愚者やら智者やら賢者やら

正しいと思うこと、良いと思うこと、好きだと思えること。私は雑然と、私の望むことを生きているように思っていたけれど、ふと気がついたことがある。この根底には真善美を是とする思考があり、それはとても西洋的だ、と。

正しさを求めるのは真実の探究のことだろうし、良いことというのは善そのものだろうし、好きというのは結局のところ審美的判断に過ぎないのだろうから。

無意識的になのか、意識的にそちらへと流れたのかはわからない。私は専門的に西洋哲学や思想史を勉強したわけでもなければ、かといって、東洋的な世界観を嫌悪するでも忌避するでもなく、むしろ中立でいるつもりではあった。浅学ながら、西洋東洋どちらも好きで、どちらもそれなりに本を読み漁った。だが、あらためて考えてみると明らかに西洋よりなのだと知る。理性、人間性、知性、合理性。東洋にそうしたものがないなどというつもりは毛頭ない。それらの用い方、ベクトルが異なるように思う。無へ向かうか、無限へ向かうか。西洋は自然を支配し、自然が壊れれば、あらたに大きな力によって自然をコントロールする。東洋、とりわけ日本は、自然の一部として自分たちを捉え、支配させておく、あるいは飲み込ませてしまう。ものの見方が異なる。人間中心か、自然中心か。私は自然中心的なあり方を理解しながらも、それでも人間中心にものごとを考えたいし、自分自身を、その文脈として位置づけたいと考えているのだろう。

私がカミュに感銘を受けたのは、知性や合理性の基盤の上に、自然に対する支配ではなく、無意味な抵抗のようなものを見出したからだと思う。それは自然を大きな力で支配しようとすることでもなく、また、屈服してしまうことでもない。生活をする、ということだ。生活をする。奪われようが、奪おうが、どちらにしてもただその日その時にできることをするという誠実さ。昨日と今日を続ける。それが結果として明日になるような生き方。人間だ、と思った。そして愚かだ、とも。理性や知性、合理性、そうしたものの行き着く終着点として、知性や理性が反転したものとして、反抗や抵抗という愚かさが描かれている。愚かさというのは、それは例えば『ペスト』の登場人物である新聞記者のランベールが脱出を思いとどまったような、そうした愚かさだ。リウーやタルーが、ヒロイズムでも正義感でもなく、ほとんと純粋な義務感のようなもので医療行為を続けていた愚かさだ。ただ欲望にしたがって、自然から逃れるようにして、不幸を避けるようにして生きてもいいはずなのに、そうしたら幸福でいられたはずなのに、そうしない愚かさだ。そして、それこそが人間だ、という肯定。知と愚が混交する。

西洋的合理主義、理知主義の最果てとしての諦観のようなものがカミュにはある気がする。諦観、という言葉がふさわしいかは疑わしいが、かといって、達観とはいいたくもない。カミュのいうように、反抗といい表すべきか。そこには合理主義の限界を認めるような態度があり、私はもしかすると、そこに東洋的な自然に対する屈服、被支配、自然中心主義に類似した性質を見出そうとしているのかもしれない(実際には「反抗」なのだから、屈服とは程遠いのだけれども……)。

理性とは、知性とは、などと考えていると結局、最後にはもっと誠実で、平凡で、ありきたりな生そのもの、あるいは生活、とでも言うべきものにぶつかり、それこそが私にとっての真実であり、善であり、美しさでもある、ということか。そこへ辿り着くには、理性や知性を究極的に突き詰めることによることもあれば、ただ自然に、流れるようにしてそこに到達できる人もいて、愚者やら智者やら賢者やら、そうしたものの区別をまったくもって有耶無耶にしてしまうなにかがあるように思っている。さらには、そこには幸不幸もあまり関係がない。ただ生活をするのだ。私、あるいはその当事者が、その瞬間にできることをやる、正しいと思うこと、良いと思うこと、好きだと思えること、その取捨選択をしながら(あるいはその取捨選択すらせずに無意識に)、生きる。とても非合理で、矛盾している。結局は合理的な選択や論理性を捨てる、というより諦めるところへと行きつき、ただ生きる、誠実に、意志の力で生きる、ということに尽きてしまう。知性もへったくれもあったもんじゃない。

なんだろう、我ながらとてもつまらないことを書いている気がする。なにを考えるにも知識が邪魔をしている気がする。まっさらの、まだ誰も踏んでいない降ったばかりの雪のような、綺麗な状態の心が欲しい。どこかで手に入れられないだろうかと願ったところで徒労だ。私は、知識や理性に向かって進む以外にない。だから私は、西洋的な文脈に自分を位置付けるのだ。

