第44話 夕焼けまで

 週末は老犬と過ごすことになった。子犬の方は高田藍の娘さんが気に入ってくれたので、平日の夜と週末は預かってくれている。芝犬にも似た雑種の老犬はとても賢くて、穏やかだった。リードは僕が持っているが、遼子も散歩について来る。今日は最後のデートの待ち合せに行った川沿いのカフェに行く事にして、車で老犬も連れてきた。そのカフェにはテラス席だと犬も一緒に入ることができる。

「ハク」と白い見た目から名付けられた名前を遼子は呼んだ。

 吠えることなく、しっぽを二、三回振る。

「賢いねぇ」と言って、頭を撫でると気持ちよさそうにしていた。

 犬を連れていると、興味津々の子どもが近寄ってくる。ハクは噛むことがないから、好きなように触らせている。女の子の小さな手がハクの毛に埋もれて動くのを愛おしそうに見ている遼子を見ると、僕は少し辛くなった。ひとりしきり撫でると満足するのか、女の子はお礼を言って家族の元へと去っていった。気持ちのいい風が吹く川沿いをいろんなの人が通り過ぎていく。

「ハク、良かったねぇ。撫でてもらえて」

 遼子は僕の気持ちに気づいているのか、いないのか、笑顔でハクに話しかける。そしてハクの横にしゃがみ込んで、「ハクから見た風景も面白いねぇ」と言った。その横でハクが興味なさそうに大きくあくびをする。それを見て、僕も遼子も笑ってしまった。

「ハクは素直でよろしい」と言って、遼子は立ち上がった。

「私もリード持ちたい」と遼子が言うので、リードを持たせて、その上から手を握る。

 ハクは滅多に突然、走り出したりはしないけれど、他の犬に吠えられたりすると、驚いて逃げてしまう。

「犬と散歩するのが夢だったの」と言って、嬉しそうに笑う。

「飼ってって言わなかったの?」

「小さい頃、喘息を持ってて、動物は飼っちゃダメって…。今は平気なんだけどね。だから長年の夢が叶ったの」

「そっか。僕がまだ知らない遼子のことがたくさんあるな。他に何か希望はある?」

「…毎日が幸せで言うことない」と少し考えるようにしてから答えてくれた。

「良かった」

 失ったものや、できないことも多いけど、遼子は決して不満を口にしなかった。その代わり、よく笑って、楽しいことを僕に伝えてくれた。

「奏太は?」

「…事務の人も来てくれたし…。特には…あ、そうだ。最近、南さんと近藤君が二人で僕のところに来て、スタッフが増えたからいいかもしれないけど…、あーだ、こーだ、と改善点を上げてくれて…。それはいいんだけど、いつも僕のところに来て言い合いになって…。二人とも違うこと言うし。それぞれ間違えたこと言ってないし」

 遼子は僕を優しい目で見た。諭されるような、なんとも言えない気分になる。

「ちょっと面倒になってきて…」

「それでどうするの?」

「両方の意見が通るように、苦心してる。この間は近くの農園を借りて、じゃがいもを植えたいという南さんと、土を触りたくないからか、小さな庭に木の家を作りたいっていう近藤君が騒いでて…」

