嘘と後悔、罪悪感。そして回る
鳩の卵は小さい。
子供の手のひらにすっぽりとおさまるほどの大きさで、殻は薄く、光に透けているように見える。
その薄い殻の内に生命が宿っているなど信じられそうにない。淡く頼りなくて、命というより、石のような無機物だと思いたかった。
私は頻繁に嘘をつく子供だった。それも、嘘を嘘だとわかりながら、悪いことだと知りながら、嘘をついた。
多くの子どもは幼い頃、無自覚で嘘をつく時期があると聞いたことがある。出来事の解釈を自分の都合のいいように書きかえ、それが事実だと誤認してしまうというのだ。つまり、悪意があっての嘘ではない。自分を守るために、自然と生まれる嘘。
私の場合、幼少期にはそうした無邪気な嘘もあっただろうが、怒られること、母親の期待から外れることを恐れて、頻繁に、自覚的に、意図して嘘をついた。
家庭内で時間をかけて醸造された悪癖は、取り除きがたく私の性根に染みこみ、いつのまにか外でも嫌らしく臭うようになった。
はっきりと記憶に残っている嘘がいくつかある。
母は、私の同級生の父親と関係を持っていた。
母と同級生の父、私の三人で釣りに行ったことがある。私は状況の歪さに気づくこともなく、たまの遠出を喜んだ。
後日、同級生と学校で会い、その話をした。彼も私と同い年で、そのできごとの意味を特に考えるでもなく聞いただろう。ただ、疑問には思ったはずだ。同級生の彼にとっては、唐突に自分の父とクラスメイトとその母が出かけたと聞いたのだ。まったくもって悪意なく交わされた言葉は、私と彼の知らぬところで、誰かを傷つけ、脅かした。
しばらく経ってから、母が般若のような顔をして私に問いただした。
「遊びに行ったこと、○○君にいってないよね?」
私はほとんど反射的に首を振った。
母の表情には、微かに怯えのようなものも含まれていた。
私が幼かったころ、母も同じく幼かった。おそらく、今の私よりも若い。
あまりに愚かな行為ではあったが、そんなものだろうとも思う。私もやはり、いまだ成熟しきらず、幼く、十分に愚かだからだ。同情しなくもない。人は、私も彼女も同じように愚かで、傷つけたり、傷つけられたり、そうしたくだらないことの連鎖をいつまで止められずにいる。
母は私にそれ以上問うことをしなかった。
私は、嘘が悪いことだと知っていたし、反射的に嘘をついたことを後悔した。
そのとき起きていたことの意味を知った今となっても、不思議とその罪悪感は消えてはいない。
幼かった私の手に負えるような出来事ではなかったはずなのに、母に見た微かな怯えの責任が、私にあるように思ってしまう。そして後に、彼女の心に巣食う暗い憂鬱となる萌芽が、この一事だったのだと。
小学校の頃のことだ。
乱暴者で知られていた、とても背の高い少年がいた。学年内でも問題児のひとりとして把握され、新しい学年で同じクラスになったと知ったときは、嫌だな、という感覚ぐらいしかなかった。
なぜか私は彼の気に入ったらしい。
外れものの彼にとっては、小さく、弱く、惨めだった私だけが、唯一友情を築き得るクラスメイトに思えたのかもしれない。
彼は私との友情の証として、ひとつの秘密を共有した。
「ここだよ」
そう言って、彼は校庭の脇に植えられた、一本の小さな立木の前に立った。二時間目のあとの休み時間のことだった。それが何の木だったか、今でもわからない。子供でものぼれる程度のほんの小さな木で、濃い緑の葉がびっしり生えていた。
彼は先に木をのぼった。私も素直にしたがい、彼に続いた。木の枝は短い感覚で密集していて、かえってのぼりにくかった。大人のからだではのぼれない。からだの大きな彼も、窮屈そうに身を縮こまらせてのぼっている。私は隙間をすり抜けるようにして彼と同じルートをたどり、二人はちょうど木の半分ほどまでのぼった。
「ほら、見てごらん」
彼が覗き込む先に、細い木の枝がお皿状に絡まり合ったなにかがあった。私は彼と同じ高さまでのぼり、中を覗き込んだ。
雑然と絡み合う枝の中央に、真っ白な丸い玉が三つ。濃い緑の葉が重なり合い、その隙間からスポットライトのような光が落ちていた。荒々しい自然の舞台に、小さな卵が並んでいた。
「……なんの卵?」
「鳩だよ。僕が見つけたんだ」
彼の瞳は他の誰とも違っていた。琥珀色に澄んだ、美しい瞳だ。また、髪もかすかに栗色を帯び、太陽の光を透かすと鮮やかな赤に輝いた。
彼はほんのり頬を赤く染め、微笑し、愛おしそうに鳩の巣を覗き込んでいる。私はなんとなく、彼のその態度を鬱陶しく感じた。
「絶対に秘密だからね。誰にも言っちゃダメだから」
「……うん」
その日のうちに、私はその約束を破った。
彼との友情の証を汚すことで、関係そのものを否定できる。そんな打算が私にあったとは思えないが、悪意をもって、そしてそれとは別の利害とによって、嘘をついたのだ。
放課後、サッカーの習い事があった。
チームの中で一番うまかったのが、一番背の低い少年だった。仮に彼を、Aと呼ぶ。
Aはトレセン(市や県の選抜)にも選ばれ、選手としてはチームの中で抜きん出ていた。人間的にも明るく、自発的かつ積極的で、遊ぶときでも誰もが認めるリーダーだった。
私はAに取り入った。
「鳩の卵、見たくない?」
「なにそれ」
