第27話 夜の雨の街
僕が遼子の手作り弁当を一緒に食べていると、森本肇がやってきた。手にはお弁当屋さんの袋を持っている。
「混ぜて」と言って、許可を待たずに僕の隣に座った。
「せっかく奏太と食べてるのに」と遼子が文句を言った。
「二人に用事があるねんから。このチケット買って。後、これも」
僕がチケットを見ると、演劇科のチケット二人分と見たことも聞いたこともないバンドのチケットも二人分だった。
「抱き合わせ販売で四枚で四千円」と森本肇は手のひらを見せた。
「一枚千円…。抱き合わせって…これ、定価だよな? しかもこのバンドは何?」
「高校の時の友達がライブハウス借りて、歌う? 漫談? なんかするらしいねん。みんなで一緒に行こう。俺の分のチケットはいいから」とものすごく図々しいことを言ってくる。
劇は今週土曜日の昼から大学構内、ライブは繁華街で、同じ日の夜に行われるらしい。僕はため息をついて、チケットのお金を払った。
「うわ。男前だねぇ」
「労働してるからね」
「就職うまくいってそうやな」
「次は部長と、部門担当の人との面接で、それが通ったら社長面接で終わりらしい。長すぎて気が遠くなる」と愚痴を言った。
森本肇はちゃっかり弁当を広げて、食べ始めた。今日も唐揚げ弁当だった。
「劇はソーダにも手伝ってもらったやつやから、絶対見てほしいねん」
「奏太が? 何手伝ったの?」
「下手な踊りの見本」と僕がぶっきらぼうに答えた。
「うん。最高にいい見本になった」とにこにこ笑顔の森本肇。
そして唐揚げを頬張りながら、夢を語り始めた。いつか大きな劇団にしてみせる、と。横で遼子も画家になる、と言い出した。二人に見られたけれど、僕は何も言うべき言葉がなかった。
でも「就活頑張る」と言ってみた。森本肇からは思い切り背中を叩かれるし、遼子は嬉しそうに笑っている。
「夢は…ないけど、今できることを頑張ろうかな」
「俺は社会人になったソーダが俺と友達だったことを自慢できるように頑張るからな」
「友達…」
いいように使われているだけのような気がするけど、と思いながら首を傾けた。
「俺はソーダに会えてよかったと思ってるで。演劇バカばっかりの中ではなかなか出会えん人種やから」
「なんだそれ? こっちからしたら、森本だって不思議な生き物だけどな」
「せめて人間にして」とまた体をくねくねさせる。
遼子は僕たちを見て、笑っていた。梅雨の合間の晴れた日だった。空は青く、人もまばらにしか通らない。ここが大学だと言うことも忘れてしまうような場所だった。雀が餌を探してきた。森本肇が雀の近くにご飯粒を落とした。
「森本くん、優しいね」と遼子が言った。
「僕はせっかく遼子が作ってくれたご飯だから一粒もあげたくない」
「狭い男は嫌われるで」と言って、餌があることを知って、近づいてきた仲間にまたご飯粒を落とした。
「嬉しい」
そう言って、遼子が僕の肩に頭をもたせかける。
「はぁ、仲良しさんでよろしいなぁ。俺には雀しかおらん」
増えてきた仲間にご飯粒を落とし続けた。僕たちと雀はお昼ご飯をたらふく食べて、午後の授業に向かった。ゼミのある日だったので、僕は道路を越えて、向こうのキャンパスに戻る。
「またね。終わったら図書室に行くから」
「うん」
少しの間、離れることを寂しく思っていたあの頃、毎日、会えることの奇跡を分からなくて、当然のように思っていた。空には境界線がない。でも僕ははっきりと道路で分かれているキャンパスに戻っていった。
その週の土曜日は忙しい日だった。ドイツ語、昼ごはんを慌てて食べて、森本肇の演劇を見て、移動してご飯を軽く食べて、ライブハウスに行った。森本肇とはライブハウス前で集合した。劇の上演後、忙しそうにしていたから、感想を言うこともできなかったので、今言うことにした。
