第23話 女帝復活

 最近、千佳が大人しいので、父親が珍しく早く帰ってきて、彼女の好物の餃子を焼いていた。すごくいい匂いがしているが、明日は土曜日なので、僕は遠慮して、食べなかった。

「なんだ…? 食べないのか?」と聞いてきたが、「お腹が痛くて」と嘘をついた。

「千佳も…いらないって言うし…」

「冷凍しといたら?」

「せっかく作ったのに…」とため息をついている。

(ほんと、タイミングが悪いよなぁ)と僕は思った。

「千佳は?」

「部屋で寝てる」と焼きたての餃子を皿に乗せた。

 本当に美味しそうだ。僕は別の皿に熱々の餃子を六個ほど乗せて千佳の部屋の前まで行った。ノックする。当然、返事はない。

「熱々の餃子だよ」

 静かだったが、動く気配がした。扉が少し開いて、浮腫んだ顔の千佳が不機嫌そうな顔で「ビールも」と言って、皿を奪っていった。僕は下に降りて、冷蔵庫からビールを取り出した。

「お腹痛いんだろ?」と父親に言われたが

「千佳が餃子食べるから、飲みたいんだって」と缶ビールを二つ取った。

「まぁ、それならよかった」と父親はやはり女の子に甘い。

 僕はビールを持って、また地下の部屋をノックした。今度はすぐに扉が開いて、ビールを二本持っているのを見ると、首を軽く振って、中に入れと指示された。浮腫んでひどい顔になっているが、女帝になる元気は戻ってきたようだ。

 餃子はすでに半分食べられている。僕はビールを開けて、飲んだ。いつもなら餃子ももらうところだが、今日は食べないと決めている。

「ちゃんと別れた?」

「別れたわよ。…っていうか、最後まで酷かった。奥さんにバレたことが怖かったみたいで…約束してた時間にも来なかったし…。会社に来ても、目も合わさなくなった」

「じゃあ、話すこともなく?」

「そうね…。その程度だったみたい」

「馬鹿みたいでしょ? くだらない男に引っかかって。泣いてる時間が」

 そう言って、ビールを一気に飲み干したかと思ったら、むせた。

「大丈夫?」

「決まってるわよ。大丈夫にしなきゃ。こんなことくらいで」と言って、泣いた。

 ティッシュを箱ごと渡すと、豪快に鼻をかんだ。

「…せめて、もう一度、もう一度だけ会いたかった」とティッシュで鼻を押さえながら言う。

「…いや…会わないって…約束も」

「最後にぶん殴ってやりたかった!」

 僕は深く頷いた。ティッシュを握る手が震えている。

「代わりに殴らせてくれない?」

「なんで、僕が?」

「むしゃくしゃするからよ。…もしあんたが女の子に酷いことしたらね。この分も上乗せして、私が殴ってやるんだからね。覚悟しなさい」とビールをまたあおった。

 そして女帝らしく餃子のおかわりを取りに行くように僕に命じた。完全に八つ当たりをされたけれど、でも僕は少し安心した。会社から帰るとすぐに部屋に閉じこもっていた千佳が少しは元気になったようだから。熱々の餃子は彼女のエネルギーになったようだった。おかわりを取りに行くと、父親も少し嬉しそうだった。

 

 土曜日になった。朝から配達を終えると、シャワーを浴びる。まだそんなに汗だくという季節ではないけれど、ちょっとすっきりしてから、学校に向かいたい。こんなに学校に行くのがワクワクするなんてことは今までに一度もなかった。お腹が痛い設定だった僕は昨夜はビールしか飲んでいないので、お腹が減っている。パンをトースターに放り込むと目玉焼きとハムをフライパンで焼いた。お湯も薬缶で沸かす。

