第26点 モネの池

 川の濁流に飲み込まれ、あっという間に流されていく。

 息が出来ない! ムンクはどこに行ったの!?

 泳ぎは結構得意だったけれど、こうなったら何も意味がないことがよく分かる。

 ただ激しい流れに飲み込まれて、自由に体を動かすことなんて出来やしない。

 今度こそ、もうダメかもしれない。本当にこれでおしまいなの?

 せっかく第二の人生が始まったばっかりだっていうのに!

 私は悔しさと恐怖で、ぎゅっと目を瞑った。


 いつも心の中で罵ってごめんなさい!

 どうにかして創作の神様!!

 今度ばかりは、本気で神に祈った。



「<睡蓮>!」


 微かにそう声が聞こえたと思うと、急に体が水面から浮上する。

 何が起きたのか分からず、おそるおそる目を開くと、私の下には、濁流の中で微動だにせず美しく咲く、大きな睡蓮があった。

 その睡蓮のめしべ? が触手のように伸びて、私の体に巻き付き上空に持ち上げている。

 少し離れた所で、同じようにムンクも持ち上げられているのが見えた。


 この状態は、一体なに?

「睡蓮」のプネウマ……ってことは、きっと……



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|クロード・モネ プネウマ<睡蓮>

|モネは晩年、自宅に広大な庭を造成した。

|庭に大きな池を造り、睡蓮を育成したのだ。

|モネは睡蓮をモチーフに、

|200点以上の絵画を作成した。

|老化により失明しかけても、

|「睡蓮」の制作を続け、

|まさに生涯をかけた作品群となった。

|モネにとって睡蓮とは、

|どんな魅力を持っていたのだろう。

|プネウマ<睡蓮>は、水があればどこにでも

|睡蓮を咲かせ、

|蔦状のめしべを操ることが出来る。

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「クロード……!」

「サンドラ! 大丈夫か!!」


 クロードの声に、思わず涙がにじむ。

 助かった……!!

 触手が崖の上まで私を運んでくれる。

 優しくそっと降ろされ、私は思わず膝と両手を地面についた。


「お前どこ行ってたんだよ馬鹿!! こっちは必死に探したんだからな!!!」


 フィンセントは何故か泣きそうな顔でプンスカ怒っている。

 本当に一生懸命探してくれたんだろう。

 なんだよやっぱりいい奴じゃん……!

 私は堪えきれずに涙が出てきた。


「ごめんね……でも大丈夫。一緒にムーラン・ド・ラ・ギャレットに行くまでは、死ねない、よ」

「あったり前だろ!! 簡単に死ぬなんて言うんじゃねーよ!!」

「一人でこんな森の奥に入って行くなんて! 本当にあなたという人は……!」


 いつも無表情のクロードが、目を手で覆っている。

 呆れているのか、もしや涙を隠してる……?


「今オーギュストが助けを連れてきてる。早く合流しよう」


 ぐっと目頭を拭って、クロードが言う。

 涙目なのか確認したかったけれど、出来そうもない。

 だって、目の焦点が何だか合わないから。

 クラクラする。

 ただでさえ体を酷使して、プネウマまで使ったんだもの。

 もう何もかもが限界だ。

 視界が回る。

 あ、もう無理。

 でも、最後にこれだけは……!


「ムンク……脚、フランソワ先輩に……」


 治してもらって。

 そう言いたかったけれど、そう続ける前に、私の意識は途切れた。








 ちゅんちゅんちゅん。


 すずめ的な鳥の鳴き声で目が覚める。

 この世界にもすずめって居るんだ。

 そう思って窓の外を眺めると、見たこともない紫色の鳥が居た。

 お前あの声でそんな派手なのかよ。


 ……はっ! ここは!?

 寝ぼけてどうでもいいことを真っ先に考えてしまった。

 見たところ、私の部屋ではない。

 病院……?

 真っ白なシーツにベッド。

 部屋の中には2台ずつ向かい合って4台のベッドが置いてあって、私は入り口から入って右側の窓際のベッドに寝ていた。

 もう一度、窓の外に視線を移す。

 あの土砂降りから一転、空には晴れ間が広がっている。

 派手な紫色の鳥の向こうに広がる景色を見ると、何やら見覚えが………。

 あっ! あれ学園の教授棟と旧館だわ!

