第43話 五月の風
雑誌の影響は大きかった。年開けて、新しく開校した駅前のアフタースクールはすぐに満員になり、また新しい教室を探す必要がでた。僕は午前中はフリースクールに顔を出して、午後からは新しいアフタースクールの方に出かけていた。その間、近藤礼央が代理でいてくれる。南友梨は主任になって、新しいスタッフに指導もしてくれていた。
アパートから二人の新居への引越しも無事に済んだ。結局、平家を買って、リノベーションをすることにした。遼子のアトリエ、寝室、ダイニング、バスルーム、小さな庭。遼子のアトリエを大きく取りたかったので、リビングは無くした。でも遼子のアトリエにはソファがあって、遼子が絵を描いてる横で時々、僕はそこでゆっくりしている。でも仕事が忙しくて、そんなに頻繁にお邪魔できていない。
山盛りのソーセージを目の前に、ビールの缶を開けた。ドイツフェアをしていた、と言って遼子がいろんな種類のソーセージを買ってきてくれた。
「…結婚したのに…思ったより一緒にいる時間は少ない」と僕がぼやくと、遼子が「私は夜一緒にいられるから嬉しい」と笑う。
僕は相変わらずおやすみ三秒なので、たまに悪戯されて、朝起きると、髪の毛が可愛いゴムで結ばれていたりする。
「新婚旅行だって行けてない」
「スペインに行きたいね」
「…うん。すぐに海外は無理かもしれないけど、国内でどこかに行きたいな」
「夏休みかな?」
「そうだね…」
遼子は大学で学生に指導している。休みの日は家で制作をしていて、個展も予定している。
「学生時代ってものすごく時間があったなぁ」
「そうね…。でも私はそんなに変わらないかも…。時間に縛られるくらいかな。…奏太は確かに忙し過ぎるかも。体も心配。あ、そうだ」
そう言って、遼子は鞄を取りに行って、その中から二枚のチケットを取り出した。
「これ、行かない? 今の演劇科の学生さんが大学で上演するみたいなの」
「え?」
「昔、奏太がチケット買ってくれたことあるでしょ? だから今度は私が買ってみたの。新しくなった校舎も見て欲しいし」
「分かった」
思い出の場所が変わってしまったのを見るのは少し怖い気もしたけれど、遼子からのお誘いを断ることはできない。
「おにぎり、食べたいな」と遼子が言うので、冷凍ご飯を解凍して、僕が塩おにぎりを作る。
「奏太のおにぎり美味しいね」と言って笑うから、僕はおかしくなってしまう。
「具が入ったら、もっと美味しいんだけど。今日は何もなかった」
「いいの。ソーセージあるから」
なるべく手を使う仕事は僕がやるようにしている。「ちゃんと動くよ」と手をひらひらさせるけれど、ゆっくり慎重に動かしているのを見ると、僕がやった方が早いし、遼子の手は絵を描くのに使ってほしい。それでも僕は仕事で遅くなることが多いので、そういう時はお惣菜を買うか、道具を駆使してご飯を作ってくれる。
「奏太の手は相変わらず格好いい」
「あれ? 腕じゃなかったっけ?」
「腕も。手も。全部」と言って、美味しそうにおにぎりを食べる。
そんな遼子を見ていると食べたくなってきて、僕も自分の分を作ることにした。
「そういえば…僕を描いた絵って…どうしてる?」
「あれね。大切にしてるから、こっそり見てるの。だって他の人に見られたくないもん」
「まぁ、僕は自分でも見たくはないけど」
塩おにぎりを作りながら、うっすら記憶にある絵を思い出していた。何かを思いついたのか、僕のことをじっと見てから言った。
「またモデルしない?」
それだけは丁寧にお断りした。牛乳配達もしていないし、立派な中年の身体になりつつある。全てのパーツをダビデ像と取り替えてもらわなければいけない。
遼子が買ったチケットは土曜の昼からの公演だった。僕は朝、少しだけスクールに出かけて、仕事を済ませてから遼子と出かけた。もう待ち合わせをする必要もない。一緒に家から出るのだから。