「今日は晩ご飯入りません。日曜帰ります」とメモを書いて、朝食を食べた。

 遼子とそういう約束をしているわけではないけれど、僕は面倒なので、先に外泊することを伝えておいた。一人でカプセルホテルに泊まってもいいし。それも楽しそうだ。テレビをつけると、「沖縄は梅雨入りしました」と言っている。遼子と旅行に行けたらいいな、とぼんやり考えながら一人で朝食を食べた。土曜の朝は特に静かな気がする。でもゆっくりはしていられない。僕はコーヒーを半分だけ飲むと後は牛乳を足して、飲み干した。


 再履修だというのに、遼子は相変わらずノートを取る気配がない。僕が一人で取っている。

「昔、ドイツ語の講師に『あなたはなぜ、ドイツ語を学ぶのですか』と聞かれたので『外国語を学ぶことは、母国語を学ぶことになるからです』と答えて、『素晴らしい! 文豪ゲーテもそう言ってました』と誉められたのですが、実は知っててそう答えたんです」と講師が話している。

 僕はどうして英語を勉強しているのだろう。一番できる教科だったから? 好きだったから? 答えが出ないまま、ぐるぐるとドイツ語を書いていく。中性名詞ってなんだ? 名詞になんで性別が…などと考えてたら、きっと理解できないんだろう。語学はこういうものだと受け入れなければ。でもドイツ語のいいところは読める、発音できるという点だ。英語に比べると発音はかなり楽だし、表記と音が違うことも少ない。しかし…複雑な文法…に僕はため息をついた。

「…だめだ」と僕は授業が終わった途端、呟いてしまった。

「どうしたの?」

「試験が…うまくいく気がしない」

「大丈夫よ。テキスト写したらいいから」

「テキスト?」

「うん、ほら」と言って、遼子は自分のテキストを広げる。

 全て解答が書かれていた。

「え? 勉強したの?」

「ふふふ。一年生の時のテキスト。同じだったから買ってないの。お腹空いた。早くご飯食べに行こ」と席を立って、教室を出た。

 僕は慌てて、片付ける。

「大丈夫ですよ」とドイツ語の講師から話しかけられた。

「出席さえしてくれて、テスト受けてくれたら」

 もうそれじゃあ、勉強する意味を見出せなくなる。

「いえ。僕も…ドイツ語を勉強して、英語にも役立てたいと思います」と言った。

「きっと役に立ちますよ。ドイツ人は英語話せる人が多いですからね」

「先生はどうしてドイツ語を勉強しようと思ったのですか?」

「僕ですか? 本当はロシア文学を勉強したかったんですけどね。そこの大学は私大だったので学費の面で難しくて…。それにフランス語って顔じゃないですしね」と少し笑って答えた。