「ちゃんとした劇なんて見たことなかったけど…楽しめたよ」
「みんなすごくダンスも歌も上手で、素敵だった」
本当に劇なんて、高校の文化祭の出し物しか見たことがなかった。もちろん、その時も楽しんで練習とかしていたけれど、やはり素人なので、そんなに感動するということはあまりなく…、途中、大道具が倒れたりするハプニングがあったり、台詞が飛んでしまったりと、そんなことで笑いが起きたりしていた。
「まぁなぁ。客の反応とか見て、直したいところがちょこちょこあったわ。でも、よくやったとは思ってる。それで、ここ、少し顔出したら、打ち上げに行かなあかんねん。楽しんで」と言って、何やら関係者に話しかけに行った。
ライブはアコースティックギターとキーボードの二人組で、オリジナル曲を演奏していた。うまいのか、下手なのかよく分からない感じで、ぼんやり聞いていた。
「僕たちは社会人で、音楽もやっています」
「会社の人たちもたくさん来てくれてありがとう。友達もありがとう。知らん人もありがとう」とアコースティックギターを抱えた、多分、森本肇の友達の方がそう挨拶をした。
だらだらと話をしながら、たまに歌うと言うスタイルだったけれど、僕は社会人になっても好きなことがあって、続けていることに驚いた。みんながそれぞれ夢を持って生きているんだな、とまた痛感させられた。僕には夢がない。好きなことだって、本当に遼子以外は何もなかった。
ライブが終わって、遼子と外に出た。二人の演奏家に好意的な周りの人が多いので、ほのぼのとした温かい会場の雰囲気だった。僕だけ眉間に皺を寄せていたに違いない。
「どうかしたの?」
「うん…。なんか、これでいいのかなぁって思った」
「え?」
「僕も好きなこととか、夢を持つべきなのかなって思わさせられた」
遼子はにっこり笑って、「そしたら奏太は百五十点になるね」と言った。
「百五十点?」
「そう。今でも百点満点なのに」
「そんなこと言ってくれるのは…遼子だけだよ」
「他の人にも言われたい?」と言って、僕の手を引いた。
僕は首を横に振った。雨がぽつぽつ、空から落ちてきた。
「夜の雨だ。夜の雨ってさらに好きなの」
シャッターの閉まった店先に避難して雨を眺める。人々は足早に通り過ぎていく。僕は折り畳み傘を持っていたけど、鞄から出さなかった。遼子はずっと雨の通りを見つめていた。
「雨の絵も好きなの。私も描いてみようかな。今、奏太と一緒に見ている景色か…。一緒に並んで雨を見ている二人か…」と呟く。
「両方描いたら?」と僕の目にもその絵が浮かんだ。
遼子は視線を僕に移した。
「見えるの?」
「うん。雨の絵が浮かんでる」
「私も。とても綺麗な絵が…見えてる」
そう言って、遼子は鞄から使い捨てカメラを取り出し、通りの風景を撮った。そして向こう側に行って、シャッターの前にいる僕の写真も撮った。雨に濡れているのに、こっちに戻ってこないので、僕が迎えにいった。雨で気づかなかったけど、遼子は涙を流していた。
「ありがとう。奏太のおかげ…」
僕にそう言ったのだけど、僕はその理由が分からなくて、首を傾けた。
「私、綺麗な絵が描けるように…なった。グロテスクな絵じゃなくて…。見えるものが…綺麗に見えるようになった」
遼子は手で顔を覆って、震えていた。僕は鞄から折り畳み傘を出して、これ以上濡れないように差した。そしてもう泣かなくていいように、そっと背中に手を当てて、抱き寄せた。夜の雨の街だけど、きっと遼子の目には光溢れる雨が降っていた。僕は絵が描けないけど、夜の雨の音が聞こえてきそうな綺麗な絵が浮かんだ。
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