第22話 無色透明なソーダ
姉はあれ以来、話しかけてくることもなければ、こちらから話すこともなかった。でも無事に別れたのか、無言電話がかかってくることもなかった。僕はその事については考えないようにして就職活動をしたり、大学に行ったりしていた。ゼミの教室では針の筵になるかと思っていたら、意外とそうでもなかった。高田藍の友達も特に何をするわけでもないし、本人も僕に近寄らなくなって、むしろ快適になったくらいだ。
だからゼミの教室を出て、声を掛けられて驚いてしまった。前に高田藍の話をしてくれた彼女の友達だった。
「新田君。…合宿来れないんでしょ? まぁ、遊びも多いけど、…一応みんなの資料、後で渡すね」
「え? …ありがとう」
「友達じゃないけど…。同じゼミ生だし」
「…ごめん。あれはちょっと言い過ぎたかなって」
「いいのよ。あれくらい言って」と言って、髪の毛をかきあげる。
「じゃあ」と言って、行こうとすると、
「ねぇ、私の名前も覚えてないんじゃない?」と訊かれた。
「…えっと(思い出せ。西がついてたな)…にし…」
ちょっと焦っている僕の顔を見て、軽く笑った。
「西川よ。西川晶子。やっぱりね。全く他人に興味持ってないもんね」
「そんなこと…」
「まぁ、いいわ。藍は…彼氏いるんだけど、いろんな男の子が自分を好きだって思ってるって言ったわよね?」
僕は曖昧に首を傾けた。
「彼氏に振られたのよ。だから落ち込んでるだけだから。あなたのせいじゃないから。気にしないで」
「振られた?」
「そうあなたに友達じゃないって言われた日、泣いてたでしょ? 彼氏にもぐちぐち言ったんだって。『友達じゃない』って言われたって。『それのどこが悪いの? モテたいわけ』ってなって。前々から思ってたんじゃないかな?」
「…それって」
「まぁ、落ち込んで静かだけど、あなたのせいじゃないし、またすぐにうるさくなるわよ」
(関係ないことないんじゃないか? 恨まれてそうな気がする)と気が重くなった。高くはない時給でまた百貨店の催事場に行かされるかもしれない。
「でもかわいいよね。面倒臭いけど。自分が世界に愛されてるって思えるってすごいことよね。ちょっと顔がかわいいってだけで、それだけ自信が持てるのって才能だよね?」
「うん? よくわからないけど、すごい…かな」
しどろもどろに返答していると、西川晶子に思い切り笑われた。
「藍にはあんなにばっさり言ってたのに、本人いないんだから本音で言ったらいいと思うよ」
高田藍も面倒臭いけど、西川晶子は恐ろしい。
「彼女に対して、特に思うことはないんだ」と本音を語った。
「ふうん。なるほどね。藍があなたに執着するのもわかる気がする」
「執着?」
「好きじゃないって言ってるのに、しつこく付き纏ってるのは執着じゃない?」
「いや、だからなんで僕に執着してって話で」
この話を続けない方がいいと思って僕は言葉を飲み込んだ。
「ほら、逃げたら追いかけたくなる、あれじゃない」
(いや、本当に怖い怖い)と少し震えた。
「新田君て草食動物っぽいし」と言われて、なんて返せばよかったんだろう。
確かに目の前にいる西川晶子は美人だけど、ヒョウのような顔をしている。アイラインもキュッと上ぎみに入れられ、長いまつ毛の下の黒々と光る目が僕を見ている。
「でも不思議なんだよね。藍はブランドが大好きで、男の評価もそうなんだけど。新田君って何にもなさそうだもん。どこに執着してるのかしらね?」
(そんなこと、聞かれても困る)と後退りした。
「それで私もちょっと興味出てちゃった」
「ほんと、期待に添えなくて申し訳ないんだけど。そう、その…見たまんま何にもないから。じゃあ」と言って、逃げた。
