余白。言葉。なにを埋めようとしているのか。
物語は常に余白に生じる。そして、物語からは常に余白が生じる。余白から余白が生まれるということは、物語が一点に収束することはありえない、必ず発散する。
小説を書く、ということは、文章から溢れる余白を無視しながら、無理やりに結末へと導こうとする、登場人物たちに対するある種の理不尽な暴力によって成立する。人物や事物の余白を完全に埋めることは、書く人にはどうしたってできない。小説は現実に対してどうしたって不完全だ、ということ。
私は、そして私以外の多くの書く人たちは、どうしてこの不毛とも思えるような余白を生み出す作業をせっせせっせと続けているのだろうか。息を深く吸ってみる。肺を酸素が満たす。息を深く吐いてみる。肺が空っぽになる。余白を埋める、余白を生む、余白を埋める、余白を生む。呼吸するのと、似たようなことなのかもしれない。循環を生み出すには空間が必要だ。言語空間そのものにはいっさいの余白が存在しない。意味は綿密に結びついており、私たちの私的な秘密や孤独はあくまでも背後であらたな物語を生み続けているに過ぎない。同時に、余白を生み続けている。ならばなぜ、表現手段として言語を選択したのだろう。
もしかしたら、言語空間そのものに穴をあけようとしているのではないか。と、突拍子もない考えが浮かぶ。物語は言語のみと結びついているわけではない。音楽や絵画などの芸術だけがその立場を独占するわけでもない。そこに人間が存在する限り、ありとあらゆる余白そのものが物語のための舞台となってしまう。今が過去を内包しているにもかかわらず、過去自体は今に現れることがない。時間が存在する。前後関係が存在する。因果関係、充足理由率、エントロピー。変化をとらえ、経験的に法則性を導こうとする、帰納的な思考手段が人間には先天的に備わっている。ある事象から次の事象を推測する。あらゆる感覚器官が得て、蓄積してきた情報と照らし合わせて判断する。私たち人間は、そもそもが余白を埋めるための物語製造装置として存在することをあらかじめ運命付けられているのだろうと思う。どうせ、なにもかもが物語になってしまう。だが、言語はどうだろうか。匂いや肌触り、味などの直接的な感覚とは違い、言語そのものが媒体だ。言語空間に余白が存在しないのは、言語そのものが媒体の役割を果たしながらあらゆる間隙を埋めようとするからかもしれない。存在と存在の間に漂っていたとらえがたいものに名前をつけることで世界を細分化していく。言語はあらたに生まれた余白に名前をつけ続ける。ばらばらになる。繋がりが複雑になって、その細かな木目の全てを正確にたどれなくなる。余白、余白、余白。
逆か、と思う。言語空間に穴を空けるのではなく、細分化されてしまった世界がばらばらにならないように再び結びつけること、それが小説を書くということなのかもしれない。だから、言語でなければいけなかったのかもしれない。
微細な変化や量を追っているだけでは、私たちはなかなかこの世界を理解できない。逆に、全体的にふわふわしたものばかりを曖昧模糊としたままとらえようにも、やはり理解できない。解する、分かる、私たちは分解している。分解し続けていては不安が過ぎる、孤独が過ぎる、言語はあまりに暴力的に過ぎる。優しさが必要だった。優しさには、強さが必要だった。小説は強靭だ。他の媒体による物語よりも強靭だ。私のなかには無数の小説が生きて、息をしていて、私に語りかける。マルテ。K。ムルソー。シーモア。ギャツビー。そうして私を生かしてくれる人たちは、私が生きている間は死ぬことはないし、私が死んでからもどうせ、誰かのなかで生き続けている。紙や言葉のなかではなく、純粋に心の中でしか息ができないのが、小説なのだろう。言語空間には余白がないから。私たちの使う言葉は、意味は、物と物との隙間をすべて埋めてしまうから。
最近Twitterで、AIイラストと手描きイラストの作者間の争いの話題を頻繁に目にするようになった。私には彼らがなにを争っているのか、今一つよくわからない。
私たちは所詮、言葉の所有者にはなれないし、文体の所有者にもなれないし、それが生み出した物語の所有者にもなれない。正確には、私たちは私たち自身が心の中で描いた物語しか独占的な所有はできない。そして同時に、その独占的な所有というのは、私たちの孤独そのものを意味している。独占したい、したくない、そんな希望とは無関係に、私たちが根底で通じ合うことなどありえないのだから、わざわざ必死に独占しようとせずとも良いのに。それはつまり、私たちが誰ともわかりあえないのだとわざわざはなから主張するような、そんな寂しい行為になりかねないのに……。
きっと、目的の違いなのだろう。生活の手段として創造物のマネタイズを前提としているからこそ、創造性に独占の必要が生じるし、AIイラストによる荒稼ぎが不正だと感じるのだろうと思う。そこには、アイデンティティの問題もいくらかあるように思う。私が私である証は、私の文章、小説、文体、選ぶ言葉のなかに内包されているから、それをコピーされては、私そのものが部分的に分解されて複製されたような不快感が生じる。それに加えて、それを商業利用されたときては、不快だ。間違いなく不快だ。私が汚されていくような気がするから……いや、本当にそうだろうか、怪しい。
あまり意味のなさそうな議論が、なぜそこに生じるのか。双方は永遠にすれ違ったまま、いつしかAIがクリエイティブ関連を席巻し、ついには推進派が勝者として立ち回るようになるのだろうか。なんとなく、そうはならない気がする。開かれている、ということはそもそも、誰でも作れる、ということだから。ネットで検索するのと同じレベルで画像生成がされる、もしくは、動画生成がされる時代が近いのだとしたら、AIを使ってなにかを作っている人たちすらも、大きな波に飲まれて無価値化していくのだから。
だから私は、彼らはなにを争っているのだろう、と思ってしまうのだろう。著作権や、現在クリエーターと呼ばれる人たちが独占しようと欲している既得権益は、あっさり崩れてしまう。崩れた先の世界になにが残るのか。ディストピアなのか。そんなわけがない、と私は信じている。
あ、そうか、と思う。迷子になっていたが、ようやく最初の場所に戻ってくることができた。余白、だ。創造されたものには必ず余白が新たに与えられる。余白を与えるのは受け取り手で、受け取り手は新たに創造する立場になる。その循環に人間は否応なしに含まれてしまう。AIは今のところ、AIのために文章を生み出すことはない。AIがAIのために言葉を生み出して、相互にコミュニケーションを行うようになれば、あらたな創造において人間は不要になるだろうか。余白を埋め、余白を生み、という不毛な円環から弾き出されてしまうだろうか。きっと、そんなこともないのだろうな、と思う。
可能な表現がどれほど埋め尽くされたとしても、やりつくされたとしても、それでもまた新しい余白や余剰や不足を求めて、探究を続けてしまうだろうから。だから、敗北を認めていい。敗北してからが、また新しい出発点になるという、それだけの話。
私は書く。今日も、明日も。余白は余白の再生産を繰り返しながら、私に新しい余白を見せてくれるだろうから。それが人間でもAIでも、私はかまわない。言葉は、音は、色や光は、造形は、プログラムにすら平等なのだから。
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