本当に久しぶりに母校に行ったけれど、知ってる人は誰一人いなかった。あのお世話になったチンに似た先生も随分前に定年を迎えていた。
「よく奏太を迎えに図書室に行ったねぇ」
「そうだね。本当に、あの時は毎日、毎日通ってたのに」
やはり土曜ということで、生徒も少ないし、授業も少ないせいか、校舎は眠たそうに静かだ。一般道路で分けられた向こう側の校舎に向かった。中に入ると、もうお化け屋敷はどこにもなくて、低い校舎があった場所にタワーの校舎が建てられていて、拾い放題だった落ち葉を落としていた植木も整備されていた。
「ここ…どこ? っていうくらい変わってる」
「そうでしょ? 奏太と座ってお弁当食べた建物も無くなったし、私が絵を描いていた倉庫みたいな建物もないし…」
もう僕の思い出は完全に記憶の中にしかない。それも薄れてきている。
「演劇科はこっち」と遼子に言われて、歩きだすと、前から来た女の人が「あ」という顔をする。
遼子も頭を下げるので、知り合いの先生同士かと思い、僕も軽く頭を下げた。
「倉田先生、あら、あの…この人と結婚したの?」
「この人?」と不思議そうに聞き返す。
僕も首を傾げた。
「あ、ごめんなさい。あの、昔、ここで一緒に踊りましたよね? ほら、アバのダンシングクイーン」
「…え? あ…踊りました」
「素人の見本で」と嬉しそうに話しかけられる。
「下手でしたよね」
「いいえ。立派な見本でした」
変な褒められ方をしてどう反応していいのかわからない。あの中にいた人が今ここで講師をしているようだった。
「でも大変だったでしょう? いきなり連れてこられて、踊れ、なんて」
「はぁ、そうですね」
「そんなことする人じゃないんですけどね。いつもは本当に優しくて…。でも度々、あなたと一緒のところをお見かけして…。楽しそうに地元の言葉で喋ってて、ふざけ合ってて、仲良いんだなって思ってました」
「…いや。実は卒業後は連絡も取ってなくて。…あの…彼はいつも関西弁で喋ってなかったんですか?」
「みんなに言うときは関西弁でしたけど、一対一の時は何ていうか、無理した標準語でした。だから気軽にあなたに関西弁で喋ってるのを聞いて、ちょっとびっくりしたというか、なんかずるいって思いました。だから覚えてるんです。それで…あの日、彼が亡くなった日…、私も一緒にいて、とっても楽しそうに昔の話してたんです。大学の時に仲良くしてた人が雑誌に載って、なんだか偉いことをしてるって。俺もいつか彼に気づいてもらえるぐらい頑張るわって」
「え?」
「あの伝説の踊りの下手だった人? って聞いたら、笑いながら頷いてました」
「伝説…になってたんですか」
「あぁ、すいません。二、三代までは語り継がれてました。でも『いつか俺の作品に気づいてくれるまで…、多分、近いうちに気づいてくれると思うから…きっと次の作品で分かってもらえるように頑張る』って言ってました」
僕は何も返せなかった。
「それで、あの日、階段から落ちたのは、多分、階段でステップ踏んでたんだと思います。とっても嬉しいと彼…踊り出すから。トイレに行ってくるって言って…」
沈黙が流れた。でも僕が考えていた原因とは違っていて、彼は幸せで笑っていたということを知って、それが多少なりとも僕によってもたらされていたとしたら…やっぱり複雑な気持ちになった。行き詰まったり、悲しい思いをしたりしていたんじゃないと知れたことは良かったけれど。
「今日は生徒たちの劇を観に来てくれたんですよね」
「はい」
「ぜひ、楽しんでください。彼の次の作品ではないですけど…。これは、彼が学生の頃に作った、あのダンシングクイーンで踊る作品ですから」と言って、笑顔を見せる。
