第21話 夜の雨

 家に帰ると誰もいない。みんなそれぞれご飯を外で食べるのだろう。僕は落ち着いたとはいえ、まだクレープの甘さがもたれていたので、晩御飯を食べる気になれなかった。シャワーを浴びて、そのままベッドに入った。いつもより早い時間だったと思う。雨が降り出していた。気がつくと階下から電話の音が聞こえる。雨音と、電話の音で目を覚ました。なぜか僕は起き上がって、下に降りた。喉が渇いていたと言うのもある。でもその時、なぜか電話に出ようと思った。鳴り続ける電話の受話器を持ち上げる。

「もしもし」

 寝起きで喉が渇いていたと言うのもある。いつも以上に低い声が出た。相変わらず、無言なのかな…、と思った時、小さく震える声で「もしもし」と聞こえた。僕はついに無言電話の相手の声を聞けたことに、一種の感動を覚えた。

「お嬢さん…いらっしゃいますか」

「え?」

「新田千佳さん。…多分、うちの主人…沢田と一緒です」

 僕は言葉が出なかった。

「娘さん、主人と浮気して…」

 父と思って僕に話しかけているようだった。

「あの…。ほんと…ですか?」

 言いながら、僕は朝帰りした時の泣いていた千佳を思い出した。

「はい。本当です。探偵に…お願いして…証拠もありますから」

「やめさせます。必ず、必ずです」

 僕は繰り返して言った。電話口で聞こえた赤ちゃんの声。震えるような奥さんの声。何度も掛けてきていた無言電話。きっと今日まで勇気が出なかったんだろう。

「…よろしくお願いします」

 僕は相手の電話番号をメモして、電話を終えた。僕は受話器を戻すこともできずにその場にしゃがんだ。

「何、やってんだ」

 ツー、ツー、という通話が切れた音と、雨の音がずっと続いている。僕はどれくらいそうしていただろう。玄関が開く音がして、慌てて受話器を戻した。そして冷蔵庫を開けて、ペットボトルのお茶を出した。

「起きてたのか?」

 台所に顔を出したのは父親だった。まだ話さない方がいい気がして、僕はお茶をコップに入れて「もう寝る」と言って、飲んだ。とりあえず、千佳と話してみなければいけない。父親に言うのはそれからにしようと思った。

「お茶、入れてくれ」

 そう言うので、ガラスコップを取って、お茶を入れて渡す。

「ご飯食べたか?」

「うん」と嘘をついた。

「そうか」

 そう言って、お茶を飲み干して立ち上がった時に、また玄関が開いた。今度は千佳だった。

「あら、珍しく起きてるのね」と顔を出して、言う。

「電話が」

「また? 迷惑な話よね。私もお茶」と言ったけど、僕が動く様子がなかったので、ため息をついて自分でコップを出してお茶を入れた。

 父親はいつもと様子の違う僕たち二人を見比べたけれど、先に風呂に入ると言って、出て行った。僕はペットボトルを冷蔵庫にしまって、振り返った。

「どっちが迷惑なことしてるの?」

「え?」

 お茶を飲んでいたが、動きが止まった。

「無言電話。相手の…奥さんから電話だった」

 千佳はじっと僕の目を見ていたが、僕はいつものように逸らすことはしなかった。

「このまま付き合うつもり? 赤ちゃんもいるのに? 別れるつもりないなら、みんなで話し合いしなきゃいけないけど、それでいい?」

「…奥さん? 誰それ? 赤ちゃん?」

 全く身に覚えがないように聞き返す。

「無言電話は沢田さんの奥さんからだったんだ」

「え? 沢田さんの奥さん? …どう言う…こ…と」

 理解できないと言うように、首を横に振る。

「沢田さんと付き合ってるんじゃないの?」

「だって、一人暮らししてるのよ。ワンルームで赤ちゃんなんて…。土日だって会ってたし、先週は用事が…」

「え? 結婚してないの?」

 僕はどう言うことか、誰が正しいのかさっぱり分からなくなってきた。

「してないって思ってた…。別に聞いたわけじゃないけど」と千佳が呟いた。

「同じ会社の人じゃないの?」

「取引先の人よ」

「電話してみたら?」と僕は電話番号を書いたメモ用紙を渡した。

 千佳はそれを持って、電話機の前に立った。電話をする勇気が出ないのか、しばらくそのままだったが、僕はずっとその背中を見ていた。

「ねぇ、いつか…朝泣いてたのはどうして?」

「…結婚できないって言われて。したくないって。好きだけど、結婚はしたくないって」

「…結婚できないって言われたのに、そのまま付き合ってたの? もしかして何か気づいてたんじゃないの?」

「おかしいとは思ってた。何かが。でも何があるのかは考えたくなくて」

「このままでいいわけないから、電話してみなよ。もしできないなら、僕がするから」と言って、千佳の横に立った。

「大丈夫」

 そう言って、電話をかけた。三回コールが鳴った後、受話器が上がった。

「もしもし…新田千佳です。沢田さんの奥様…ですか」

「はい」

「沢田さん…結婚されてたんですね」

「知らなかったんですか?」

「…はい。一人暮らししてたから独身だと…思ってました」

「そんなこと、通用すると思ってるんですか」

「…あの…私もさっき聞いて、驚いてて。本当にごめんなさい。あの…もしかして…単身赴任されたって言うことですか?」

「そうです。私が出産したばかりで、私は自分の実家で世話になってて、達也は…単身赴任してました」

「そう…ですか」

「あの、分かってますか? 不倫ですよ」

「…」

 千佳の頬を涙が伝った。

「はい。…もうお会いしないと…約束します」

「えぇ。でも約束を破られたなら、それ相応のことをさせていただきます」

 その後、二、三度、謝っていた。僕は横にいて、気の弱い奥さんだと思っていたけれど、不倫相手にはきっちり言えるんだな、とぼんやり考えていた。ようやく受話器を置いて、まるでさっきの僕のように床にしゃがみ込んだ。

「ほんとなの?」と言って、蹲る。

「最低なやつじゃん。赤ちゃんいて大変な時に浮気できる男だよ?」

「…そうね。先がなくて…いつもどこか不安だった。でも怖くて…知りたくなかった」

 僕は頭を抱えた。最低な男に引っかかってる。

「最低だ」

「そんなに好きじゃなかったのに、今は…苦しい 」

 僕は「別れる」と言うまで僕は千佳の前を動くつもりはなかった。

「仕事のことも、家のこともいろいろあって、辛くて…そんな時に相談に乗ってくれて…」

「言い訳はいいから」

「…うん」

「もう会うのは辞めなよ。誰にもいいことなんてないから。もし別れられなかったら…僕がそいつに会うよ」

「大丈夫。終わりにする」

 僕はとりあえず、別れる約束だけして話を終えた。これ以上、僕は千佳の顔を見るのも嫌だった。泣いている弱々しい千佳なんて、この世に存在しないと思っていたのに。女帝にみたいに偉そうに僕をこき使って、命令だけして、何もしないで、にんまり笑うのが千佳なのに。どうして最低な男に引っかかって、くだらない涙を流しているんだ?

「…ごめん。ありがと」

 返事もせずに僕はそのまま自分の部屋に入った。

(ありがとうってなんだ? それ。なんだよ、それ…。何やってんだよ?)

 異様に悔しくて、そして腹が立った。雨の音がずっと止まない。夜の間、ずっと降るつもりなのだろうか。階下で涙を流している千佳もずっとそのままなのだろうか。


 

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る