ふふふという笑い声が後ろから聞こえてきたけれど、もう振り返らなかった。何もない、何もない、という言葉が頭の中をリフレインしていく。僕は本当に空っぽで何もなかった。
空き時間に図書室で卒論の調べ物をしようと思っていたら、向こうから森本肇が歩いてきた。熊のように体を横揺れさせながら、歩いているのですぐに分かった。
「おーい」と大きな声で手を振られた。
片手を上げると、走ってこっちに向かってきた。
「今、暇? 時間あるよな? じゃあ行こう」と相変わらず、人の話を聞かずに勝手に話を進めてきた。
「いや…あの図書室に」
「図書室は腐らんし、待ってくれるから。いつでもそこにあるから」
「何の用?」
「いつもの普通人からのコメントよろしく」と言って僕を引っ張り、今来た道をUターンする。
「用事があって、こっちに来たんじゃないの?」と引っ張られながら聞くと、「ちょっとなんか気分転換にお菓子でも買いに来たけど、ソーダがいるからもういい気分転換できそうやからいいねん」と言った。
今、前に練習していた劇がしっくりこないから見にきてほしい、ということだった。ほんの十五分程でいいから、と言って。 十五分見て、意見言って…行き借りで十分かかったとして…ほぼ潰れるなぁ。そこから図書室に行ったところで…と心の中でぐちぐち呟く。
「ソーダ、なんか景気悪そうやな」
「え?」
「君はいつも不幸にまみれてるんか? 遼子ちゃんと付き合ってると言うのに」
「…家族間も、学校も、就職も…景気良いことはないかな」
「やっぱり世の中はうまいこと行かんねんな」と笑った。
「ゼミの子には何も持ってないって言われるし…」
「そこがソーダのいいとこやん。無色透明で」
森本肇にまで言われてしまった。
「それは可能性があると言うことやで。どんな色にも、味にもなれる。だからええやん」
「役者にでもなれるかな?」
「それは…頭を冷やした方が」と申し訳なさそうに言われた。
「ソーダが好きなこと、続けたらええんちゃう? 無理にできることを探さんでも。好きなことを続けたら、それが得意なことになると思うで」
「好きな…こと…か」
それすらないから、本当に空っぽだ。
「ソーダは英語好きなんじゃないの?」
「英語…。NHKラジオとか聞いてたけど、結局、映画を見ても聞き取れなくて。教科書英語と生きた英語とはかなり違うから」
「ほう。ほんなら、行ったら? 外国に。俺の友達、夏休みに引っ越しバイトして、死ぬほどお金貯めたって。それでオーストラリア行ってたわ。ほんでな、コアラの飼育員のボタン押して、働きたいですって言ってんて」
「コアラの?」
「コアラが好きすぎて、気がついたらボタン押してたらしい」
そして中に入れてもらえたという話だった。僕にはそんな衝動を起こすほどのものが今はない。
森本肇に連れられて、体育館のようなところに入った。演劇科の人たちが雑談しながらふざけ合ったりしていた。
「おーい。差し入れ買ってこようかなーって思ってんけど、とりあえず、さっきのところだけでいいから一回やってー」とものすごい大きな声で言った。
「はいはーい。音楽もはい」
音楽が鳴ると、ささっと踊り出して、歌い出す。ミュージカル風なのだろうか。そう言えば、アバのダンシングクイーンを踊っていた。みんなキビキビ動いていて、楽しそうだ。何か好きなのもがあるって、それをぶつけられるすごいエネルギーを感じる。
「どう?」
「すごいなぁって。上手だなって思う」
「感動はないんかい?」
「いや、これ、何のシーン?」
「これは最後で。下手くそだった女の子がみんなと上手く踊れたシーンやで」
「あー。そういえば、そんなこと言ってたなぁ。…そっか」
「あかんか…。何が足りへんねんやろ?」
「ダンスだったらいいと思うけど、劇だったら…そんなに綺麗に合わせなくてもいいかも?」
