エピローグ わたしと机と千草ちゃん


「ね、千草ちゃーん」


 あれから数か月くらい経ったある日の、お昼。わたしはいつも通りの屋上前の階段で、そこに座る千草ちゃんに後ろからばっと抱き着いた。


「なあにー? 小実さんっ」


 千草ちゃんはそんなわたしに振り向いて、ふふっと笑う。わたしが作ってきた甘い卵焼きを食べながら、可憐な花みたいな笑顔を浮かべる。いつもならこっちまで嬉しくなってしまうその笑みだけど、今回はとあることが引っかかってわたしは頬を膨らませた。


「もー。千草ちゃん、いつになったら小実ちゃんとか、小実って呼んでくれるのー? それって吉井さんより格下ってことじゃん。また嫉妬しちゃうよ?」


「えーだって……いつも言ってるけど、美里ちゃんとは違うの。なんか恥ずかしいの……」


 付き合うことになった日、わたしが名前で呼び合うことを提案すると漆さんはやたらと照れた。わたしのことを名前で呼ぶなんて考えてもみなかったらしい。


 だからそのあと右翼曲折あって、『よつあっしー』だの『小実のすけ』だの訳の分からないあだ名を経由したのち、ようやく千草ちゃんはわたしのことを『小実さん』って呼んでくれるようになった。


 ずっと彼女のことを名前で呼びたかったわたしとしてはまだちょっと不満なんだけど。でもうれしいからたまにしかこうやって文句を言わない。


 だってそれって、わたしのことを特別扱いしてくれてるってことでもあるからね。そんなことをにまにまと考えていると、千草ちゃんが何か思いついたのかぽんと手を打った。


「あ、だったら。小実さんがまたうなじにキスさせてくれるなら考えるかも……?」


「えっ。あれするとなんか変な気分になるからヤなんだって! なんかわたしたちにはまだ踏み込んじゃいけない空気になるでしょ!?」

 

 じたばたと千草ちゃんの前で身もだえする。


 この前わたしの家に千草ちゃんとデートしたとき、普通のキスも何回もしたけど。そのあと漆さんが急にうなじにキスしたいとか言い出して、なし崩し的に10回以上は首筋に口づけをされたのだ。


 あれはなんかすごいなんだかぞくぞくってして、新しい世界が開けてしまいそうでやばかった。実際次の日吉井さんから「あんま痕ついてないけど、一応ねー」ってバンソコーをやたらと貰ったし。


 だからわたし的にはきもちいいんだけどやりたくなくて、どっちかっていうとやりたくて。でもなー。悩むけど名前で呼んでほしいし、うーん。


「……考えとく……」


「じゃ、私も名前のことは考えとくっ。そゆことでいいでしょ……? 小実さんっ」


 わたしが頬に熱をやりながらぼそぼそと呟くと、千草ちゃんはしてやったりとばかりに歯を見せて笑った。上手いこと逃げられた。わたしは思わず立ち上がって千草ちゃんにぶーぶーと唇を尖らせた。


「もう千草ちゃん、それずるいってば!」


「ごめんごめん。でも絶対……ちゃんと『さん』を外すから。ね?」


 そうやって片目を閉じて人差し指を口元で立ててお茶目なおねーさんみたいに言われると、見とれてしまって黙らざるを得ない。なんか千草ちゃん、わたしの扱いにだんだん慣れてきてない?


「わかった。楽しみにする……。わたしもまた勇気出してうなじにキス、してもらうから」


「ふふ。私も楽しみ……にしとくっ」


 そんなことを話してると、丁度チャイムが鳴った。それを合図にわたしが座ったままの千草ちゃんをエスコートするみたいに片手を差し出すと、彼女はそっとそれに触れた。


「あ、掃除だね。いこっか、千草ちゃん!」


「うん!」


 指と指が絡まる。もう数えきれないほどした、恋人繋ぎ。そしてスカートを叩きながら立ち上がった千草ちゃんの横に並んで、同時に歩き出した。空だって飛べそうなくらい軽い足取りで。


 *


 この時間に教室にいる女の子はみんなお揃いだ。上はセーラー服のまま、下はスカートが汚れないように体操服の長ズボンに履き替える。


 ちょっとダサいなって思っちゃってたこともあったけど。こうして同じ班の千草ちゃんと窓際にもたれかかって、こっそりと手を繋ぎながらおしゃべりしてるとそんなこと飛んで行っちゃう。


「小実ちゃーん、千草ちゃーん。こっち掃き終わったよー」


「あ、うーん」「わかったー」

 

 と。向こうから箒を持った吉井さんの声が聞こえてくる。出番だ。わたしと千草ちゃんはぱっと繋いでいた手を離して、それぞれ小走りでとある机に駆け寄って持ち上げる。わたしが窓際の一番前の席。漆さんがその隣の席だ。


「よいしょっと」


 ずしりと重いけど。目を奪われちゃう黒光りするきれいな光沢。穴ぼこや落書きひとつなくて、ほんのりあったかい机。漆千草ちゃん。わたしの恋人。大好きな女の子の机。未だに『きれい』って思っちゃう机。


 隣を見る。千草ちゃんはわたしの机を持ち上げて運んでいた。そして足並みを揃えて、ぴったり同時に床に下ろす。思わずふたりで顔を見合わせて、吹き出した。


 そのままお腹を抱えながらその場でしゃがみこんで、そっと千草ちゃんに近づく。千草ちゃんも四つん這いになるみたいにこっちに向かってにじりよってきて。


 わたしたちはわたしたちの机の間で。こっそりと指を絡ませた。


「大好きだよ、千草ちゃん」


「愛してます。小実さん」


 お互いに囁いたひとことは。夏の日差しにも負けずに大好きな人の耳まで届く。それだけで、この関係が永遠に続くような気がした。


 わたしは今日も千草ちゃんの机を。


 千草ちゃんは今日もわたしの机を。


 そんな新しくできた日課まで似た者同士な、ずーっと恋人同士のわたしたちなのだった。

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