第27点 (ムンク視点)まるで灰のように
病室で目が覚める。
それと同時に、左脚に鈍い痛みを感じた。
助かったのか。
毛布をめくり脚を確認すると、膝から爪先にかけて包帯でぐるぐるに巻かれている。
部屋を見回す。
さほど広くない部屋に、ベッドが一つ。俺一人しか居ないようだ。
左腕を鎖でベッドに繋がれ、口に猿轡を噛まされている。なるほど。治療は受けたようだが、罪人として捕えられているのだろう。
俺は毛布を再度掛け直すと、はぁと息を吐き出した。
まさか生きているとは思わなかった。
ホッとすると同時に、戸惑いと困惑が頭の中を埋め尽くす。
まるで急に迷子になった子供のような気分だ。
一体俺はどうしたらいいんだ。
これから、どう生きたらいいのだろう。
10年前。
姉さんが死んだ時のことは、今でも忘れることはできない。
高熱を出し、咳が止まらなくて、息も絶え絶えだった姉さん。
優しくて、明るくて、賢くて。
姉さんは誰にでも好かれているような人だった。
人付き合いが苦手だった俺にとって、姉さんは憧れだったんだ。
そんな姉さんがあんなにも苦しまなくてはいけないだなんて、世の中は不条理だと心から思った。
でも叔父さんが薬を手に入れてくれたから、命は助かると思っていたのに。
お金に釣られて叔父さんが薬を売ってしまったと聞いた時には、幼いながらにもはっきりと憎しみの感情が湧き上がった。
薬を売ってしまった叔父さんのことも、大金で叔父さんを唆した奴のことも。
姉さんのものだったはずの薬を使ったのがサンドラ・ボッティチェリだと聞いて、ますます腑が煮え繰り返った。
あいつはとんでもない奴だと評判だったから。
幼い頃、俺も家族で行ったパーティーで見かけたことがある。
確かに見た目はいいいかもしれないが、すぐに人のことを馬鹿にする、傲慢でわがままな女。
それがサンドラ・ボッティチェリの噂の全てだった。
そんな女が、姉さんの代わりに薬を使って助かっただなんて。
姉さんは酷く苦しんで死んだ。
いっそ早く死にたいと願うほどに苦しんで、最期にどす黒い血を吐いて死んだ。
そんな姉さんの姿が、頭にこびりついて今でも離れないでいる。
姉さんが死んでしばらくは、とにかく何もする気が起きなかった。
悲しいとか辛いとか、そんなことすら考えなかった。
まさしく心が死んでいたんだろう。
父さんと母さんはそんな俺を心配していたけれど、何もかもどうでも良かった。
ただベッドに横になると姉さんの最期の姿が思い出されて、眠れなかった。
やがて俺の中に残った感情は、憎悪だけだった。
俺は憎んだ。
ボッティチェリ公爵家のことを。
サンドラ・ボッティチェリのことを。
病が回復した後のサンドラ・ボッティチェリは、輪をかけて横暴になったと聞いた。
身分至上主義で、下位の者を同じ人間として扱わない。
実に傲慢で暴力的で、非道な人間だと。
屋敷に引きこもっている俺の耳にも入ってくるくらいだ。
巷では、さぞ有名なことだろう。
そんな奴のために。
そんな奴のために、姉さんは死んだのか。
『あぁーーーー!!!』
俺は部屋の中で、頭を掻きむしりながら思い切り叫んだ。
心から、魂からの慟哭だった。
その瞬間。
頭の中に不思議と一つの言葉が浮かんだ。
どうしても口に出して言わなければならないと、そんな激しい衝動のままに口を開く。
『<叫び>!!』
キィャーーーーー!!!
ドゴン!!
口から叫び声と共に凄まじい衝撃波が発せられる。
そしてまるで爆発でもあったかのように、壁際に置いてあったチェストを粉砕してしまった。
これが、俺が初めてプネウマを使った時のことだった。
そして、運命を大きく変えることになる出来事。
『いやぁ驚いたな。これは私たちにツキが回ってきた』
たった一人でいたはずの部屋の中で、突如知らない男の声がした。
見ると、いつの間に入ってきたのか開いた窓の桟に腰掛け、優雅に脚を組んでいる男が居た。
初めて見る男だった。
20代後半くらいの、ベージュのふわふわした髪の男だ。
白いシャツに髪より少し濃いベージュのウインドーペン柄のベストとパンツ。
くすんだオレンジ色のタイを締めていたのをよく覚えている。
甘く優しい顔立ちに、とてもよく似合っていたから。
あり得ない不審者に危機感を覚えるべき状況なのに、どういう訳か警戒する気になれず、俺は男がそこにいることを受け入れてしまった。
『あなたは……?』
『君、復讐がしたくはないかい?』
俺の問いかけを無視して、男はにこやかに続けた。
まるで『ケーキを食べに行かないかい』とでも言ったかのように、実に明るく、気さくで楽しげな声だった。
『復讐……?』
『そうさ。私はね、この国に、この階級社会にうんざりしていてね。いずれ、全てを壊してしまおうと思っているんだ。それにはサンドラ・ボッティチェリはいい駒だ。用が済んだら、君にあげるよ。好きにするといい』
この男が口にしているのは、おもちゃか何かの話だっただろうか。
いや、違う。
実際の、この国と現実の人間の話のはずだ。