「え? どう言うことや?」
「綺麗に合わせるより、もっと感情が分かるような、ダンスが楽しい、好きって言う気持ちが伝わる演技で良い気がする」
「…そうやな。みんな踊れてしまうから、踊ってしまうねんな」
そして僕の背中を二、三発叩いた後、「ストーップ」と大声を上げた。
「っ。叩く必要あった?」と聞いたが、何も答えずに僕を手で追い払った。
流石に酷い扱いだとは思ったが、もう完全に演劇の世界に入ったようで、僕はそこからこっそり出た。何か集まって、話し合いをしているが、好きなことをするって本当にすごいことだな、と僕は思った。何もない自分が本当に頼りない存在に感じてしまう。体育館のような建物のドアにもたれて、遼子とお弁当を食べた校舎の方を眺めていると、ドアが開いて、遼子が出てきた。今日はポニーテールに髪を括って、白いTシャツにジーパン、その上に絵の具に汚れているエプロンをしていた。
「あ、奏太。何してるの?」
「…森本君に連れてこられて、追い出されたところ」
「えー?」と言いながら笑う。
「それと遼子に会いたくて」
「嬉しい。今、銅版画してるの。見に来る?」
「うん。いいの?」
「いいよ」
大きな手洗い場に置かれた銅版画にはたくさんの葉っぱがついていた。
「バッドの中の腐食液だとちょっと弱いから原液かけて溶かしてるの。ちょっと体についたら、大変なんだけど。…葉っぱの絵を描くのが面倒で、貼って、溶かしてみたらどうかなぁって思って。もちろん、偶然にできる模様もたくさんあるんだけど…。夏に銅版画展があるから、出してみようと思って」と遼子の両手を広げた時の幅よりも大きな銅版だ。
「それで何しに出てたの?」
「あ、そうだ。葉っぱをもっと拾おうと思ってたんだ」
「手伝うよ」
「良い形の探してね」
そう言って、外に出て落ちてる葉で綺麗なものを探す。こちらのキャンパスはあまり手入れされていないらしく落ち葉も落ち放題だし、木も枝を伸ばし放題で野生感が溢れている。木の幹には蔦が絡まっているし、もちろん地面には雑草がのびのびと生い茂り、「ジャングル」に近い様相を呈している。いろんな葉が落ちているが、プラタナスの葉がいいらしい。
「虫食いがあっても良いからね。それがはっきりしてる形なら、さらに良いかも」
「綺麗な葉ってわけじゃないんだ」
「そうそう。なんか自然を感じるもので。あと、あまり分厚いと、腐食する時に難しいから…」
「…なかなか難しいね」
「ごめんね。なんでも大丈夫よ。できなかったら、上からペンで削ったらいいし」と言いながら地面から葉っぱを選んでいる。
「これ良いかな?」と小さな葉っぱを見せた。
「うん。葉っぱの赤ちゃんみたい。すごくいい。奏太が選んでくれたらから」と笑顔を見せてくれた。
光が落ちてくるみたいに僕の心が明るくなる。
「僕の好きは…遼子しかないな」
「え?」
「遼子には絵があって、森本君には演劇があって。僕が好きなのは遼子しかない」
葉っぱを拾い、立ちあがろうとした瞬間、遼子に飛びつかれて、尻餅をついた。遼子が抱きついたままで動けなかった。持っていた葉っぱが宙に舞う。葉っぱが二人の上に乗って、滑り落ちていく。
「ずっと、好きでいて」
息が触れる距離でポーニーテールの髪が揺れた。
手入れのされていないキャンパスのジャングルにさえ、五月の春の光は平等に降り注ぐ。遼子の薄茶色の目に僕は写っているだろうか。そう思って覗き込もうとした時、瞼が閉じられた。遼子の髪に背中に落ちる光を集めるように、キスをした。目を閉じてもその明るさを感じられる。誰も通らない…静かな場所で僕はその光だけを感じていた。
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