私はそうして今日もばらばらになる

好きに書くと決めたため、頭に浮かぶことをとにかく書いている。

だが、そうして書いたものはどこか退屈で、無理やり生み出された人工物のような冷たさをはらんでいる。いずれは深海に沈むコンクリートの塊のように静かな眠りにつく。誰にも知られないまま、海溝に飲まれ、溶け、地球の断片になる。妙なイメージが浮かぶ。


はかなさ。世の無常というものはおそらく、人類がを獲得したその瞬間から絶えず人の生に付随し、煩わせてきた。人の心に巣食い、生の意味とありようを常に問いに変えてしまうような実に厄介な呪いなのだろう。

時の速度は、交通網や情報伝達技術の変化にともない急激に増し、怒涛となってあらゆる些事が食われてにわかに消える。一週間前の出来事ですらすでに遠く、新しい情報がところてん方式で古い記憶を追い出してしまい、私にとってなにが大切だったかも忘れてしまう。


だから私は永遠の迷子なのだ。


日々、注目を集める話題がとってかわり、どれも短命で、一瞬にして消えてしまうのに、あまりに頼りないその情報を、多くの人が理由もなく集めたがる。情報の集約こそが生の意味だ、という号令のもと、刹那性こそが生の本質だとかうそぶいてみる。そうして意味はすぐさま消えてしまうから、また新しい情報を求め、意味の不足を埋める。

消費と生産の絶え間ない連続が自身の首を真綿で締め付けていると知りながらも、私たちは立ち止まることができない。私たちはどうやっても無意味に耐えられないのだ。現代において人々の意味を紡ぐのは家族や友人関係、創作や社会的活動ではなく、消費だ。人は消費を続けなければ、生きている意味などない。生きている


ふと、世界からコンテキストが失われたらどうなるのだろう、などと考えてみたくなる。

TikTokなどの短い動画はローコンテキストで、情報は表層をリニアのごとく疾駆し、ほとんど心に触れることもなく過ぎ去っていく。Youtubeのショート動画や、Twitterの一部のバズるコンテンツもまた同様だ。人口に膾炙する速度は、コンテキストの量に反比例する。はかなさもまた、コンテキストの量に反比例する。


では、コンテキストなど不要なのだろうか。


脈々と継承されてきた文化や歴史を背景として、小説や物語は成り立ってきたが、TikTokのようなバズる要素は皆無だし、そういう文や小説のありかたは、そもそも否定されうる気がする。例えば俳句や短歌は、過去に使われた言葉を再利用することで、容易に背景の広がりを持たせることができる。そうした作品からコンテキストを取り去れば、ただの短文に成り下がる。

そもそも、小説や物語、文章の持つ力はViralではない、というよりそれはむしろ、免疫システムの強化に寄与するものなのではないか。読書体験は人の経験の中に強靭な免疫システムを構築していくための、重要なミームなのではないか、と。性質がまるで異なっているのだ。



コンテキストこそが権威だった時代は、いずれ終焉を迎えるのだろうか。


文学の世界はむしろ、コンテキストこそがすべてだった。過去の歴史が積み上げてきた権威を徐々に改変しながら、新しいものその上に築き上げていく。時に破天荒な作品が一瞬にして新境地を開くこともだるだろうが、それは稀で、地道に言葉をつむぎ、過去を未来につなげていく以外に手段はない。そもそも新しさというのは、コンテキストの破壊という意味で革命であり、革命は倒すべき対象がなければ成り立たない。それが歴史であり、それが文化であると私は思っていた。完全にコンテキストに依存した文学のありかたそのものが、過去になんどもくりかえし否定され、自己否定すらも文学は内包していく。単純な自家撞着に終始しないのは、文学は役に立たないなどといわれながらも常に反省を繰り返してきた証だろう。


