第30話 さようなら
早朝の牛乳配達から、会社でのアルバイト。毎日、ヘトヘトになりながら、生きていた。毎朝、遼子に電話する約束も守れなかったし、遼子からかかってくることもなかった。僕はただ毎日、毎日、考えようとしないで、ずっと時間を消費していた。考えないようにしていても、僕は分かっていた。遼子が手の届かない場所に向かうことを。僕が引き止めることもできないし、そんなことをしちゃいけないと言うことも。一週間ほど、遼子との連絡がないまま時間が過ぎた。日曜日は本当に何もすることがなくて、僕は部屋に篭っていた。四月に買った美術概要という本が目につく。僕はその本をゴミ箱に投げ入れた。
僕から手を離さなければいけないと思った。
「ドイツ語、落とすんじゃなかった…」
そしたら会うこともなかったのに、と僕は自分の不出来を心から後悔した。
でもずっと好きだから、元々彼女のことを応援したくて、僕は一緒にいたんだから、と、なんとか自分を奮い立たせて、電話の前に立った。遼子の家に電話したが、お母さんが出て、申し訳なさそうに不在だと言われた。僕はがっくりと力を落として、部屋に戻った。そしていつか、折り返しの電話がかかってくるだろうと思っていたが、遼子から電話がかかってくることはなかった。
このまま、曖昧なままにしておいたほうが、いいのだろうか。今頃、あの浅田久に会って作品集でも見てもらっているのかもしれない。そう思うと、本当にやりきれない気持ちになって、僕は体が動かなくなった。別れた方がいいと思っている割に、身勝手なことを考えて落ち込んでいる自分にも手の施しようがなかった。
次第に体に不調が表れた。
おやすみ三秒だった僕は眠れなくなった。
そして食べられなくなった。
その五日後、会社のアルバイト中に僕は倒れた。大勢の人の前で倒れた瞬間、牛乳配達の時じゃなくて、よかったとぼんやり思った。
気がつくと僕は病院で点滴をされていて、千佳が付き添ってくれていた。
「過労と、ストレスだって」
「そっか」
「牛乳配達、一週間、私がしてあげるから。引き出しの地図通りに行ったらいいのよね?」
千佳がそんなことを言ってくれるなんて、思いもしなかった。
「情けないわよね。振られたぐらいで」と言って、顔を横に向ける。
僕が振られた前提になっているが、言い返す言葉もなかった。
「あの子にはあんたはもったいなかったってことよ」
「え?」
千佳が言い間違いでもしたのだろうか?
「あんたの良さが分からないなんて、そんな女は気にする価値もないのよ」
そう言って、千佳はいつものように、にぃっと口を真横にひいて笑った。
「後、会社も、当然だけど…しばらくは休むように伝えてるから」
「…ありがと」
「じゃあ」と千佳が立ち上がった時に、カーテンが揺れて、遼子が小さな花束を持って、入ってきた。
「私が連絡したの。履歴でかけた」
遼子は千佳に頭を下げて、千佳は軽く会釈して、出ていった。
小さな椅子に腰掛けて、僕に謝った。花束は飾る瓶がないので、そのままテーブルの上に置いた。
「奏太。ごめんなさい。…連絡しなくて。体は大丈夫?」
「ちょっと働き過ぎたみたい…」
「うん。忙しそうだったもんね…。痩せたね」
なんとか体を起こして、遼子を見る。そういう遼子も少し痩せた気がした。それを聞いたら、「夏バテかな」と言って、首を傾けた。なんとなくいつものようにくだらないことを言い合って、笑い合いたいと思ったけれど、遼子も僕も終わりが見えていた。
「奏太…。別れ話をするつもりで、電話かけてきたんでしょ?」
「…うん」
僕の返事を聞くと、遼子は悲しそうに僕を見た。
「それが怖くて、電話に出られなかったし…、折り返すこともできなかった」
「そっか」
遼子は唇をぎゅっと引き締めていたけれど、涙が溢れ出した。
「…できない。私…できない。奏太と別れるなんて…そんなの…考え」
涙で言葉が途切れ途切れで、僕は辛くなった。
「僕の希望だから」
そう言って、点滴に繋がれた手で遼子の手を握る。
「君が画家になるのは僕の希望だから」
遼子は首を横に振った。
「勇気を出して」
本当の気持ちを言えばよかったのだろうか。僕だって、遼子と別れたくはなかった。でもきっとこのまま付き合っていても、きっともう僕は遼子の救いにはならないし、むしろ足枷になる。居心地のいい場所はいつかぬるま湯に変わるのだから。
「せっかくのチャンス、掴んで」
「どうして奏太は側にいてくれないの?」
「…もう、大丈夫。僕は必要ないから」
「そんなこと…言わないで。私なんて…そんな…じゃない」
僕は首を横に振った。
「ねぇ、覚えててほしい。僕はずっと遼子が好きだ。ずっと好きだから。前にも言ったけど、君が何をしても、どうなってもその気持ちは変わらない。でも今は一緒にいない方がいい。だってせっかくのチャンスだから全力で掴んでほしい。君の夢が叶うのを願ってる。それも愛だと思ってる。この気持ちを教えてくれたのは君だから」
「…どうしても?」
辛い。決心が揺らぎそうになる。
「いつかサンルーム作る…から」
本当は僕は遼子を笑顔にさせてあげたかったのに、こんなに泣かせてしまっている。せめてもの償いに、僕は嘘のような未来を語った。
「私のサンルームは…奏太だったのに」と遼子は呟いた。
そして僕の手の甲にキスをして「さようなら」と言った。遼子の涙が手の甲に広がっていた。出ていく遼子に僕は何もできずに、一人になってようやく涙をこぼした。
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