第39話 何度でも
南友梨が退勤する時に、事務室に顔を出した。
「今日はご迷惑をおかけしました」と言って、頭をぴょこんと下げる。
「落ち着きましたか?」
「全然です。ひどいです」と言って顔を膨らませた。
「すみません」
「相思相愛だったなんて、思いもしませんでした。ずっと心残りがあるのは新田さんが振られたからと勝手に思ってました。新田さんから別れたなんて…思いもしませんでした。だっていつもいつも絵に話しかけてたし…」
まさかいつも聞かれていたとは思っていなかった。
「それに遼子さん、素敵な人で…。ずっと優しく話してくれて…。新田さんのこと、すごく想ってて。私の入る余地は少しもなくて…。私一人空回りしてて恥ずかしいです」
「受け入れることはできませんが、南さんの気持ちは嬉しいです」
「迷惑じゃ…ないですか?」
「心苦しく思いますけど…。迷惑とは思ってません」
「しばらく…好きでいていいですか?」
本当に眩しいくらい真っ直ぐだ。
「短い間なら…」
目を逸らさずに言えた言葉だった。突き抜けるような真っ直ぐな思いに、僕は嘘やいい加減な言葉で返したくない。しばらく僕を見た後、頭をもう一度下げて、出て行った。僕もレッスンの用意をして、出ようとした時、近藤礼央が入ってきた。
「新田さん…」
「はい?」
「あの…結婚されるんですか?」
「え?」
僕は近藤礼央を見て、既視感を覚えた。いつか僕がドイツ語の講師と話した時のことを。思わず、近藤礼央を見つめてしまった。
「いえ、あの…」
近藤礼央は少し顔を赤らめて、下を向いてしまった。
「近々、考えています。ずっと好きだったので。君と同じくらいの時に知り合ってから…ずっと。その時、彼女は他の人を好きで…。僕は身代わりでしたけど」
「え?」
「でも気持ちは止められませんでしたから」
僕は応援の気持ちも込めて、近藤礼央に話した。
「いつか気持ちが届くことが…あったようです」
それは本当に奇跡だと思った。僕はその奇跡をもうこれ以上無駄にはしたくなかった。
「レッスンに行ってきます」
そう言って、近藤礼央は出て行った。僕もその後に向かった。
途中休憩している時に、高田藍から「『申し訳ありませんが、今後のデートは遠慮します』って彼女から紹介した人と私に連絡あったわ。新田くん、どうなってるの?」と聞かれた。
「南さんが…どうなってるかは分からないけど。僕は結婚しようと思ってる」
「…それは分かってるんだけど」
「南さんのフォローお願いできるかな」
「もちろんさせてもらう。…でも辞めちゃわないかな?」
「…まぁ、彼女の選択だから」
いつものように嫌味をいう訳でもなく、少し心配そうな顔をして、「お先に失礼するわ」と言って、娘と一緒に帰って行った。後ろ姿を見ながら、僕も不安にはなった。南友梨が辞める、辞めないは彼女の自由だが、彼女を傷つけずに済む方法が他にあったかも知れない、と考えた。
全てのレッスンが終わって、後片付けをして、戸締りをしてから駅に向かう。もうそろそろ遼子が駅に着くはずだ。冷たく澄んだ空に星が綺麗に光っている。駅までの道のりを早足で歩く。僕が駅に早く着いたからとはいえ、遼子が乗った電車が早く着くはずはないのだけれど、駅で待っていたかった。ずっと待たせていた遼子を僕が今度は待っていたかった。もう二度と待たせることがないように。ずっと僕を応援してくれていた、遼子にたくさん愛を返せるように、そう思って足を速めた。
駅に着くと、まだ電車が到着していないようで閑散としていた。僕は改札口まで行って待つことにした。
「改札口で待ってる」
携帯電話でメッセージを送る。あの頃はずっとただ待つしかなかった。遼子から可愛いウサギのキャラクターがOKと言ってるスタンプが送られてきた。
「あと、一駅」
