夜、思考停止のまま言葉だけが巡る、情緒不安定ハイ

白樺の森で、足跡が白く浮かびあがって光るように見えた。甘い水に誘われるようにふわふわした足取りでそちらへ流されていく。どこに行き着くとも知らずに。夜露に濡れたその足は靴をはいておらず、土と落ち葉の感触がじかに感じられるのがなんとなく気持ち悪い。イルカの肌のゴムのような感触を思い出した。似ても似つかないはずのそれは、海のにおいがした。懐かしい。私の曽祖父の曽祖母の曾祖父の曽祖母の曾祖父の曽祖母……のにおいと同じだった。覚えている。星と私を構成する元素は似ているから、心がそこにあると信じても差し支えないわけだった。

世間に溢れる「可愛い」になんとなく癒されたくてYoutubeで猫やインコやイッヌやヌートリアやオーストラリアのコアラやらなんやらの動画を漁るうちに、私もそうした可愛いものになっていればいいのに。埋もれた想いは私を一層と醜くしていく。美しい羽を広げた尾長のほのかな空色に星屑を混ぜて妄想のなかに夜を編む。私はいずれ空に消えていく。いずれ死ぬのだから、どうせ君も、どうせ私も、これを読む人、読まない人、どうせ死ぬのだから、死ぬまでは生きよう、トートロジーをこねくりまわそう、論理的脱論理で生きようよ、未来など信じなくてもいい、ただ目の前でめらめら燃える忌々しい今とか現在とか原罪やら良心の呵責に押しつぶされてしまうような脆弱な精神も星と一緒に土曜日のゴミの日に捨ててしまえばいい。思考の流れるまま垂れ流し。思考の流れるまま垂れ流し。というよりもはやこれは指による自動記述といって差し支えないのでは????

私の遠くの記憶に感謝を捧げよう、くだらないはずだった私の人生に光を差したあの人を全力で恨もう、憎もう、そしてちょっぴり感謝しよう。過去という穴を嘘で埋めつくして、成層圏で燃え尽きた星屑と同等の価値にようやく私は至るのだろうと思うのだ。くず、ごみくず、無価値な存在としての価値。矛盾、自家撞着、言葉の連関における私の立ち位置を探っているのだ、なんて言い訳でただの感情の吐露、暴露、露悪的ですらある言葉の羅列に真に意味があるとしたら、きっとどこかのくずの、敗残者のためなのかもしれないとか、なんとか。どうせ彼らにすら響かない。私の言葉は勝者でも敗者でもない、骨壺にしまった骨のように、もろい、味のない砂に似たなにかに過ぎないのだから。だから泣いたんだ。夏の幻想を抱きながら深海に飛び込む決意をした、あの日の幻想を、妄想を、死への憧れをいまだに忘れられないまま、ほら、風がカーディガンの袖を揺らして誘う、自然の傍若無人に私は勇気すら見出しては変わらないものなんてないと悟ったふりして、微分して消えてしまうほどの運命たちを、その傾きを、変化の大きさだけを捉えようとしているのだ。言葉。言葉。言葉。電車のなかに並ぶ、疲れた人々の顔。夜はやさし。夜はやさし。今晩は飲まずに眠れない。かもしれないかもしれないかもしれない。連続する連鎖する、黎明期の薄明かりを求める願いと眠いとほざく誰かの声とが混ざって、朝はあっというまに終わる。また昼がくる。働く。循環。輪を閉じてしまうことで消える有限性と、私の意味。有限性だけが意味だろうか。本当に、死ぬことだけが意味だろうか。


そうか。なるほどそうだ。

私が知りたいこと。私が今大切だと思っている人々を失ったときに、心の底から悲しめるか、という問題。きっと無理。で、さらに一歩。私は私を展開して曝け出すことで誰かとわかりあえるだろうか。という問題。きっと無理。曝け出すのが無理だし剥き出しの私を受け入れられる度量のある人なんてどこにもいなくてそれはただの神様だから。信仰。

そか、信仰か。そうして信仰に辿り着かざるを得なくなるという。信じること信じ続けること。見返りをなにも求めないこと。なにひとつ与えられずとも、納得すること。胸におさめること。私が今、期待しているなにか。価値、意味、私がなにものかということ。そうしたことを明らかにしようとする欲望そのものに対して、神は答えてはくれないわけで、なんもないわけで、結局、やはり、ただ生きるしかない。ぐるぐるぐるぐる。


