第8話 恋のさくらが散ったあと


「…………」


 四ツ足さんの足音が遠くなっていく。私は自分の右手を抑えて俯いた。視界の端が潤む。何もかもが黒の絵の具で塗り潰されていく。つんざかれるみたいに痛い、右手も、胸の奥も。四ツ足さんがそんなに強く叩くはずがないのに。だからこの痛みは、私への罰に違いない。彼女の気持ちを蔑ろにした、私への――。


「……


 そのとき、私の肩にぽんと手が置かれた。振り返らずに私も名前を呼ぶ、だって保険室には私と彼女のふたりしかいないのだから。


「……美里ちゃん」

 

 吉井美里ちゃん。現在四ツ足さんと仲のいい彼女は、私と同じ小学校に通っていた。親友というわけではないけど、何回か一緒に遊んだこともある。だからたまに話すときは名前で呼び合うくらい気心の知れた仲だ。


「話したくないことじゃなければ、小実ちゃんと何があったか教えてくれないかな」


 美里ちゃんはいつもの間延びした口調じゃなく、真面目にそれでいて私を諭すような声色でそう言った。本当なら、断って自分で解決しなきゃいけない問題だったはずだ。だけど私の心はぼろぼろに崩壊しきっていて。美里ちゃんにすがりつくみたいにみっともなく話し始めてしまう。


「四ツ足さんに……嫌われたかも……」


 口に出した途端目から涙が2、3滴落ちてスカートを濡らした。


 美里ちゃんはこういうことを茶化したり人に言いふらしたりしないことは分かっていた。だから私の口からは搾りカスのような本心が、頭の中で考える暇もなくどんどん溢れてくる。


「わ……私、自分のことしか見えてなかったの。四ツ足さんの気持ちなんて何も考えてなかった。だから、行き過ぎちゃった。ただの友達にこんなことされるなんて四ツ足さんからしたら気分がいいはずがないのに」


 でも、口とは裏腹に心は暗くなる一方で。四ツ足さんの頬に触れていた右手は血が完全に止まってしまったみたいに冷たい。


「……私、四ツ足さんのことが好きなんだ。しかも、そういう目で見ちゃう『好き』なの」


 話しながら、わたしは四ツ足さんと出会った頃のことを思い出していた。


 *


 四ツ足小実さん。私が好きになった女の子。


 クラスの中で1番背が小さくて、小実という名前の通り可愛らしい外見。こげ茶色の髪を2つ括りのおさげにしていて、制服はちょっとダボついてる。大人しい性格なのか、美里ちゃん以外の他の人とはあまり話さない。よくドジをしてる。勉強は苦手そう。最近体育の授業でやった身体能力測定も多分、下から数えたほうが早いような成績なはず。


 でも私は。そんな彼女が誰よりも優しくて、誰かのためを思えることを知っている。あの日、あの入学式の朝、遅刻した私に自転車に跨って手を差し伸べてくれた四ツ足さんの姿は脳のどこかに焼き付いて離れなかった。


 私なんて放って先にいけば遅刻しなかったのに。そう何度も伝えたけど、彼女は「わたしがやりたくてやったことだから気にしないで」とその度に微笑んでそう言った。


 自分のこと以上に真剣に私のことを案じてくれたその表情はただどうしようもなく眩しくて、どうしようもなく私の心を揺れ動かしたのだ。


 彼女を白馬ならぬ自転車に乗った王子様と呼ぶにはいささか可愛らしすぎる気もするけれど。そんなことで恋に落ちるなどいかにも中学生、子どもなのかもしれないけれど。それでも私はその優しさに恋をしたのだった。

  

 だから――。自転車の荷台の後ろに乗って四ツ足さんの小さな背に身を寄せたとき、このかき鳴らされる心音が彼女に伝わらないか心配だった。春風になって桜並木を駆けたあのとき、私の頬も桜色に染まっていたに違いなかった。


 駐輪場で寝転んで笑い合ったこと。同じクラスになれたこと。靴箱掃除のときに四ツ足さんの小さな靴を見ては微笑ましくなったこと。四ツ足さんがちゃんと日直できてるか心配でこっそり追いかけたら告白中の奥田さんを見てしまったこと。掃除の時間中教室に帰って話したこともあったっけ。


 四ツ足さんとの思い出は多くない、正直いって数えきれるほどしかない。でもそれで十分だった。この感情を理解して、やっぱり四ツ足さんに恋してるんだと自分の中で納得できるには、それだけで。


 だから、聞いた。女性同士の恋愛がどう思うかって。四ツ足さんは私に同じ質問をしてきたあと、肯定した私の意見に同意した。そのときは嬉しかった。この恋が四ツ足さんに受け入れてもらえるかもしれないって。


 そのあとだ。四ツ足さんに触れたいという新しい感情が私の中で芽生え始めたのは。それが抑えきれず、私は彼女の頬に触れ続けてしまった。体調が心配だったのが大半だったとはいえ、あのまま美里ちゃんが来なかったらどうなっていたんだろう。唇を奪っていたかもしれない。それほどまでに私は四ツ足さんでいっぱいだった。この恋を彼女に伝えたかった。


 しかし、拒絶された。当たり前だ。私が馬鹿で何も考えちゃいなかった。四ツ足さんがこんな感情をぶつけられること想定して女性同士の恋愛に肯定したわけじゃないのに。


 四ツ足さんと2人乗りで走った学校近くの桜並木が散ってしまってからもう2週間経つ。それよりも少し遅れて、私の初恋の桜も花を散らしたのだと今思った。


 *


「そっか」


 私の文脈もへったくれもない断片的な保健室であったことの話を聞き終えた美里ちゃんは小さく呟いて、優しい口調で語った。


「ひとつだけ言っとくけどさ、私は好きになった同性にそういうこと思うの、別におかしくないって考えだよ。それって普通は恋の延長線にあるもんだしね」


「でも」


「うん、それで小実ちゃんとのいざこざが解決するわけじゃないよ。あの子がどう思ってるか分からないからね。これは私の意見として千草ちゃんに伝えただけ」


 で、と背後の美里ちゃんは静かに続ける。


「……千草ちゃんはどうしたいって思ってる?」


「……もう私には四ツ足さんに恋する資格はもちろん、友達として接する資格もないと思うけど……」


 答えながら私は膝の拳を固く握り締めた。四ツ足さんと会って話すことを想像すれば心の中が押し潰されそうになるけれど、悪いのは私なんだ。これは人としてやらなきゃだめなこと。


「……せめて、ちゃんと謝りたい」


「そう重く考えなくてもいいと思うけどね、だって――」


 美里ちゃんは一瞬何かを言おうとして「いや」と黙る。しばしの沈黙があったあと、ふっと息を吐く音が背中から聞こえてきて肩に置かれた手がどけられた。


「……わかった。私も手伝うよ」

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