 遼子は黙って、ため息を吐く僕を見た。

「どっちも二人で協力してやってくださいって。どうしていちいち、僕の前で二人で騒ぐ必要があるんだろう?」

「楽しそうね」

「え?」

「じゃがいも植えるのも、家を作るのも。だから二人ともわくわくしてしまうのかもね」

「自分達の意見を通そうとして、わざと僕の前で騒いでるのはわかってるんだけどね。普通に相談してくれたら良いのに…」

「あ、でも。二人の中では決まってるのかも。庭にお家を建てるから、農園借りて、じゃがいも植えるんじゃないの?」

 僕は遼子を見た。

「じゃあ、なんで、最初っからそう言ってくれないんだ?」

「奏太のことが好きなんじゃない?」

「え?」

「奏太のことだから…、今は二人に任せっきりなんでしょ? 信頼してるからって」

「だって、もう二人とも立派に仕事してるし、二人で話し合って決めてほしいのに」

「…仲間っていう意識があるのかも」

「仲間ねぇ」と僕は首を傾げた。

 確かに最近、アフタースクールの新教室開講で忙しくて、二人との関わりが以前よりは少なくなってきている。

「奏太って優しいけど、時々、冷たい時は冷たいもの」

「え? 遼子に冷たくしてたことある?」

「ううん。でも距離を取られてたことはある。ずっと前だけど」

「…それは自分の気持ちを自制するために」

 遼子が好きだったけど、違う人を好きな彼女を思って近くにいるのは辛かった。だから確かに距離を置いていた。

「私が言える立場じゃないんだけど、ずっともっと近くに来て欲しいって思ってた。それと一緒かもね。自分達でできることなんだろうけど、もっと一緒に考えて欲しいんだと思う」

「確かにここのところ、新しいアフタースクールのことで頭がいっぱいだったし、忙しくてイライラしてたかも」

「だって、今までの奏太だったら、きっとそんな二人を笑って見てたと思うの」

「え? あ…」

 確かに僕は今、少しも笑えてないどころか、そんな二人に苛立つこともあった。仕事が山ほどあるから自分を追い込んでいたけど、結果、それは周りの人にも当たってしまっていた。遼子は気づいてたのに黙って見ててくれていたのだろうか。

「少し…忙しそうだなって思ってた」

「あ、ごめん」

「ううん。謝って欲しいとかじゃなくて…。あの…疲れてるかなって心配してたの」

 驚いて遼子の顔を見る。

「大学の頃もそうだったけど、常に一生懸命で…きっと奏太は気づかないうちにそれが当たり前になってて、…だから自分が疲れてても気づきにくいのかも。仕事のことも一生懸命で、私のことも頑張ってくれてて…。二人はそんな空気を感じて、無意識でそうしてるのかも」

 僕の中でぱちんと何かが壊れたような音がした。今まで分厚いガラスの中に入っていて見えにくかった外の景色が、ガラスが割れて世界が広がりクリアになった。

「本当だ…。一つ走り出したら、次から次へとやることが増えて…。それに追われてて一杯一杯だった。…ごめん。何にも分かってなかった」

 僕は遼子の手の上に重ねていた手を外した。リードはしっかり遼子の手の中にあるし、ハクが走り出してしまうこともない。僕は何を怖がっていたんだろう。

「奏太はずっと私に対して、贖罪の気持ちがあって、それで一生懸命してくれてるけど…それが奏太を苦しくさせてるなら…それは私が望んでいることじゃないの。家だって、私のためだけにあるようにしてくれて。でも…私は家がどうでも奏太と一緒にいれたらそれでいいの。奏太が側にいてくれて、笑ってくれている方がずっと良いから」

 物凄い衝撃が僕を襲った。

「…喜んで欲しくてしてたことなのに…いつの間にか…」

「ううん。それは本当に嬉しいの」

「僕はどうしたらいいと思う? ハク?」と僕はハクに聞いた。

 ハクは名前を呼ばれて、こっちを見て、しばらくするとまた顔を前に向けた。

「ハク…走って」

 なぜか遼子の言葉が分かるようにハクが駆け出した。僕は慌てて遼子を追いかけて、ハクのリードを遼子の手ごと後ろから掴んだ。右手の上に右手が重なって、僕の中にすっぽり収まるように遼子がいる。

「突然、走るからびっくりした」

「あの時と同じ」

「え?」

「お別れした日も…追いかけてきてくれた。奏太の腕、今でも変わらず綺麗」

 変わらないはずない。肌も随分ハリもなく、やはり歳を重ねた皮膚をしている。それを見ても、遼子はそう言ってくれる。

「…ありがとう。教えてくれて」と言って、遼子の髪にキスをした。

 もう走り出さないと思ったから手を離して、体を離した。そして遼子の横に並んだ。

「僕はハクと違って、走り出したらきっと気づかないまま、ずっと走ってしまうんだね。無理に気づかないってことを遼子に教えてもらった」

「私は病気だから…無理できないから、無理しないようにしてるの。だからちょっと感謝してるかな。元気だったらきっと分からないことたくさんあると思うから。…でも今日は少し走ってみて、気持ちよかった。それに奏太に抱きつかれたし」