だからこそ私は、言葉の持つ力は大きいと信じられる。同時に、言葉は脅威でもあると思う。


人を煽動し、傷つけ、支配するのに用いられるもっとも大きな力こそが、言葉だと思う。言葉に生じた革命は、社会のひずみをあらかじめ内包し、社会革命に先行して文学において革命が生じることになる。結果、言葉は十分に人を殺す力を持つのだ。


これは言葉に対する妄信ではなく、畏れだ。


言葉の中には、言葉以上のなにかが宿っている気がするのは、人類が言語を用いるようになった当初からの蓄積が、たった一語の内にすら含まれざるを得ないからだ。だからこそ意味や解釈によって多様な表情を持り、一つの正しい解釈というものがあると言えない。

不安定な意味の揺らぎが永遠に続き、読む者の感性と判断にすべてがゆだねられてしまう曖昧な世界、それが文学ということになる。



エドワード・W・サイードは著書『オリエンタリズム』で、コンテクストの持つ権威と歴史、それらが生み出したオリエントという幻想を批判している。

まずテキストがある。テキストによって表象された実体のないオリエントが西洋で醸造され、実際にオリエントと呼ばれる領域に足を踏み入れた人々は、過去のテキストを微修正する形で、権威に則りながら新しい権威を構築していく。その過程で膨らんでいくオリエントの内容は、西洋の求めるオリエントの有り様であって、オリエントそのものとは別個の領域をテキストの中に生み出していく。となれば、長期にわたって西洋で育まれてきたオリエントは、いったいどこにあるのだろうか。


歴史によって一度構築された権威を打ち砕くのは容易ではない。

サイードの批判は西洋文化圏にはそれなりにインパクトを与えたのだろうが、西洋による東洋の教化が可能だとするような傲慢な態度は、今でもしばしば目にする。

サイードの批判によってコンテキストによって紡がれた幻想は崩壊することもなく、権威は維持され続けている。それは、コンテキストの強靭さを十分に証明すると思う。同時に、正しさという価値観は容易に覆らないということをも証明している。言葉の力は強いからこそ、人はそれに抗わなければならないときがある。


サイードの批判は、言葉の持つ弱点をさらけ出すのに大きな役割を果たしたのではないかと思う。

フーコーのいう言説ディスクールの背景にある西洋の欺瞞を、オリエンタリズム批判として明示的に体現したことによって、言説の持つ権威そのものに人々が疑いをもって見ることを可能とした。こうした運動は、おそらくサイードに限った話ではなく、彼に与する研究というのはいくらでも現れたのではないかと思う。(不勉強のため私は詳しくない)。


多様性、という言葉をよく聞くようになった。人種や民族、言語、国籍、性、障害の有無など、人の多様なありかたを尊重し、認め合おうというのが社会的なコンセンサスになりつつあると思う。その根幹にあるのが相対主義で——



と、ここまで書いて、手が止まった。電車のなかでのことだ。


私は今、ややこしい隘路に迷い込んでいる。

主義思想とその歴史に足を踏み入れると、正確さや知的な蓄積に対して最も慎重な敬意を払わざるを得なくなる。というか、そうでなければ歴史を読み解く資格などない。そうした大仰な気持ちで挑もうとすると、なにも言葉が出てこなくなってしまう。私の知は、読み解く資格などという水準には到底届きそうにはない。

もっと漠然とした感覚に頼るべきだと思う。

知そのものは常に収集しながらも、得たものをふんわりとアウトプットしていく。自分の理解が届きうる範囲内で掬い取って漉して、純粋に光ってみえるものだけを拾い集めていく。私が今ここでやろうとしているのは、自分の、自分のためだけのたからもの箱を作ることなのだろう。子供が蝉の抜け殻を集めるのと、そう大差はない。


念頭に去来する様々な思想感情はいつだって抽象的で、抽象を言葉に落とし込むには、必ず具象を用いなければならない。逆もまたしかり。明確に言語化できる具象を言葉で表現するには、抽象を用いなければならない。

