第22話 わたしと勉強会と漆さん
授業が終わっても、わたしは席に座ったままじっと待っていた。教室の1番前に座る漆さんもそうしていて、徐々に彼女の周りを囲んでいた奥田さんたちも部活やら帰るやらで教室から去っていく。そんなこんなでわたしと漆さんだけの空間ができあがるのを見計らって、わたしは英語のテキスト片手に彼女の席まで近寄った。
「漆さん」
「うん、やろっか。四ツ足さん」
声をかけると、いつもみたいな笑顔でわたしに応える漆さん。そこにお昼でのぎこちなさは抜け落ちていて、まるでなかったことになってるみたいだった。机の中に入っていた手紙でも、間接キスと同じく一切触れられていなかったし。
それともほんとに勉強がしたかったのかな。わたしが漆さんの後ろの奥田さんの席に座ると、漆さんは自分の机を反対に向けてわたしと向かい合うようにした。
「宿題ね。2ページから15ページまでみたいなんだけど、四ツ足さんどこまでやってる?」
「えーと、うん。1問たりともやってない」
「ふふ、実は私もおんなじー」
正面の漆さんに白紙のテキストを見せると、向こうも真っ白なそれをドヤ顔で突きつけてきて思わず、笑みがこぼれる。
「あはは、それ胸張って言うことじゃないでしょ」
「う、確かに。こほん。まあ、はじめよっか」
わたしの笑顔を見て漆さんは恥ずかしそうに咳払いしてから、机に向かった。わたしも負けじとペンをテキストに走らせる。
漆さんの近くにいると、胸が苦しい。名前呼びも遊びの約束も告白も、結局なにひとつ問題は解決していないし、キスのことだって不明瞭。
でも今は、そのことを見せたくない。苦しくても問題塗れでも漆さんのそばでいたいから。
*
「四ツ足さん、そこ綴り間違ってるよ。あとdとbが逆……」
「ほんと? ありがとう漆さん」
急いでその箇所を書き直す。実際のところ、わたしは漆さんのおかげで問題を解けてるみたいなものだった。わたしは授業中漆さん見とれてることばかりだったせいで内容についていけてなかったのだ。
「やっぱさ、さすが副委員長って感じだよね。教えるの上手だしかしこいし。わたしこんなの全然わかんないもん」
「もう、褒めてもなんにも出ないよ? でも、ありがとう」
わたしが一旦ペンを置いて、感嘆しながら伝えると、漆さんは頬を赤らめてくすりと微笑む。そしてまた何か間違いを見つけたのか、わたしのテキストを指さした。
「あ、そこも……」
「え、どこ?」
「問2。今四ツ足さんの手で隠れてる……」
そのときぴいっと伸びてきた漆さんの指と、問題を探そうと動かしたわたしの手が偶然触れ合った。
「「!」」
ばちっと電撃が走ったみたいで、わたしはびくっと震える。漆さんも予想外だったのか、きれいな目を丸くして指を引っ込めた。
「あ、ごめんなさい!」
「ううん、わたしこそ……」
久しぶりの漆さんのぬくもり。一瞬だけだけど心に沁み込んでいく気がした。恋人繋ぎとか抱きしめるとかよりささやかだけど、やっぱりあんなことがあったから。告白してないことに気付いてしまったから。それだけで心を動かすには充分だった。
思わず、漆さんの顔をまじまじと見てしまう。お昼からずっとそれだけはしないようにしてたのに。だってくちびるが。真っ赤に染まりつつあるいつもの表情がどうしようもなく恋しくて、どうしようもなく欲しくなって。
好き。付き合ってください。キスしたい。それだけのひとこと。でも決して言えないひとこと。
そんな抑えていいのか抑えなくていいのかわからないこの想いがもう全部飛び出しちゃいそうだったから。
漆さんはそんなわたしを見つめて、見つめて、見つめて。何も言わない。
わたしも漆さんを見つめて。見つめて。見つめて。堪え切れなくなって視線をテキストに落とした。
「うるしさん……で、どこが間違ってるの……?」
「あ……。ええと、ね……」
わたしが呟くと、漆さんははっとしたように首を横に振った。やっぱり、ズルいんだわたしは。あのときも逃げたから漆さんとすれ違ったっていうのに。
*
「よーーし……これでおわったぁーー……」
両手を上げて伸びをする。苦節2時間。わたしは手取り足取り漆さんに教えて貰いながら、英語のテキストを終わらせることができた。漆さんは先にさっさと1時間くらいで終わらせてしまっていたから、そのあたりはやっぱり優等生だ。
その間、さっきまでの胸がきゅうっと締まるみたいな場面にはならなかった。誰かが見てもあくまで友達同士が勉強を教え合ってる風としか思わなかっただろう。わたしの心境はそうじゃなかったけど。
「それじゃ、私ちょっとトイレ行ってくるね」