続けられたメッセージを見ながら、昔、駅で待ち合わせをしていたことを思い出した。あの時は英語の本を読もうとして、でもいつ来るか分からない緊張で、少しも頭に入ってこなかった。待ち合わせに現れた遼子は白いワンピースを着ていて輝いていた。蓋をしていた記憶が一気に溢れかえり、懐かしさで胸が締められる。僕は忘れようとして、日ごろ考えていなかったけど、こうして思い返すといろんな思い出が蘇ってくる。
ホームからのアナウンスが小さく流れてきた。もうすぐ電車が到着する。
最後に別れた日、遼子の姿は通過電車で遮られた。色が失われたモノクロの記憶になっている。僕はホームに残り、遼子がいなくなった反対側のホームをずっと眺めていた。今でも覚えている駅の歯科医の広告と自動販売機をずっと見ていた。それから三本ほど電車を逃して、ようやく家に帰った。そうでもしなければ、電車の中で泣いてしまっていた。
電車が着く音がして、人が降りてくる。その数が増え、その人の中、遼子はやっぱり一段と光って見えた。ベージュのコートを着て、階段を降りてくる。待ち合わせて、遼子を見つける度に、僕は何度も恋をする。どれだけ月日を無駄にしたのだろう、と後悔は繰り返しくるけれど、遼子と一緒にいられる今を大切にしようと思う。遼子が僕に気づいて手を振ってくれる。駅で追いかけたり、追い越したりはもうしないけれど、小走りで改札をくぐって、僕のところへ来てすぐに手を繋いでくれた。いつもの冷たい手が僕の掌にある。
「こんなにいい年なのに、『夜に出て行くのか』ってお父さんが怒ってたわ」と僕の横で小さく笑う。
僕は遼子の荷物を受け取って、反対側の手で持った。
「それは…会う時が怖いな」
「奏太。明日は土曜日だね」
そうだ。僕たちは土曜日に出会って、それから土曜日にデートしていた。
「じゃあ、日曜日には遼子のお家にお邪魔させてもらうよ。明日は指輪を買いに行きたいんだけど」
そう言うと、遼子はポケットから僕が昔プレゼントした銀の小さなアクアマリンがついた指輪を取り出した。年月が経っているのにピカピカ光っている。
「毎日、磨いてたの。…それでいつか、奏太のところに帰れますようにって願い事してて」
「…ごめん」
情けない気持ちで仕方がなかった。
「でも叶ったからいいの」と頬を膨らませて、僕に指輪を渡した。
「つけていいの?」
「奏太につけてもらえるまで、二度とつけないつもりだったから」
指に付けようとして、関節に引っかかった。
「あ…、そっか。病気になったから…、入らないんだ」
遼子の目から落ちる涙を見た。
「ずっと…奏太にもう一度つけてもらいたくて」
関節で止まった指輪を僕はゆっくりと引き抜いた。
「今まで大切にしてくれてありがとう。これは…今の遼子には可愛すぎるデザインだから…、もっと素敵なのを探しに行こう」
持っている指輪を僕のポケットの中に入れた。
「もう必要ないから、僕が持っておくから」
遼子の涙が止まらなくなって、僕は焦ってハンカチを渡した。きっと遼子の涙には病気のこと、これまでの時間、一人で頑張ってきたこと、いろんなんものが詰まっていたと思う。僕は何も言えなくなって、泣き止むまで手を繋いだまま、そこで立っていた。
「…返して」
「え?」
「だって奏太、忙しいから磨けないと思うから。すぐ黒くなっちゃう」
僕は指輪をポケットから取り出して、遼子に渡した。どれだけ毎日、綺麗に磨いてくれてたのだろう。確かに僕だと忘れてしまって、うっかり黒ずませてしまう。泣き止んだ遼子が「お腹すいた」と言うので、駅の近くのバルに入った。
遼子はお酒を飲めないのでピーチジュースを頼んで、細かい一品料理とイカ墨のパエリアをシェアした。
「久しぶりのスペイン料理だ」
「あ、そっか。本場でも食べたんだよね」
「うん。魚もたくさん食べれるし…日本人の口には合うと思う」
嬉しそうに笑う遼子を見て、僕も幸せな気持ちになった。
「スペインは風が乾いてて、空が本当に綺麗で…あと、本当にお昼寝してるの。お店もお昼寝の時間は閉まってて。街がお昼寝してるみたい」