 もう若くはないから、すぐに離れたけれど、若かったあの日、遼子が腕の中にいて、これが永遠だったらいい、と思っていた。永遠ではないけれど、今、僕は遼子と並んで歩いている。

「あ、あのカフェ、店が変わってる」

「本当だ…。少し休憩しよっか」

 僕たちはハクと一緒にカフェに行った。テラス席でハクと遼子がいると、通り過ぎる人が声をかけたり、撫でて行ったりしてくれる。カウンターで注文しながら、横目でそんな風景を眺めていた。セルフサービスの店なので、僕が冷たいアイスティを運んだ。

「お待たせしました」とふざけて言ってみる。

 遼子は日差しが眩しいのか、目を細めて僕を見た。

「あ、天使が来た」

 僕は思わず吹き出しそうになって、慌てて、アイスティーをテーブルの上に置いた。

「逆光だから見えてないでしょ?」と遼子に聞くと、ゆっくり微笑んだ。

「ずっと奏太は私の救世主だから」

「…最近はごめんね」

「もう謝らないで。奏太が私に幸せでいて欲しいって思ってるのと同じくらいに私もそう思ってるから。二人で楽しい時間をたくさん作ろう」

「うん。仕事は少し減らせるように考えてみる」

「だって私、せっかく奏太のところに帰ってきたんだから…。あ、違うかな。奏太が私のところに帰ってきたのかも」と意地悪な顔で言う。

「謝らないでって言われたけど、それはごめん」

「それについては謝罪を受け入れます」

 目一杯入れられた氷がアイスティで溶けて、綺麗な音を立てる。強い日差しが差して、光がきらきらと降り注ぐ。

「もうすぐ夏だね」

 遼子がそう言ったのを僕はぼんやり聞いていた。何か心に引っ掛かりを覚えて、考えた。夏に何かしようとしていたはず…。

「旅行」と思わず口についた。

「忘れてたでしょ?」

「うん。本当に僕は…ここしばらくはどうかしてた。時間の感覚がなさすぎる。…あの時行けなかった、沖縄行く?」

「…もう若くないからビキニも着ないし、北海道にしよう」

「え? 楽しみにしてたのに。遼子のビキニ…」とため息を吐くと、遼子が笑った。

「私も奏太のヌードモデルをまだ心待ちにしてるんだけど」

 僕は首を思い切り横に振った。

「今度、そんなことをするなら、パーソナルトレーナーをつけて、ジム通いしなきゃなくなる」

「大丈夫。人生は『今』が一番若いから」

「それは…そうだけど。誰が中年の裸の絵を見たいと思う?」

 遼子は真面目な顔で自分の顔を指差した。これはきっと本気だ。僕は近々ジムに入会しなければいけない気がしてきた。

「よく画家で愛妻を描いたって聞いたことあるけど、その逆はあんまりないと思うけど?」

「世界初になれるかな?」

「いい。いい。ならなくていいから」

 僕たちはくだらないことを話して、よく笑う。それはずっと変わらない。

「奏太の絵を私の葬儀で会場の全面に飾ってもらう」

「…来てくれた人、かなり困惑させてしまうと思うけど。僕はもう先に亡くなってるからいいけど」

「だめ。奏太は長生きして、ちゃんと私の葬儀には奏太の絵を飾ってもらうんだから」

「…そんなお葬式会場だと、喪主として挨拶もできないし、涙も出ないよ」

 想像したのか、遼子も吹き出した。

「私のお葬式なのに、ふふ…奏太のヌードの絵がたくさん。奏太もみんなも…ふふ…困ってるのが想像できる。ふふふ。絶対、やらなきゃ」

 僕も想像して、おかしくなってきた。僕の絵に囲まれて、僕が一人で立っていて、その後には遼子の遺影があって…僕が見られているような…。

「ちょっとした狂気を感じるよ」

「だって…好きだから。ずっと」