「…ありがとうございます」
僕はどうして、いつもいつもこう時間を無駄にしてしまっていたのだろう。お互いに会釈をして、彼女が通り過ぎていくのを見送ると、初夏の風が通り抜けた。
五月。遼子といた季節。森本肇とも知り合った。場所はすっかり様変わりしてしまって、同じ季節の違う場所。でも吹き抜けていく風の中、僕は昔に戻った。今にも背中を強く叩かれる気がする。いつも強く叩かれて、怒っていたけれど、それなのにもう叩く人がいなくて、初めて淋しさを感じた。
「奏太…行こう」
遼子と別れたことについても怒ってくれた。疲れた顔の僕を心配もしてくれた。会えばいつも声をかけてくれた。僕は何も返せないまま、彼を忘れ去っていた。
僕があまりにも動けなかったので、いつものように遼子がそっと手を繋いでくれる。
「自分のことばっかり…」
「そんなことないよ。そんな風に森本君は思ってない。きっと、『やっと来たな』って笑ってくれる」
遼子の言うとおりだ。森本肇の笑顔が鮮烈に胸に蘇る。また乾いた風が二人の間を通っていった。背中を叩く人はいないけれど、少し風に背中を押されたような気がした。
劇は学生たちの素晴らしいダンスに圧倒された。昔の学生も上手にダンスを踊っていたと思っていたけれど、今の子達はリズム感もいいし、動きも切れがある。素人臭いダンスの演技は特によくわからないけれど、きっと僕より上手く踊れているはずだ。
見終わって、遼子と二人で表に出たところを二人の女子学生に声をかけられた。
「倉田先生ー。あれ? 旦那さんですか?」と隣にいる僕を見て、学生が言う。
「そうなの」と言って、笑いながら僕の腕を取る。
「あ、優しそうな旦那さんですね」と僕についての感想を言ってくれた。
多分、特に感想も何もない時に便利な「優しそう」を使ってくれた。
「学生の頃から、ずっと好きだったの」と遼子が言うから、学生たちが驚いて、何も言えなくなってしまっていた。
「…僕もだけどね」と言ってみた。
さらに学生たちは驚いた後で、「えー。いいなぁ」と騒ぎ始めた。
その二人が恋をしているのか、していないのか、うまくいってるのか、いっていないのか分からない。でもはしゃいでいる二人がとても眩しかった。若さという時間はいつもきらきらと輝きを反射させながら周りを眩しくさせる。
「じゃあね。課題、ちゃんとやってね」と言って、遼子は僕を軽く引っ張った。
「はーい」と元気よく返事して、二人は絵画の校舎の方へ行った。
「なんだか本当に若いなぁ」と僕が二人を見て言った。
「そうなの。それにみんないい子でびっくりしちゃう。擦れてる子なんて本当にいないの」
「遼子だって擦れてなかったよ」
「…私はそんなんじゃなかったもの…」と遠くを見るような目で言った。
「もし今、時間が戻ったら…僕はどうするかな」
「…私は奏太を置いて…海外に行けるかな」
「…行かせる。それは絶対にそうする」
遼子は驚いたような顔でこっちを見た。
「今の時代は、離れていても毎日繋がれるから…別れることはしないけど…」
「いい時代になったね。…別れなくてもいいもの」
あの頃は電話で話をするのもお金がかかった。近くにいるなら、会ってお茶した方が時間を気にせず話せた。国際電話は驚くほど高額で、滅多にかけられるものじゃなかった。今なら別れという選択をしなくても…とは思う。でも僕もその選択をしたことで自分の人生を改めて考えられた。もし今の時代なら、僕は就職を選んで、働きながら世界中を旅する遼子とビデオ通話をしていただろう。でも…もしかしたら生活の格差を感じて、結局、気持ちも離れてしまって、別れていたかもしれない。もしの世界ですら僕は悲観的になってしまう悪い癖がある。
「いいことも悪いことも自分の力にしていかないとねって…そんなこと、言ってたな」
「…森本君?」