思わず、背中がゾクリとした。
あまりに、男の声色が何も変わらないから。
いっそそのことが、酷く恐ろしかった。
けれど同時に、恐ろしいほど甘美な言葉だった。
姉さんを殺した奴らに、復讐ができる。
その為なら、なんだってやってやる。
『私と一緒においで。力をあげるよ。公爵家にも、王家にも、全てに対抗できる力を』
そう言って男は、笑顔で右手を差し出した。
俺は迷わなかった。
自分でも不思議なほど、一切の迷いもなく、その手を取った。
『よし。これから君は、私たちの仲間だ。一緒に理想の世界を創ろう』
男のその言葉に、俺は力強く頷いた。
それからの数年間は、ずっと男の元で生活をした。
体を鍛え、プネウマの能力を磨き、ただただ復讐を胸に過ごしてきた。
それだけを考えて時を過ごすと、徐々に自己暗示に近い状態になってくる。
本当は、幼い子供の言いがかり、逆恨みに近いものだと心のどこかで分かっている。
恨むべきはサンドラではなく、きっと叔父の方だろう。
サンドラは姉さんの薬を欲した訳でもない。サンドラ自身が大金を積んだ訳でもない。
それでも、最早止まることは出来なかった。
サンドラへの恨みだけが、俺が生きる理由になっていたから。
男……ボスの理想郷の話は何度も聞いたけれど、俺にはよく分からなかった。
ただ復讐さえできれば、俺はそれで良かったんだ。
だから、サンドラ・ボッティチェリをこの目にした時、衝動を抑えることが出来なかった。
ボスにはまだその時じゃないと言われていたのに。
けれど昔見た姿のままのサンドラを目にした途端、我を忘れて俺はサンドラを襲った。
今すぐにでも殺してやりたいと思った。
結局殺すことは叶わず組織に帰ると、ボスに激しい叱責と罰が与えられた。
ボスは自分の意に沿わない行動をすることを良しとしない。
だから当然のことではあったけれど、俺はもう止まることは出来なかった。
サンドラ・ボッティチェリを殺すことしか、何も考えられなかった。
ボスから受けた傷を癒しつつ、なかなかいい機会が訪れずに時が経ち、俺は苛立ちが抑えられなくなっていた。
輪をかけて眠ることも出来ず、精神ばかりが蝕まれながら、ただひたすら機会を待った。
そしてついに、格好の機会が訪れたのだった。
けれど。
初めて言葉を交わしたサンドラ・ボッティチェリは、俺の想像とはまるで違う人間だった。
姉さんの死に罪悪感を持っていると、姉さんの分まで生きなければならないと。
そう力強く告げた彼女の顔は、今にも泣きそうに歪んでいた。
それでもなお美しくはあったけれど、決して口から出まかせではないのだろうと、そう思った。
そこで気付いてしまったのだ。
彼女に対する悪評は、全て噂でしか耳にしていないと。
自らの目で、耳で聞いた訳ではない。
もしや、姉さんの死を受け入れられなかった俺自身が、勝手に作り上げた虚像だったのではないか。
そんな風に思えた。
確かにサンドラ・ボッティチェリを殺したら、姉さんの死は無駄になる。
姉さんの命を代償に得た命なら、全身全霊でその生をまっとうするべきだ。
その責任が、彼女にはある。
そう思った。
もう何年も胸の中に渦巻いていた怒りと憎しみの感情が、いつの間にやら溶けて消えてしまったのに気付き、激しく動揺する。
これまでその感情だけを糧に生きてきたのに。
それがなくなってしまったら、一体どうやって生きていったらいいんだ。
空っぽ。
俺はもう空っぽだ。
窓の外から、弦楽器の音色が聞こえる。
患者の緊張をほぐす為に、病院でも音楽を流すのだと聞いたことがある。きっとその類だろう。
バイオリンやチェロとは違う、もっと温かみのある音色。
どこかで、聞いたことがあるような。
がらりと扉が開く音がして、入り口からレオナルド王子とポール・ゴーギャンが現れる。
きっと俺の話を聞きに来たのだろう。
「目が覚めたか。なら、ゆっくり話を聞かせてもらう」
「随分派手にやってくれたな。おかげでこっちは疲れてんだ。手早く頼むぜ」
微笑を湛えた王子と、病室でも煙草を咥えたまま気怠げにしているゴーギャン。
しかし二人の瞳は、まるで獲物を捕らえた鷹のような瞳だった。
ゴーギャンに猿轡を外される。同時に喉元にナイフを突き付けられた。
警戒せずとも、俺にはもうプネウマを使う気力は残っていないのに。
このままレオナルド王子のプネウマで全てを喋らせられるのだろう。
ならいっそ、自ら口を開こうか。
俺は、はあともう一度嘆息し、覚悟を決め、口を開いた。
「あの組織は……」
そこで思わず口を噤む。
正確には、噤まざるを得なかったのだ。
「あの組織は……なんだったんだ……?」
俺は、これまで何をしていたんだ?
何故ムンク男爵家を出たんだ?
どうやってサンドラに復讐をしようと?
「何も、思い出せない……」
俺の言葉に、レオナルド王子もポール・ゴーギャンも、顔を見合わせるしかなかった。
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