知とはなにか。西洋哲学の嚆矢ともいうべきソクラテスは、「無知の知」という考えを提唱している。知らないことを知っている、それこそが知なのだろうといったわけだが、知らないことをいくら知っていたとしたって、現代においては多少の謙虚さを生むくらいで、実際にはなににもならない。これほどまで知の溢れた時代はなかったはずだ。知れば知るほど、知らないことが無数に増えていく時代なんてなかったはずだ。だから、知るために、理解するために、ひたすら学び続けるしかないし、考え続けるしかない。ソクラテスの時代とは違う。私に学べることは際限なくあり、学び、思考していけば、それなりの成功がほとんど約束されているような時代に生まれたことは単に幸福といえるかもしれないけれど、そうした合理主義的傾向によって、知と愚を明確に区別するように社会が変化していったように思う。知を利へと収束させようとする力が働いているが、その中で単に利ではない知を身につけようと思えば、ある程度は他人や社会に抗うことも当然あるのだと思う。実際には知も愚もすごく曖昧で、それをはかるための指標が無数にあるという、ただそれだけのことだ。資本主義社会が支配する時代の中では、稼ぐこと、生産的であること、社会貢献をすること、そうしたことこそが価値であり意味であるとされるというだけの話で、実際にはそれらと幸福は直線で結ばれているわけではないし、そもそも人は、必ずしも幸福を望む必要などない。真善美と幸福は同じものではないし、無や無欲は、幸福からは程遠い。私は私の知を探せばいいのであって、資本主義の文脈の中で意味を探る必要など皆目ないはずだけれど、それでは生きていけない。妥協点を探す必要がある。


知と愚の明瞭な区別などしようがないという旨のことを書こうと思っていたはずが、思考は右へ左へと揺れながら、うまく着地ができそうにないことに気づく。一瞬で駆け抜けなければならない。思考がふわふわと近くに浮いているうちに、すべてを掴み取らなければならない。

逃してしまった。あるいは、私の中にそれほど知と愚に対する具体的な思考がはなから存在していなかったというだけの話だ。私は浅い。浅すぎて話にならない。浅すぎる私をまた掘り返していかなければならない、となると、苦労する。


私には断ち切らなければならないものが多い。あらゆる欲が書くことから私を遠ざけようとしている。書くために、私は書いている。書くことそのものが自己目的的で、かつ、書くことによって、あらたに書くことを目指している。周囲に誘惑は溢れている。その一つを断った。

テレビを処分した。テレビとしては使用していなかった。Youtubeを見るためだけに使っていたそれを処分することで、無駄な時間を減らせると思った。

小さい頃からテレビばかり見て育ったように思う。一億総白痴化という言葉が昔あった。テレビが人間を愚かにする、と。今はテレビではなく、ソーシャルメディアがその役割を担っているかもしれない。愚かにするかどうかはよくわからない。ただ、人から時間を際限なく奪っていくのは確かだと思う。しかも、価値を生み出さない。

人にとっての価値は生活のなかにある。あるいは、平穏な生活、平静な生活のなかに見出す、小さな喜びのなかにあると思う。知恵や知識は、そうした喜びのためだけに用いれば良いのであって、ソーシャルメディアでどこの誰とも知らない誰かに賞賛されるために用いるようなものではないはずだ。近しい人、親しい人、大切な人、愛おしい人。それこそが価値だ。それを忘れてしまうならば、それは愚かといっても差し支えないのではないかと思う。


話がぐらぐらふらふら。まとまらない。逸れる。


無理やりに言葉を綴るのはつらい。書くべきことがあるから書くのであって、書かなければならないから書くのではない。それでも書くのは、書いてみなければ、案外書きたいことなどわからなかったりするからで、そうした時でもとりあえず手だけでも動かしていれば、なにかが生まれたりするからだ。

偶然だけに頼ってはいけないけれど、偶然に頼ってみるのは悪くない。

しっかり技術を磨こう。言葉を丁寧に扱おう。でも、たくさん書こう。書いて体力をつけていこう。走り続けることでしか得られないものがあるから。

誰かが呼んでくれるなどと期待するのはやめよう。ただ、書くことで、私がそこからなにを見出すことができるかだけに集中しよう。無駄なことはできるかぎり捨てていこう。


やれること、やるべきことなんてどうせそう多くないのだから、難しく考える必要などない。

書くこと。読むこと。学ぶこと。思考すること。私にできるのはそれだけで、私がすべきなのはそれだけで、私がしたいのはそれだけで十分なはず

あとは、ほんの少しだけ友人と過ごしたり、労働したり、絵を描いてみたり、ご飯を食べたり寝たり、運動したり、そういう時間があればいい。


省いていく。消していく。そうして私は私の愚かさと賢さを懸命に生きようと思う。他人の愚かさや賢さに巻き込まれる必要なんて微塵もないのだから。今日も生きよ、書こう。正しいと思うこと、良いと思うこと、好きだと思えることを。

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