小説や文学の機能は事実を正確に伝えることではなく、むしろ伝えられなさそうななにかを他者に感じてもらう、もらえることなのじゃないかと思う。


再び多様性に戻る。

最近よく聞く多様性という言葉は残虐性を孕んでいる。多様性という言葉のもと、なにかひとつのものを強く信じること、そうして他者に深く関わろうとする存在を疎外していく。

他者に影響を与えようとするのだから当然ではないか、というのが多様性支持者のロジックなのだが、人は所詮、よかれあしかれ他者に対して影響を与え合おうとするものだ。それが害であったり益であったり、とらえる人によって異なる。多様性という言葉が少し恐ろしく感じられるのは、それを声高に主張する人たち自身が、多様性という一見すると包括的な概念ですら持たざるを得ない、絶対的な他者への否定性に気づいていないことなのだ。

我々は、どこまでもすれ違い、衝突しあい、鎬を削りあいながら生きるしかない。それを受け入れるのは難しい。だから私たちはそれを避け、逃げ、閉じこもろうとするのに、安全地帯などほとんどどこにもない。


こうした私の考えが、人との摩擦や衝突への恐れをなくした。私は私の考えを躊躇なく書くことができるし、私を批判する人の言葉を聞くことができる。衝突も摩擦も、いくらでも起こせばいい。過剰であってはいけないだけだ。


それでも問題は残る。

多様性のはらむ否定性と自分の考えこそ正しいのだと思う盲信とに基本的には差異がなく、根元にはアイデンティティの不安を拭うための帰属意識のようなものが存在している、つまりという問題からはいずれにしても逃れられない。しかも、差別もまた、同じところを根源としている気がする。

私という一人の人間を構成する様々な属性こそが、私の心に偏見や臆見を生み出す契機となり、それを取り除こうと試みることは、を意味として引き受けなければならなくなる。


これはあまりに過酷だ。


方法がわからないというだけでなく、できるとしても、結果としてのをそのままに受容できる人などいない気がする。はあっさり解体されてしまう。


実のところ、私から私の持つ属性を取り除いたら、そこにはなにも残らない。


差別と区別の違いは敬意のうむで決められるかもしれない。だとすると、社会という集団が別の集団に対して差別をなくそうと試みること自体、自家撞着に陥っている可能性がある。想定された属性を持つ集団そのものが、尊ぶことを困難にさせる。また、属性全体を守ろうとすると、誰かがこぼれる。個別で守ろうとすると、コストがかかりすぎる。方法論としても、にっちもさっちもいかない。



ここでまた、手が止まる。また、電車のなか。


私にとって書く時間がもっとも長い場所が、この電車のなかだった。

人が多い。音は少ないのに、気配が溢れていて落ち着かない。誰もが同じ方向へ進んでいるのに、目的は異なる。距離が近い。不快。

電車のなか(とりわけ日本の首都圏の電車のなか)は異常だと思う。この異常さになんとなく慣れてしまった状態から、頭をからっぽにして、眺め直す。やはり、あらためてその異常性に気づく。そもそも無数の無関係の他者がこれほど近い距離に肩身を寄せ合って、かつ、互いへの完全な無関心を試みる空間など、他にない。あったとしても、普通は目的がひとつに集約されるものと思う。確かに移動という意味では一致しているのかもしれないが、人ひとりの行動を考えると、移動そのものが目的であることは少なく、どこかでなにかをすることが目的である場合が圧倒的に多いだろう。


私は、その異常な空間で今日も文章を書いている。

落ち着かない。

落ち着かなさが、思考をひとつのところに決め込ませず、漠然とした感覚が揺れながら終着点を模索している。

その模索の過程こそが、私そのものをよく表しているような気がする。


属性と自我。帰属意識。私の分解。再構成。

私ではない私、私ではないのに部分的に私である私、私ではあるのに部分的に私ではない私。


私はそうして今日もばらばらになる。

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