 1年生の教室がある新館は、旧館に直角に繋がるような形で建っている。

 つまり、教授棟と新館、旧館で、一部が途切れたコの字型という訳。

 窓の外に教授棟と旧館が見えるということは、ここは新館の1階にある保健室なのだろう。

 まだ保健室にいるってことは、そこまで時間が経っていないのかな。



 ガラリ。


 扉を開ける音がして、窓から入り口の視線を移すと、レオナルドが入ってくる所だった。


「目が覚めたのか!」


 レオナルドにしては珍しく、慌てた様子で駆け寄ってくる。

 意外にも心配してくれたようだ。

 もしかしたら毎晩の寝ずの番で親近感が湧いたのかもしれない。


「はい。ええと……一体どうなったんですか? 彼は……ムンクはどうなったんです!?」


 どれくらい時間が経ったのか。

 あの後どうなったのか。

 ムンクは無事だったのか。

 色々と疑問なことだらけだ。


「君は……まず彼のことを聞くんだな」


 何だかとても複雑そうな顔で、レナオルド呟いた。


「あれから大体3時間くらい経った。一時的な雨だったようでね、運が悪かった。知らせを聞いて、本当に驚いたよ……」


 どこかぐったりしたような、疲れ果てたような雰囲気で告げる。

 ……やっぱり心配してくれたんだ。

 少しは親しくなれたのかもしれないな。


「フランソワに診てもらったから問題はないと思うが、しばらく安静にした方がいい」


 レオナルドはいつもの微笑を消したまま、真剣な表情でそう告げた。


「ムンクもフランソワに治してもらった。だが、今のままでは完全には治らないだろう。どうしても相手への不信感がある状態では、能力を最大限には使えないようだ」


 そっか。

 フランソワのプネウマは、「相手への憐憫や感謝の思いが強いほど」治癒能力が高まる。

 逆を返せば憐憫の感情があまりなければ、治癒能力も高くないのだろう。


「ムンクは今、王立病院に搬送した。ここに置いておく訳にもいかないからな。現在はまだ意識を失っている。目が覚めたら、<境界なき自我スフマート>で『デカダンス』について聞き出す手筈だ」


 このまま、ムンクは自分の家に戻れるのだろうか。

 それとも牢に繋がれるのだろうか。

 もしも『デカダンス』のことを喋ったら、組織からの報復はあるのかな。

 彼はこれまでどんな生活をしてきたのだろう。

 ムンクのことが気になって仕方ない。


「他人の心配よりも、自分の心配をしたらどうだ」


 急にレオナルドに顎を取られる。

 はい!?

 これは噂に聞く顎クイではないですか!!?

 えっなにどうしたのレオナルド私のたぷたぷの顎が急に触りたくなったとか!?


「君は、いつからそんなに博愛精神を持つようになったんだろうね。あの男は君の命を狙った男だ。君が気にかける必要はない」

「そ、そうなんですけど……理由が理由だけに、無碍にも出来ません」


 やっぱり、ムンクの気持ちはよく分かるから。

 サンドラと同じように、私も罪悪感を感じてしまう。

 ……私が罪悪感を持つのは、ムンクに対してだけではないけど。


「とにかく、ゆっくり休むように。大きな怪我がある訳ではないようだが、体力の回復が急務だ」


 そう言ってレオナルドは、私の頭を撫でた。

 だから何!? なんなの!?

 なんでそんな優しいの調子が狂うわ!!


 けれど、なんだかホッとしてしまって、また強烈な眠気に襲われる。


「ゆっくりおやすみ」


 レオナルドのその声を、どこか遠くで聞いた。

 私はまた、眠りの底へと沈んでいったのだった。









「眠れば姿が変わるという訳ではないのか。トリガーは、一体なんなんだ?」


 レオナルドが、好奇心を抑えきれないといった表情で呟く。

 その声を聞く者は、誰もいなかった。

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