第6話 わたしともんもんと白


 次の日は寝不足だった。恋に気付いたからか、昨日の漆さんのことが完全に脳裏に焼き付いて瞼を閉じさせず、うとうとしたと思ったら奥田さんの恋がどうなったのか気になって飛び起きた。


 結果、なんの収穫もないまま一睡もできなかった四ツ足小実は朝のホームルームを迎えようとしている。けど悪いことばっかじゃない、教室の窓際、前の方を見る。ポニーテールとヘアピンを付けたボブカット。奥田さんと漆さんが楽しそうに話しているのがわかった。


 と、そのとき漆さんがこっちを急に向いて笑いながらぱちっと目くばせをした。心臓がでんぐり返って例のカウントダウンが減っていくけど、あれは多分奥田さんの恋は成就したから大丈夫って感じの合図だよね。


 ほっとする。けどその一方で漆さんもわたしのことが好きで、アピールのために目くばせしてくれたらもっといいのに。そんなことを思ってぶんぶんと首を振る。あんまりにもわがまますぎた。


「よっ、小実ちゃん。1時間目なんだっけー」


「おはよ、吉井さん。えとね、英語だよ。発音練習するから席替えするって――」


 そのとき遅刻寸前で吉井さんが教室に入ってきたからわたしもそっちに向き直る。吉井さんにも恋のことを言いたかったけど、流石にそこまでの勇気はまだ出なかった。


 *


「と、いうことで四ツ足さん。あなたは漆さんの席に座ってくださいね」


 1時間目が始まってすぐに席替え。普通ならこの時間だけ席を移動するだけの特に意味のないもの。でも英語の先生のその何気ない言葉は、頭の後ろをハンマーでぶん殴られたみたいな衝撃を生んだ。え、え、え、え。わたしが、漆さんの席に座る? 漆さんがいつも使ってるあの机と椅子に?


 わなわな震えてるわたしに吉井さんが「ありゃ1番前だ、残念だったねー」とにやつくのを否定したかったけどそれどころじゃなくて。


 そんなわたしを置いてあれよあれよと教室の中は生徒の大移動は始まって、わたしも自分の席から追い出されるように漆さんの席に近づく。黒い光沢。落書きや穴ひとつない。きれいな机。いつも運んでる机。見ただけでくらくらっとした。


 でもいつまでも立ってるわけにはいかなくて椅子に腰かける。ほんの少しだけあったかい。体温。さっきまで座ってた漆さんの体温。


 フラッシュバックする。漆さんが、漆さんのあれが、膝下までのスカートに包まれたあれが。今までここにあったんだ。その温度が、わたしのスカート越しに……。


「うううう、ううう……」


 なにこれ、だめだ。クラスメイトたちは教科書開いて「アポ―」とか言ってるけど、わたしの顔のほうが赤くなってアポ―になりそう。そんなアホーなことを思ってしまうほど、わたしの脳みそはパンク寸前だった。


 ヘンだ。寝不足のせい? 恋は知れたはずなのに、別の名前を知らない何かがわたしの中を駆け巡ってる。心臓がどっごんどっごんぶち壊れそうな音を立てている。授業なんて集中できそうもなくて、わたしは机の上にへにょへにょと突っ伏した。


 けど、それがほんの数分前まで漆さんがあの細い手や教科書を置いていた机だと思い出してがばあっと顔を上げる。クラスメイトや先生から不思議生物を見るみたいな視線を頂いたけど、どうでもよかった。


 わたしより後ろの席に座ってる漆さんからヘンな目で見られてないか、それだけが気がかりだった。


 *


「はあ……」


 英語の授業をなんとか終えて、いつも通りの席に戻るとそのヘンな感じは落ち着いた。今は昼休み、教室で吉井さんとご飯を食べたあと、ひとりでトイレに来た帰り。がらりと教室の扉を開けたわたしはそこで固まった。