瞼を閉じる。眠ったふりをする。窓を閉じる。そこにいないふりをする。

装うことで私たちは平穏を保ち続けられると勘違いしているが、きっと誰かがそのうち無理やり押し入ってくるし、無理やり揺り起こすだろう。

それを責めても仕方がないという不条理。だって世界はそういうものだから。人は、人から離れて生きていくことはできないから。


春が煙る。雨の隠してくれていたはずの景色が今日、晴れてよく見えるようになってしまった。世界は私とは無関係に、無条件に美しくて、有限性や日常の習慣や、物語の円環や枠構造など無視して、静かに、あるいは存分に喧騒に満ちて、美しくて、美しい。指先を針で刺して、ぷっくり膨れるまるい血は可愛い。生きている、指先に血が通っている証は愛おしい。我ながら、私の指に惚れ惚れする。ちゃんと生きているのだ。ちゃんと生きているのだ。心だけが肉体にあらがっているのだろうか。私の心の底にしっかりと根を張った罪悪感を完全に拭い去ることなど永遠にできないのはとうに承知していたはずだった。所詮はすべて過去が作り出した妄想のようなものなのだから。誤魔化して、涙は忘れて、悲しみはすべて雨に流して、川はどうせ海に注いで、雲になって、再び戻ってくるとは知りながらも。

私の名前を呼ぶ誰かの声を、記憶のなかに聞く。嫌な声、愛おしい声、不安になる声、胸の高鳴る声。無数の声がいつのまにか無意味になってしまった。時間は色を奪う。色彩のない過去に光さすのはどうせなのだから。

とかいって、私は優しい人の涙ばかり期待しているのかもしれない。私に優しくしてほしいだけなのかもしれない。つらいね、苦しいよね、大変だったね、悲しかったんだね、そんな言葉がほしいだけなのかもしれない。それを今、この瞬間に、この場に言葉にすることのできる私は、もしかしたらものすごく強者なのかもしれない。ルサンチマンの発露によって同調を集められるのであれば、もはやそれは弱者ではなく強者なのだから(ニーチェがキリスト教を批判したように)。


フッサールに帰ろう。ノエシス、ノエマ。エポケー。私を削がなければ。経験的なものを削ぎ落としていかなければ。これは結局、身体性への回帰なのでは??物質への回帰なのでは??真に実存的なものを求めているのでは??????

今、思想があらためて実存を問い直そうとしている理由が見えてきた気がする。だって怪しいもの、実存そのものの確かさが揺らいでいるもの。そうぞうしいほどの彩りで美しく飾り立ててしまう類の表層ばかりが先行してしまって、その人がどのような人間かという判断が、肥大化した皮膚のみで判断されてしまう時代だから。


私の名前はtesttest。

はい、そうです。とりあえず始めてみようと思ってつけた名前です。そのまま変えていません。

人生というものは一度きりで、とりあえずやってみた、では潰しが効かない。何度でもやり直せる、や、また一から始めればいい、という類の文句にはうんざりする。なにをしたり顔で語りやがる。

といいつつも、やってみるしかないという現実。本当はという選択肢があっても良いと思う。急に花本先生(ハチクロ。世代バレる)が出てきた。そう、努力するか諦めるか、という二択は単純でよろし。でもね、でもねでもね、ぐずぐずするのがくずなんですよええぇえ!!!

というわけで、私の名前はtesttestです。試験段階です。もしかしたら、死ぬまで試験段階かもしれません。とりあえず、が終わるまでは、ずっととりあえずですから(トートロジー)。


春がそろそろ終わるとか。

なんか、ちいかわ、見てしんどくなる。

どうしてあんなに可愛い世界で凄まじいほどの現実を見せるのだろうと思う。(だから面白いのだけれど、だからたまらないのだけれど。)

こうだったら良かったな、の世界を描いてはくれない。


断片的、断続的。もう眠るべき。

さて、さてさてさて、お酒を買いに行きます。久々(十日ぶり?)に飲んでます、病んでます。よき。よき。書くためにはこういうのは絶対に必要だかんね。知ってるって。知ってる知ってる、自分、散々書いてきてんよ。ね。溺れろ。

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