 そう言って、見つめられると今だに胸が詰まって言葉が出ない。

「僕も…」

 ハクが足元でくしゃみをした。

「あ、そろそろ行く?」と遼子が椅子から立ち上がった。

 日が長くなってきて、まだ日が沈むには時間がある。でも一度、家に帰って、ハクにご飯を食べさせて、僕たちも外食に行く予定だ。

「ハク、帰るよ」と言って、遼子がハクの頭を優しく撫でる。

 撫でられながら、大人しく目を瞑っているハクが少し羨ましく思う。するとなぜかハクが目を開けて、こっちを見た。

「ん?」と言って、遼子も僕を見た。

「気持ちよさそうだなぁって思って…。あと、少しやきもち焼いた」と正直に伝えた。

 遼子の手が僕に触れる。そのまま手を繋いで、リードを僕に預けた。そして僕は少し止まって、遼子にだけ聞こえる声で「好きだ」と言った。

 こんなので約三十年の僕の思いは伝わっただろうか。君が僕の絵を葬儀で飾ると言ってくれたのは奇妙なアイデアだけれど、気持ちは届いた。絵は描けないから、違ったもので何か伝えたいと思う。できれば奇妙じゃないアイデアで君に伝えられるといいな。

「ありがとう」と微笑んでくれる。

 笑うとできる目尻の皺さえも本当に愛しく感じる。

「奏太」

 柔らかい声が風に乗って、流れていった。ハクはのんびりと歩いている。その姿を見ていると、僕は少し急ぎすぎたかもしれない、と思わさせられた。週明けに仕事に行ったら、二人の話をじっくり聞いてみよう。そして何かあったら、きちんと相談してもらえるように伝えてみよう。新規の仕事は一度白紙に戻して…と僕が考えていると、遼子が空を見ながら歩いていた。

「何見てるの?」

「空。同じ空なのに、世界中同じ空なのに、違って見えるね」と言って、目を閉じた。

「そして奏太といると、少しも淋しくない。私、ずっと一人で空の下にいたから」

 遼子がスペインにいて、まだ完成していないサグタラファミリア教会の下で、空を見上げていた時も、タイのバンコクの雑踏で空を見上げていたときもずっと一人で淋しさと一緒だったのだろう。

「もう一人にしないから」

「絶対よ? 地球二周半して帰ってきたんだから」

 青空に浮かぶ白い雲の列がふわふわ流れていく。いつかの同じ道を違う気持ちで歩いている。僕たちは長い時間をかけて、その間に、懐かしい友人や…あらゆる機会も失ったけど、ようやくこの場所まで戻ってこれた。最後のデートの日、遼子の向こう側に落ちる夕日が眩しくて、いろんな想いを抱えて目を細めた。自分の気持ちに蓋をして、駅まで歩いたことを思い出して、ゆっくり息を吐いた。あの時、手放した彼女が今、横にいる。

 この場所で改めて迎える言葉を伝えた。

「遼子…おかえり」

「ただいま、奏太」

 遼子が横にいる僕を見た。そして背伸びをして僕の頬に唇をつけて、すぐに離す。その後は、僕の近く側の頬を膨らませて、近寄ってきた。人はまばらながら歩いている。懐かしいな、と思って、僕はキスをした。予想通り、頬ではなくて、遼子がまた横を向いて、唇に、でも今日はちゃんと確認してキスをした。キスをされて、遼子は笑っていた。

「もう分かってた?」

「その手口は二回目だからね」

 繋いだ手の柔らかさを確かめてゆっくり歩く。ハクは僕たちのペースに合わせてくれる。まるで僕たちの散歩にハクがついてきたみたいだ。空や川を眺めたり、近寄ってくる子どもと触れ合ったりして、十分楽しんでから…。

 そして家に帰ろう。

 西の空が夕焼けを迎えるまでに。

 

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