「でさー、そんときあいつがさぁ。聞いてる? 矢崎」


「なによなによ」


 あ……わたしの席に座ってクラスメイトの女の子たちが話してる。わたしの机にもたれかかってるのが同じ班の矢崎さん。椅子に座ってるのが漆さんと一緒の班の加賀さん。どっちもギャルっぽくて、わたしのちょっと苦手な2人組だ。


 どうしよう、もうすぐ掃除だから体操服のズボンをはかなきゃいけないんだけど。吉井さんに助けを求めようときょろきょろしても見当たらない。その代わり、窓際の前の方が空いていることに気付く。


 漆さんの席に接近することになるけどしょうがない。わたしはこっそり自分のカバンからズボンを取って、そこへ行くことにした。


「あれ、四ツ足さん。どうしたの?」


「う、うん……いやー、ちょっと、ね……着替えを……」


 ちょうど留守にしてるみたいだった奥田さんの席に近寄ると、前の漆さんは座って読んでいた文庫本をぱたんと閉じて身体ごと振り返った。


 漆さんがわたしに気づいてこっちを見てくれた、それだけで飛び上がりそうなほど嬉しかった。もっと話したい。昨日みたいに。だけど今の漆さんを見てると恋以上のあの感情がなだれ込んできそうで、結局いつも通り下を向いてぼそぼそと喋った。


「ほんとだ、もうこんな時間。私も着替えよっと」

 

 漆さんは時計をちらりと見上げてそう言ってから、わたしと同じようにズボンを持って椅子から立ち上がる。


 こういうとき、スカートを履いたまま下にズボンを着て後からスカートだけ取るっていうのが女の子のアタリマエ。いくらスカートの下に短パンを履いてるからといっても男の子が近くにいるし、周囲に肌をさらけ出すのが恥ずかしくなるのは当然だ。


 なので漆さんもわたしに背を向けて長めのスカートの中にズボンを滑り込ませて中腰になって――。


 先に着替え終わったわたしはそんな彼女の様子をどうしても見てしまう。1時間目に色々と頭の中を駆け巡った漆さんのあれから視線を外せない。


 また、あの感情が流れてくる。どきどきの恋の先にある、どこどこ心臓が胸打つ情動。足の小指から髪の毛の1本1本にまで熱を持ちそうな想い。これを堪えたくて、でも堪えたくなくて。


 いつの間にかわたしは持ったままのスカートを床に落としていた。それは春風に乗って、着替えが丁度終了した漆さんの目の前まで滑っていく。

 

「あっ、漆さ……! ごめんっ」


「いいよいいよ。私拾うから――」

 

 反射的に謝ると、漆さんは首を横に振ってしゃがみ込んだ。わたしもスカートを受け取るためにその丸まった背中に2、3歩歩み寄って――、びたっとその場で停止した。


 着替えたばかりの漆さんはカッターシャツをズボンの中に入れていなくて、しゃがんだことで腰の辺りの布地が引っ張られていて。


 つまるところ、ズボンのウエストから少しだけ見えてしまっていたのだ。漆さんの白く透き通った背中の肌と。


 真っ白な下着。つまり、パンツが。


 ぶち、と。


 わたしをぎりぎりで繋ぎ止めていた糸が、寝不足と恋とこの感情でごっちゃになっていたわたしの糸がぷつんと切れた。もう限界だった。足がもつれる、床に崩れるみたいにして倒れる。視界と意識がゆっくりブラックアウトしていく。


「よ、四ツ足さん――!?」

 

 かすかに飛び込んできた漆さんの悲鳴を聞きながら、わたしは彼女に謝った。ひとつ、この感情に理解ができた。漆さんの名前みたいにそれはわたしの中でしっくり来て、正解な気がしたのだ。


 だから謝る。ごめん、漆さん。


 わたし、男の子が女の子にするみたいに――、もしかしたら漆さんをえっちな目で見てしまってるかも。

  

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