 顔で語学は選ぶものなのか? と少し疑問はあったけれど、確かにドイツ語の顔をしていると言われると、そんな気もしてくる。

「でも…仕事にされるまで勉強されて」

「いや、まだまだです。それにフリーランスですから。いろんな大学に通ってて、なかなか大変なんですよ」

 僕は正直驚いた。大学の先生と言えば、尊敬もされるであろう職業だが、確かに企業に雇われる形とは違って、不安定なのかもしれない。

「就職もなかなか厳しくて…。何がしたいのかもはっきりしなくて。男だから営業職かと思いながら、特に売りたいものもないし」と思わず愚痴を言ってしまった。

「…僕からしたら、まだまだ時間がたっぷりあると思うので、ゆっくり探していいと思いますよ」

(もう四回生だから、そんなに時間ないんだけどな)と僕は思ったことは口にしなかった。確かにドイツ語講師と比較すれば、僕には時間があると思うから。

 教室の扉から、遼子が顔を覗かせた。慌ててお礼を言って、僕も教室を出た。

「何話してたの?」

「ドイツ語の単位から就職の話になった。待たせてごめん」

「ううん。でもお腹空いたから行こう」

 遼子はたくさんの荷物を抱えていた。今日、夜にアトリエを借りているので、画材とキャンバスを持ち歩いている。僕が画材セットを持つことにした。

「ありがとう。奏太が絵を描く人みたい」

「じゃあ、そっちのキャンバスも貸して」

 僕はキャンバスも画材も持って、エレベーターの前に立った。扉が開くと鏡がある。しげしげとその鏡に映った自分を見た。他人が見ても画家には見えなかった。

「残念だな。アーティスト的要素がないみたいだ」

「そうかな? 意外とみんなそんな感じな気がするんだけど」

「髪の毛を青くしたら、そう見えるかもしれないな」

「奏太が?」

「うん。変かな?」

「今のままでいいのに」

 いつも遼子はそう言ってくれる。そのままでいいって。僕はさっぱり冴えない自分を見て、首を傾ける。鏡に写った冴えない人も傾けた。


 お昼は外の喫茶店の日替わりランチを食べた。今日は肉じゃがとコロッケ定食だった。少し早い時間だったので、まだ人が少なかった。店内では二、三人がコーヒーを飲んでゆっくりしているだけだった。タバコの煙で壁は薄汚れているが、ランチの味が美味しいというのと、値段もお手頃なので、人気の店だった。

「今から時間あったら…ちょっと百貨店に行きたいんだけど」と僕は言った。

「百貨店? アルバイト?」と言って笑う。

「流石にもうしないよ」

「何買うの?」

「遼子に…指輪あげたくて」

 大きく目が開いて、それから嬉しそうな声を上げた。

「紙の指輪だったら…破れるし…。本当の婚約指輪はまだ買えないけど」

「あの紙の指輪、引き出しにしまってるの」と嬉しそうに言う。

「ところで遼子の誕生日っていつ?」

「それが…明日なの」

「え?」

「だから誕生日会するから…もし用事がなかったら家に来て欲しいの」

「ないけど…いいの? また家族水入らずのところにお邪魔して」

「もちろん。奏太に会いたいってお母さんがいつも言うから…。後、もう一つ…誕生日のお願いがあったんだけど」

「うん。何?」

 しばらくためらった様子をしていたが、「日にちが誕生日に変わった瞬間も一緒にいて欲しい」と恥ずかしそうに言った。好きな人の誕生日を祝えるって最高に幸せなことだな、と僕は思う。それも一番最初に僕がおめでとうと言えるなんて。

「今から二十四時間は一緒に過ごそう」

「もっとよ。うちにも来て欲しいから」

「本音を言うと、毎週末、一緒にいたい」

「本音を言うと、それじゃ足りない」

 少し顔を膨らませて、遼子が言うから僕は吹き出してしまった。その瞬間に、タイミングよくランチが運ばれてきた。照りがついたじゃがいもの肉じゃがと小さめのコロッケが二つ。キャベツの千切りとトマト。ご飯と具が少ないけれど味噌汁までついている。これで六百円はかなりいい。

「じゃあ、学校に来る日は必ずランチを一緒にしよう」

「もっと」

「帰りも図書室で待ってる」

「もっと」

「…もっとかぁ…じゃあ、電話する?」

「うん。奏太は夜早く寝るでしょ? だから…朝、配達終えたら、おはようの電話して。そしたら毎日がとっても楽しみになるから」

「え? 僕の電話だけで?」

「うん。奏太が電話してくれるって思ったら、それだけで嬉しい。だから早く起きて、電話の前で待ってる」

「配達終えるの…大体、七時半くらいかなぁ。起きてる? お父さん出ないかな?」

「出ちゃうかも」

「えー」

 遼子といると、いつも本当に楽しくて仕方がない。

「確かにもっと一緒にいたいって思ってしまうな。僕は土曜日が楽しみで仕方がない」

「私も」と言って、割り箸を割った。

 そうそう、遼子はお腹空いてたんだっけ、と僕も「いただきます」と言った。遼子はご飯を箸で運んでいたけど、慌てて「いただきます」と言って、にっこり笑う。その笑顔で僕は胸いっぱいになってしまう。思わず「ご馳走様」と言ってしまって、遼子が驚いた顔をしていた。

 

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