第9話 どうして


 お腹の中に大きな石ころが詰まってるみたいにわたしの足取りは重かった。本当に体調は悪かったし、学校に行きたくもなかった。あんなことをしてしまったから漆さんには会いたくなかった。手を払いのけたときの漆さんの悲壮に満ちたあの顔がずっと頭と心を焦がしていた。


 でも、お母さんに心配をかけるわけにはいかなくて。何も解決してないまま遅刻寸前で教室の扉を開けた。


 わたしの席の近くで、吉井さんと漆さんが話しているのが見えた。心臓がまるで掃除で使う雑巾みたいにきゅうっと絞られる。教室へ踏み出す1歩目が、出せない。漆さんの顔が見えた瞬間わたしの身体全体がぐずぐずに溶けてしまいそうになる。


 そのまま教室の扉を閉めて廊下に出る。まるで逆再生するみたいに靴箱まで歩いて外靴に履き替え、駐輪場に行って自転車に乗って一目散にペダルを踏み込む。


 頭が真っ白になって漆さんになんて声をかけていいのか分からなかった。それに、教室に入ったとき聞いてしまったんだ。

 

 「千草ちゃん」と吉井さんが漆さんを呼ぶ声が。漆さんが「美里ちゃん」と吉井さんの下の名前を呼ぶ声が。


 なんで? 2人が話すところなんて今まで1度も見たことなかったのに。なんでそんな顔で、昔からの友達みたいな顔で、名前で呼び合ってるの?


 ねぇ、漆さん。あのとき、奥田さんの告白を見ちゃったあの日。漆さんがわたしに女の子同士の恋愛について聞いてきたのって、吉井さんとそういう関係になってたから? なりたかったから?


「……わたし、もう……なんにも……わかんないよ……」


 どこにも根拠のない理論。でもわたしの壊れてしまった心ではもう、それを留めておくことなんてできない。ただ溢れかえるばかりの感情を包み隠さず吐き出しながら、ただ走る。ただ逃げることしかできなかった。


 *


「ちょーっとまずいかもね、千草ちゃん」


 朝のホームルームが終わった途端、美里ちゃんは私の席まで来て神妙な面持ちで言った。


 私も頷きながら振り返って教室の後ろの方を見る。四ツ足さんの席は空いている。先生曰く、連絡が取れてないけど昨日倒れたこともあるし恐らく休みだと思う、とのことだった。


 私と美里ちゃんは今日の朝から、どうやって四ツ足さんに謝るか相談していた。彼女はいつも登校するのが早いから、朝の内にどこかで話す機会を取るつもりだった。しかし四ツ足さんの机付近でいくら待っていても彼女は来なかった。


「やっぱり……私があんなことしたせいで……」


「違う違う。そうじゃないって」


 唇を血が出そうなほど噛みしめても、四ツ足さんが抱えているはずの心の痛みには到底追いつかないだろう。私は昨夜から数度目の、涙がこぼれそうになるのをなんとか堪える。


「いや、他のことでまずいのは確かなんだけどね。だってほら、今日が金曜でもうすぐゴールデンウィークじゃん」


 美里ちゃんの言う通り、今日が25日の金曜。26、27の土日はお休みで、29日からはゴールデンウィーク。


「……そっか、このままずるずるって……」


「うん、私もこういうのを長引かせるのはまずいと思うんだ。だけど、もし28日に小実ちゃんが学校に来なかったら……」


 それを聞くだけでお腹の中に爆弾でも突っ込まれたかのようにぞっとした。


「それに、あの子隣町からチャリで来てるでしょ? スマホも持ってないみたいだし、私も含めて誰も家とか連絡先を知らないはず。あと先生に聞いてもこのご時世に教えてくれないと思う」 


 そこまで言ったあと、美里ちゃんは悔しそうに俯いた。


「ごめん、私が昨日の内に小実ちゃん追いかけて誤解を解かなきゃダメだった。学校には来るはずって思ってた私が悪い」


「ううん……。大丈夫だよ、そもそもわたしのせいなんだし……」


 どうにかなる、と信じたかった。どうにかなるわけもないのに。あんなことしといてどんな口が言ってるんだろうと自分でも思う。でも、それは正しいのかもしれない。


 謝りたいと思う私がいる中で、今日四ツ足さんが学校に来なくてほっとしている私もいたんだ。もうすぐゴールデンウィークに入って謝らなくていい期間があることに安堵する私もいた。四ツ足さんにかけるべき言葉と謝罪は、それくらい何も浮かんでいなかった。


 結局、保身。四ツ足さんみたいに誰かのためを思えない。私は弱くて自分本位で最低な人間だ。


 目の前の美里ちゃんは何か言いたげだったたけど、実際何か言ったのかもしれないけど私の耳には入らなくて。その日は過ぎ去った。

 

 そして土日の間も何もできないまま、美里ちゃんの推察の通り28日にも四ツ足さんは学校に来なくて。あっという間に世間はゴールデンウィークに突入してしまった。


「……四ツ足さん」


 私はどこへ出かけるわけもなく、何をするわけでもなく。ただ自分の部屋に籠ってベッドに寝転んで天井を見上げていた。カーテンを閉め、電気も付けず。暗い部屋は、私の心によく似ていた。


 呟く言葉は余りにもはかなく消えていく。スマホを見ても、美里ちゃんからの連絡はない。でも自分から何か連絡する気も起きなかった。


 苦しくて。辛くて。それしか思い浮かばなくて。なのに動けない。四ツ足さんが今頃どんな顔してるかなんて、想像がつくのに。


 やっぱり私は弱い人間だ。これ以上、好きな人に拒絶されたくない。その感情だけが私の逃げの原動力だった。


 だから、いつの間にか日付は5月4日になっていた。ゴールデンウィークもあと2日。保健室でのことがあってからもう2週間近く。でもこの陰鬱な心に変化はなく、私は全く手の付いていない宿題を机の上におきっぱなしにしたまま布団にくるまっていた。


 そんな日。


「千草ちゃん、遊びに行こう」


 いきなり美里ちゃんが私の家まで自転車に乗ってそう誘ってきたのは、そんな昼間のことだった。

 

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