「あ、うん」
すると、漆さんが急に立ち上がってそう言った。我慢させちゃってたのかな。わたしは疲労感でいっぱいだったので、机に突っ伏したまま行ってらっしゃいと手を振った。
すぐさま上履きがぱかぱか鳴って、扉ががらりと開いて閉まる音が聞こえた。わたしは顔を上げてひとりになった教室で大きく息を吸う。
いつの間にか夕日が落ち始めていて、教室の中をオレンジ色の光が差していた。でも、窓の外に目をくれることなくわたしは霞んだ目をしょぼつかせながら、その中でひときわ輝くそれをじっと見つめていた。
黒い光沢。穴ぼこや落書きひとつない。それは机だった。わたしの目の前にある、テキストが仕舞われて、何も乗っていない漆さんの机。
わたしは何も言わず席を立って、その机をそっと撫でた。手触りがしっとりしていて、ちょっとあったかくて気持ちいい。『きれい』。漆さんの机はあのときと何も変わっていなかった。漆さんとわたしの関係性は少しずつ変化しているのと対象的に。
「漆……千草さん……」
名を呼ぶ。呼びたかった大好きなあの子の名前を。
ううん、関係性は変わっても、わたしの気持ちは机とおんなじで変わってない。あの頃と、まだ教室掃除で漆さんの机を運んでいたころとおんなじで。ずっと好きだ。ずっと『きれいでかわいい』。漆さんにはずっとそう思う。
だからわたしは吸い込まれるみたいに、漆さんの椅子に腰かける。さっきまで漆さんが使っていたからまだ彼女のぬくもりはそこに残っていた。
前座ったときはどきどきしすぎてこのあと、漆さんのパンツ見ちゃって倒れたんだよね。それですれ違っちゃった。
懐かしい。漆さんと出会ってまだ1か月しか経ってないのに、いろんなことがありすぎた気がする。そういえばそんなこと入学式の前に言ってたっけ、漆さんが……。
わたしはぬくもりを感じながら、何気なく漆さんの机に両腕を伸ばして突っ伏した。漆さんの匂いと机の木の匂いが合わさって、心地いい。なんだか漆さんに抱きしめられてるときみたいで。わたしの視界がゆっくりとぼやけてくる。
そういえば、昨日は全然寝れなかったんだった。わたしはそんなことをぼんやりと思いながら、漆さんに包まれながらゆっくりと目を閉じて、夕闇に意識を投げ出した。
*
わたしは夢を見ていたんだと思う。
だって、目の前に漆さんがいたから。入学式に遅刻した衝撃で目を潤ませている出会った頃の漆さんが。わたしはそんな彼女と2人乗りをして、桜並木中を走って学校まで行ったんだ。
場面が変わる。駐輪場でふたりでひっくり返って、空を見て笑い合ったあのとき。漆さんの小さな花みたな笑顔が好きになったとき。初恋をした日。
そのあとも、場面はスライドショーみたいに切り替わる。漆さんの机をきれいだと思って初めて運んだ日。吉井さんに言われてこれが恋だと知ったこと。奥田さんの告白を見ちゃったこと。漆さんの椅子に座って、そのあと着替えのときにパンツを見ちゃって、倒れたこと。保健室で手を払っちゃったこと。泣いたこと。
ゴールデンウィーク中にスーパーで再会したこと。わたしの部屋で告白しあって抱きしめ合ったこと。恋人繋ぎ、手紙、靴箱、体育、卵焼き、間接キス、ほんとのキス。そしてこの勉強会――。
漆さんとの思い出、全部。それらを一気に振り返ったあと、夢の映像は最後に何かを映し出した。
夕暮れの教室。机で突っ伏して寝てる誰かに、漆さんがそっと顔を近づけていく。そんな思い出。
でも、こんな場面今までなかったよね? わたしは不思議に思って、そのせいで夢から覚めた。そしてぼんやりと目を開けたときだった。
「……好きです……四ツ足さん……」
震えてるけど、透き通った誰かの声。そして、その意味を整理する前に突っ伏したままのわたしの顔に、なにかが迫っていた。
きれいな、女の子。腰を折って身をかがめ髪を耳にかきあげ、瞳を閉じながら。わたしの前に顔を夕焼けよりも赤くさせながら。彼女の顔が、わたしの――。わたしのくちびるに徐々に近づいてきていたのだ。
視界が、ほんの少しだけ晴れる。その女の子は、漆さんだった。わたしのくちびると自分のくちびるを重ねようとしていたのは、わたしが大好きな漆さんだったのだ。
「え……うるし、さん……?」
「――――!?」
未だ回らない頭と口で彼女の名を呼ぶと、漆さんは触れ合う寸前だった身体を大きく引き離し、その場でびたんと立ち止まった。その顔がどんどん青ざめていくのが、寝起きの目でもよく見えた――。
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