「へぇ」
「今もかな? …すごく不思議な空気だった」
僕は行ったこともない国だけど、遼子が話すと何だか景色が見える気がする。遼子が描いていた絵にもスペインの街並みがあった。
「いつか一緒に行けたらいいな」
「本当、絶対、また行きたいな」
そう言って、遼子はパエリアを頬張った。もう涙の跡もすっかり乾いている。ずっと会いたかった遼子が手を伸ばせば触れる距離にいれるなんて、不思議な気持ちになった。
「どうかした?」
「ううん。美味しいパエリアを遼子と食べられて…幸せだなって」
「私も」
にっこり笑う遼子はあの時のまま綺麗だったし、なんなら今の遼子は神々しさまで備わっている。
「奏太、お腹いっぱい? 全然食べてないよ?」
「遼子に見惚れてて…」
「もう」と言って、僕の取り皿に、スペイン風オムレツとポテトサラダを乗せてくれる。
「本当に綺麗だから」と僕も遼子の皿に魚介のフリットを乗せた。
お互いに皿に乗せ合いして、山盛りになった取り皿を見て、笑い合う。遼子といるといつも楽しかった日常が、こんなに時間を空けても、変わらずそこにあった。
僕の小さすぎるアパートでキスをした。遼子の匂い、柔らかさと温度が狂おしい気持ちにさせる。シャワーで濡れている髪を指で優しく撫でた。可愛らしいふわふわのパイル素材のパジャマを着ていた。
「奏太…あのね」
「…体は大丈夫なの?」
「それなんだけど…」
言いにくそうにするから、病気のことかと思って、少し体を離す。途端に遼子が僕の首に腕を回して、耳元で「久しぶりなの。…奏太として以来」と小さな声で言った。
「…え?」
「だって…」
確かにそれ以来付き合った人はいない様なことを言っていた。僕は背中に腕を回してゆっくりと抱きしめた。体いっぱいに遼子を感じられて、パンクしそうだった。
「緊張する」
そう言うと、遼子は驚いた顔を見せた。
「だって、奏太は…」
何か言いそうな唇を塞いだ。遼子を少しも取りこぼしたくなかった。
「全部…欲しい」
何もかも全部。大人になって、僕は随分、わがままになったと思った。遼子を思って、別れを選択できたなんて、若い頃の自分に驚いてしまう。
「馬鹿だ」
「え?」
「若い頃の自分が馬鹿だった」
「それは私のために…」
「違う。…僕に自信がなかったから。遼子を幸せにできないと思ったから」
親切心だけじゃない。僕は怖かった。こんなに美しい人を僕の手では幸せになんかできる気がしなかった。顔を背けた瞬間、遼子が僕に体をぶつけて、ベッドの上に押し倒した。次の瞬間、ベッドの上の僕の上に遼子が乗っていた。
「不幸だったんだから。奏太と別れて、私」
掌で僕の胸をぎゅっと押す。
「絵も評価されて、世界中を歩いても、奏太に会えないし。奏太以外の人に出会えなかった」
遼子の涙が僕の頬に落ちる。
「でも…あの時、別れて、世界を歩かないとわからないこともたくさんあったの。だから奏太には感謝してる」
指で遼子の涙を拭いた。
「もしかしたら、あの時一緒にいたらって考えることだって、何千回とあった。奏太と子どもがいて…って泣いたこともあるの。それでも…今の自分に満足できるように私は頑張ったから。あの日、奏太に振られて、それから私は頑張ることができたんだから…もう後悔しないで。奏太は馬鹿なんかじゃないし…自信がなかったかもしれないけど、それだけじゃないって分かってるから」
本当に僕は…馬鹿だと思った。強く美しくなった遼子を泣かせてしまっている。遼子の体を引き寄せて、背中を撫でた。
「ごめん」
「もう謝らないで」
遼子が優しくキスをしてくれる。僕がどこか癒されたような気がした。夜が深まってきた。もう話すことを辞めて、お互いの熱を感じ続けた。
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