Aは簡単に食いついた。
鳩の巣を見たことあるというだけで自慢になっただろうが、それだけでは足りない。珍しいもののありかを、私だけが知っている。それを、Aにだけ教える。乱暴者の少年が私に用いた方法を、私はそのままAに対して用いた。二人だけの秘密を、特別な紐帯とするために。
私の居場所、サッカーという居場所を守るためにやったことは、サッカーではなかった。手っ取り早く、効果的な方法だった。
サッカーが終わった後、Aを連れて校庭の脇の立ち木へ向かった。もちろん、他のチームメイトには知らせなかった。二人だけでなければ意味はない。彼も、貴重な秘密を独占したかったのだろう、特に訝しむことはなかった。
「この木?」
私が頷くと、案内を待つこともなくするするとのぼっていった。Aはどんな体育の授業でも、学年で一番目立つくらいに運動神経抜群だった。からだは小さい。あっというまに、枝を三つ四つのぼってしまった。
「どのあたり?」
Aが聞いてきた場所が、ちょうど巣のある高さだった。
昼間に見た時とはまるで見え方が違う。サッカーの後で日も暮れかけ、暗かった。Aの手がかかる枝の近くに巣はあるはずだと思い、目を細めて見るが、どの枝のあたりだったかわかりそうになかった。
「たしか、その右手のあたりだったと思うんだけど」
Aは一段高い枝に足を掛けると、右手を曲げ、同じ高さに頭をひょっこりのぞかせた。
僕はのぼらなかった。下から見る様子で、彼がすでに巣を見つけたことを悟った。これで、私と彼の間にひとつの秘密が生まれ、チームのなかで僕の居場所ができるはずだと思った。その矢先のことだった。見上げる暗闇のなかに、ピンポン玉くらいの大きさの、白い玉が光るのが見えた。葉の隙間から低くなった日差しがさし、Aの顔にまだら模様の陰影が描かれた。Aは卵をひとつ摘み上げ、光にかざし、近くでじっと眺めていた。
私はぎょっとして、思わずからだをこわばらせた。
「ちょっと、それどうするの?」
尋ねないわけにはいかなかった。Aは持ち上げた卵を矯めつ眇めつ観察してから、木の枝にお尻をおろすと、反対の手でポケットからハンカチを取り出すと、そっと卵を包み込んでポケットにしまう。私の問いに答える気などないかのように、黙ったまま枝から枝へと手足を移動させておりた。
Aの瞳に西日が沈み、その光は消えかけていた。
「ねえ、それをどうするつもりなの?」
「三つもあるんだから、一つくらい持って帰っても平気だろ」
私はなにも言えなかった。
Aは木の下でぼうと立つ私を置いて、さっさと自転車置き場へと走り去った。
いつのまにか日は沈んだ。
学校の前の通りを走る車のライトがときどき目に眩しかった。夜がふけるまえに、片付けを終えたコーチに声をかけられた。早く帰るように諭されたが、うんと気のない返事をしてから、しばらく木のかたわらで立ち尽くしていた。
私の画策した愚かな謀略は成功だったのだろうか。
Aとの関係性を強くすることもできなければ、乱暴者の彼との関係性も悪化させることになった。
翌日昼休み、乱暴者の彼から呼び出された。
「卵、盗んだでしょ」
第一声がそれだった。
私はほとんど反射で嘘をついた。それも、最も愚かな返答だった。
「盗んでない」
しらばくれればいいものを、なんとも素直に罪を認めたようなものだった。
その一言で彼は秘密が破られたことを察したのだろう、私の着ていた汚いトレーナーの襟をつかむと、地面に引きずり倒した。
肩が地面に当たると、一瞬だけ痛みが走った。
視界の半分を石畳が埋め、もう半分は体育館の入り口が埋めた。その中間には無数の子どもの足がうごめいていた。休み時間だ。校庭も、体育館前のロータリーも、遊ぶ子どもたちでいっぱいになっていた。
私は痛みよりも先に、罪の意識を感じた。そして、涙が溢れだすのがわかった。それを知って嗚咽が漏れた。激しい後悔が湧き上がり、言い訳するための言葉すらも出なかった。涙がとめどなく溢れ、嗚咽が止まらなくなった。地べたでのたつつようにしゃくりあげながら泣く私の腹に、彼が蹴りを入れた。子どもたちが二人を取り囲むように集まりはじめた。彼がもう一度、私の腹を蹴った。罰せられることは、私にとっては救いだった。続けざまに蹴りを見舞う寸前のところで、誰かがそれを止めた。
「先生を呼んできて」という声が聞こえた。
涙でなにも見えなかった。泣き声でなにも聞こえなくなった。先生がやってきたらしい。私は背負われ、保健室に運ばれた。後で事情を聞かれたものの、私も、乱暴者の彼も、なにも話さなかった。
私の嘘とその記憶は、私になにをもたらしたのだろうか。
どうやら、嘘をつくという私の悪癖は直っていない。
私は小説を書いている。
小説は、あるいはすべての言葉は、嘘でできている。言葉は生の現実と完全に対応しているわけではなく、現実の状況に合わせてその形を変えていく。だとしたら、言葉に真実などないではないか。
あるいは。
小説を書くというのは、私の後悔や罪悪感に対する単なる弁明なのではないか。自分を正当化するために、こうして言葉を綴るのではないか。
などと、私は今日も嘘をつく。
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