってたの?」
「うん。僕も食べたかったから」
「もう」と言いながら、僕に軽く体当たりする。
側から見たら、恋人同士に見えるだろうな、とぼんやり思った。横から手が伸びで僕の袋からポテトを取り出す。
「嫌いじゃなかったの?」
「本当は大好き」
僕はポテトの袋も遼子に渡した。するとまた口に咥えて近づいてくる。僕が拒否すると、あっさり食べてしまった。
「あ、じゃあ、写真撮らせて」と言って、使い捨てカメラを鞄から出した。
「写真?」
「奏太の。絵を描くときの参考にしたいから。いろんな角度で」
そう言って、フィルムを巻いて、シャッターを押す。何枚も撮るから、僕は恥ずかしくなった。
「ちょっと貸して」と使い捨てカメラを取り上げる。
「一緒に撮ろう」と言って、遼子と顔をくっつけた。
「ちゃんと撮れるの?」
「多分」とシャッターを押そうとした瞬間に、遼子の唇が僕の頬に触れた。
カシャ
「え?」と横向いた瞬間に、今度は遼子は自分の頬を僕にくっつけて、カメラのシャッターを僕の指の上から押した。
「いい写真撮れたかな? 楽しみ」とそわそわしている。
「今のは撮れないよ。フィルム巻いてないから」
「えー! もう一回、ちゃんと撮ろう」と言って、僕の手からカメラを奪って、フィルムを巻いた。
「はい、キス、して」と片方膨らませた頬を寄せてくる。
仕方ないな、と思って近づいた瞬間、今度は遼子が横向いて、お互いの唇をつけた。
カシャ
「今度こそ、いい写真撮れたかな」と遼子はにっこり笑う。
でも僕は現像する人がびっくりすると思うから、手ブレではっきり写っていませんように、とこっそり祈った。
公園には水位十センチ程度の人工の水場があって、子どもたちが声を上げて走り回っている。所々、小さな噴水もある。遼子はサンダルを脱いでその中に入った。
「冷たくて、気持ちいいよー。奏太も来たら」
(言われると思った)とのろのろと靴を脱ぎ、靴下を脱いでいると、遼子から噴水の水をかけられた。
「冷たっ」
「早く」
五月。光がきらきらどこもかしこも溢れている。遼子から飛んでくる水も輝きながら落ちていく。僕も遼子に水をかけたけれど、髪の毛に散らばって、水滴が宝石のようだった。その姿に見惚れていると、連続で水をかけられて、そのまま遼子は裸足で逃げていった。僕は急いで靴下は履かずに、そのまま靴をつっかけて、遼子のサンダルと靴下を手にして、追いかけた。遊び半分で走ってるのもあって、すぐに追いついた。ちょうど大きな木の下だった。
「足、怪我するよ」と追いついた遼子の腕を握る。
「うん。痛かった」
「靴、履いて」とサンダルを渡す。
僕も横で腰を下ろして、靴下を履いた。隣に座り込んで遼子はむすっとした声で言う。
「奏太…痛かった」
「うん」
僕は靴を履きながら、頷いたが、もう一度、はっきりと言われた。
「痛かった」
「え?」
僕は遼子の方をゆっくり見た。少し目の端に涙が出ている。
「痛かったって…え…あの…昨日の…」
「違う。ずっと…心が痛いの」
少し笑って、僕の肩に頭をもたせかけた。
「私、画家になろうといろんな人とデートして…それで…」
しばらく待ったが言葉は出てこなかった。
「言わなくていいよ」
「見当違いな努力して、自分のこと嫌になって、絵を描くのも嫌になって…。グロテスクな絵や、真っ黒な絵しか描けなくなって。もう息苦しくなって。そんな時に奏太に会って。奏太に甘えてしまって…ごめんなさい」
「僕は四月にドイツ語の再履修で君と隣になって、嬉しかったな。綺麗な子と隣になれたって喜んでた。内心、土曜日、ドイツ語のためだけに学校に行くなんて、本当に嫌だったけど。一番の楽しみになった。美術なんて興味なかったのに、何か共通の話題ができるように、本まで買って読んだりしてた。ちっとも内容が入らなかったけど」
「え? そんなことしてたの?」
「そう、残念ながら、結果は出せなかったみたいだけど」
我ながら悲しくなって、軽く笑った。
「そんなことない。奏太は私にとって、暗い世界にふと光を射してくれた人なの。もう絵が描けないって思ってたのに、奏太に会ってから…もっと綺麗な絵が描きたいって思えるようになれたから。本当に奏太は綺麗な人だと思うの。…わがままだと思うけど、しばらくそばに居てほしい」
「遼子の気が済むまでどうぞ。…あと、僕より、遼子の方が綺麗だと思ってるから、もう傷つかなくていいんじゃないかな」
「どう言うこと?」
「遼子が何を言おうが、しようが…、僕は君が好きだから」
それを聞くと、遼子は膝を抱えて、頭を落とした。
この大きな木が作る木陰のように、僕の近くで、しばらく休んで行ったらいいと思ってる。風がそよそよと揺らぎながら通り過ぎていく。
「遼子は絵を描かなきゃ…。それに男の子にとってはなんでもないことだから…」と僕が言うと、顔を上げて、困ったように笑った。
「結構、濡らしてしまって。寒くない?」
「今日は暑いくらいだからちょうどいいよ」
「私は奏太のために何ができる?」
本当の気持ちは言えなかった。僕に恋してほしいなんて。空を見ると、青空が広がっている。僕の縮まっていく気持ちとはまるで反対みたいに。
「…またライスバーガー食べたい…かな?」
君が欲しくて、君が欲しくて、心が小さく固くなる。
「明日、おにぎり作ってくるから。ランチ、一緒に食べよう」
そしていつか点になって、消えてしまったらいいのにな、と思う。遼子を好きな心が消えてしまえば、楽になれるのに。
「ありがとう。楽しみにしてる」
遠くで犬に引きずられるような子どもが見えた。楽しそうにバトミントンをしているカップルもいる。シャボン玉を飛ばす親子。きらきら眩しい世界の中で、僕はやっぱり透明になる。
「手を繋いでいい?」
不意に聞かれた。
「ずっと手を繋いでいたいの」
座って並んでいるのに、手を繋いだ。その手を持ち上げて、しげしげと眺める。
「細くて、長い指が好き。…骨張ってる手の甲も。少し浮いた血管も。奏太と繋がっていると安心する。奏太は綺麗すぎて…時々、消えそうだよ」
僕は遼子の顔を見た。
「奏太は…遠慮しないで。私のこと、好きでいて。私…奏太に惹かれてるから。かなり強く」
繋がれた手がぎゅっと強く握られた。
「でも…怖い」
「何が?」
「奏太が壊れてしまいそう」
「そんなに…まぁ、確かに強くはないけど」
「たくさん、我慢してるでしょ? いろいろ」
僕は何も言わずに頷いた。でも我慢じゃなくて、外に出す勇気がないから、自分のなかに閉じ込めているだけだ。
「私はずっと奏太とキスがしたかったから。あれこれしたのに」
「え?」
「奏太、好き」
通り過ぎた風がすぐにその言葉をバラバラにして去っていく。バラバラになった言葉がゆっくりと胸の中に広がっていた。
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