「うん。どんな選択をしても…自分で正解にするんだって。正直、後悔ばかりでできたかは…わからないけど」
「私が隣にいるのに?」と言って僕の顔を覗き込む。
「夢みたいだ」
「別れてたからかもしれないけど…奏太のことが毎日好きで、幸せ」
「一緒にいてたとしても…僕はそうだけどね」
繋いでいた手に優しくキスをされた。
だってこんなに美しい人だから。
僕は永遠に恋をする。
玄関口で南友梨と近藤礼央が何か言い争いをしている。僕が口を挟むとややこしそうだったので、そのまま事務室に行った。何かあったら、どっちかが報告に来るはずだ。事務処理をしてくれる人が来るまでもう少し僕が領収書を処理しなければいけない。しばらく事務をしていると、予想していた通り、南友梨が階段を上がってくる音がした。
「どうしました?」
ドアが開くとすぐに僕は聞いた。
「犬です」
「保護犬の件ですか?」
僕は保護犬を貰い受けて、ここでみんなのパートナーになってもらおうと思っていた。
「子犬と老犬、どっちを引き取るかで揉めてるんです。近藤さんは子犬がいいっていうんです。老犬は…」
「近藤さんは繊細だから、耐えられないんでしょう」
「そうですけど、命って、限りがあるのは仕方のないことでしょう? だから…辛いことだけど…それだってみんな、経験として学ぶべきだと思うんです」
「南さんの言うことは正しいです」と言うと、南友梨は満足そうに微笑んだ。
すぐにまた階段を上がってくる音がする。次は近藤礼央だ。ドアが開くと同時に僕が言った。
「子犬の件ですよね」
「僕は子犬だって、みんなの責任感を育てられると思うんです」
僕はため息をついた。どうしてこの二人はいつもこう正反対なんだろう。うまくいくこともあるけれど、反発することの方が多くなってる気がする。二人でうまく擦り合わせて欲しいと思っているのになかなか上手くいかないようだ。
「二人とも正しいですよね。だからこの話は…決着がつきません」と言った。
「じゃあ、どうすればいいんですか?」と南友梨が食いつくように僕に言う。
「二匹引き受けたらいいんじゃないですか」
僕もやけくそになって言った。
子犬は遊びたがるから、子ども達と一緒に遊べるだろうし、老犬は愛情を持って接することを学べるはずだ。二匹飼って、悪いことはない。経費が嵩むくらいだ。
「ほらね」
「本当だ」と二人は顔を見合わせて言った。
「何がですか?」
僕は微笑み合っている二人を見た。いつの間にこんなに仲良くなったのだろう。
「私が、こうしたら、新田さんは二匹飼いなさいって言うって思ったんです。作戦です」
「…僕はただ子犬も引き取りたくて」
「二人で…騙してたってことですか?」
ちょっと苛立ってしまった。普通に相談してくれても僕はきっと二匹飼うように言った、と思う。多分。
「ごめんなさい。でもどうしても意見が割れたのは本当なんですよ」
僕は机をこつこつ指で弾いた。本当にこの二人は…意見を揃えてくれない上に…都合の良いように僕を使うことを覚えてしまって…、全く困ったスタッフに育ってしまった。
「夜は僕の家に帰るんですから…二人とも愛情かけて二匹を躾けてくださいね」
最敬礼をする南友梨と深々とお辞儀する近藤礼央に保護犬の手続を進めるように言った。嬉しかったのか、思わず南友梨が近藤礼央の手を取って喜ぶ。一瞬、近藤礼央が固まったような気がしたけれど、見ないふりをした。
「早く出ていってください。計算の途中ですから」と僕は二人を追いやった。
新しいスタッフも増えて、子どもたちの数もほんの少し増えた。今度は保護犬もやってくる。僕は早く事務処理をしてくれる人が来ることを祈るばかりだ。
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