第15話 追加のピザトースト

 目が覚めると、横に遼子が寝ている。いつもの習慣で目が覚めるのが早い。日曜は牛乳配達はない。遼子の寝顔を見ていると何だか辛くなるので、ゆっくりと背中を向けた。身体をつなげたとしても心は結局一方通行だ。正直、後悔している。知らなければ、忘れられないことも増えなかったはずだ。静かにため息をついた時、後ろからゆるゆると手が伸びてきた。

「奏太」

 寝てたと思っていたけれど、遼子は起きていたようだ。

「ごめんね」

 細い片手で抱きしめられた。

「でも男の子にとって、なんでもないことだから」

 僕は思わず遼子の方に向き直った。

「どういうこと?」

「何かの小説の台詞」と言って、吹き出した。

 遼子はいつもの様子で僕を揶揄っているだけだった。

「…体は大丈夫?」と僕が聞くと、遼子は目を丸く大きくさせた。

「え?」

「何かのドラマの台詞」

 仕返しが分かったのか、枕で頭を叩かれた。

「その枕臭いから」と僕が言うと、余計に叩いてくる。

 安いラブホテルの枕からはカビ臭い匂いがうっすらしている。僕は布団の中に潜り込んだ。そこもうっすらカビ臭いけれど。攻撃が収まったかと思って顔を出すと、遼子は美味しそうに水を飲んでいた。

「もう一本ある?」と聞くと、口いっぱいに水を含んで、キスされた。

 もうこれ以上、消したい記憶を作りたくないのに。遼子の湿度のある肌に触れた。

「奏太、好き」

 泣きたくなるような台詞だ。

「それも小説に書いてた?」

「書いてたかな」と遠い目をした。

 僕を通り越して、きっと誰かを想っている。どんなに僕が想っても、僕は透明な存在になる。強く抱きしめたとしても、通り抜けてしまうんじゃないかと思うほどの存在のなさ。僕からキスをした。浅瀬の綺麗な光が溢れる場所から、光も届かない深い海に沈んでいく気持ちになる。でも一度、沈んでしまえば、光なんていらないんじゃないかと思った。何も聞こえない、何も見えない深い場所で、遼子だけを探していた。


 ホテルを出ると、まだ八時を過ぎたところだった。近くの古い喫茶店で小さなサンドイッチがついたモーニングを注文する。

「遼子は無断外泊、怒られない?」

「大学で絵を描いてたって言うから。奏太は大丈夫?」

「多分。…何か言われるかなぁ」

 姉だって、外泊をしょっちゅうしているし、その割に父親に何か言われているのを見たことがなかった。これで僕だけ怒られるとか理不尽すぎる。暖かいコーヒーとサンドイッチが運ばれてきた。コーヒーの香りに一息つく。

「お腹空いたね」と言いながら、遼子はサンドイッチを口に入れる。

「そういえば、昨日、晩御飯も食べてなかった」

 コーヒーショップから直接ホテルに入って、そこから何も食べていなかった。緊張し過ぎたのもあるけれど、今まで食事のこと忘れてた。

「ごめん」と言って、僕の分のサンドイッチも提供する。

「いいよ。おかわりしよう」と言ってピザトーストも追加で注文した。

 素早く、サンドイッチを平らげると幸せそうににこにこ笑っている。

「両方食べたかったから、よかった。後…、私は」と言って、テーブルの上の僕の手の上に指を置いた。

「触れられて、よかった。奏太があまりにも透明だから」

「存在感ないよね…わかる」

「こんな綺麗な人いないって、意地悪な気持ちがあった」

「え?」

「私のために、優しくしてくれて、楽しませてくれて…。何の得にもならないのに。モデルまで引き受けてくれて。そんな人、存在するのかなって思ってたから」

 遼子はどれだけ傷ついてたんだろう。

「本当に、そんな人がいたんだって」

「疑ってた? 僕が救世主だとか…」

「人間じゃないって思ってた」

「普通の男だったろ?」

 僕は何も救えていなかった。遼子の気持ちも分からないし、何も理解できていなかった。

「ううん。やっぱり奏太は綺麗だよ」

 僕のことをそんなに言うって、どれだけ辛いことがあったんだろう、と思った。

「遼子も綺麗だった」

 そう僕が言うと遼子は顔を赤くして、指を引っ込めて、水を飲んだ。


 アトリエに向かう前に一度、家に戻ると遼子は言った。

「画材を取りに戻らなきゃ」

「じゃ、その大きな荷物だけ持っててあげるよ」

 僕はキャンバスを受け取り、家に帰らずにどこかで時間を潰すことにした。せっかくなので、やはり髪の毛でも切ってもらうことにした。適当に散髪屋を探して、入る。少し伸びた髪を切ってもらうだけだ。

「絵を描くの?」

 髪の毛を切ってもらいながら、そのリズムのいい音に僕は少し眠そうになっていた。手荷物のキャンバスを持っていたからだろう。でも否定して、モデルですと言うのも気恥ずかしくて、何となく嘘をついた。

「へぇ。油絵?」

 意外と専門的なことを聞かれるんだな、と思いながら、とりあえず、頷いておいた。

「学生さん?」

「趣味です。下手くそなんですけど」

「私も絵を描くよ。似顔絵とか描いてる」

「そうなんですか…」

 意外にも絵を描く人は多いんだな、としみじみ思った。

「趣味だからいいけどねぇ。絵なんて、なかなか売れるもんでもないし…。今、就職難で大変でしょ?」

「そうなんです」

 思い切り現実に引き戻された。一体、来年の僕は何をしているんだろう。どうか神様、教えてほしい。

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