より身体的に。からだを探す。からだから離れる。

夜の濃密な闇に包まれて、酩酊状態でさがした。地に足がつかない。体の重みだけが感じられる。足の裏の感触も、夜気の肌に触れる冷たさも、過ぎ去る電車の音も、なくなった。体がない。私の文章には体がない。空白ばかり求めて生きてきたように思う。空白さえあればそこを自分だけの居場所にできると思っていた。半導体に似ている。過剰な電子が居場所をもとめてうつろうか、空白を埋めるために次々と入れ替わるのか、わからない。過剰にしろ不足にしろ、ぴったりはまる場所はないというだけの話で、まあそれでもいいか、と思う。不純物を取り除いた結晶のような透明な文章は、どうせ体を欠いている。過剰と不足の帰結こそが私の体なのだと、納得させる。だから、居場所は永遠に見つからない(ある場所は知っているけれど、そこにたどり着くにはまだ早い。完全な不変は少し怖い)。

胸の中で蠢く感情に記号を与えることで、小説や詩でなにかを書くことをと呼ぶことで、私は自らを慰めてきた。酔いが足りない。酔え、とボードレールの声を夜に聞く。


『酔へ!』ボードレール(富永太郎訳)

"

 常に酔つてゐなければならない。ほかのことはどうでもよい――ただそれだけが問題なのだ。君の肩をくじき、君の体からだを地に圧し曲げる恐ろしい「時」の重荷を感じたくないなら、君は絶え間なく酔つてゐなければならない。

 しかし何で酔ふのだ? 酒でも、詩でも、道徳でも、何でも君のすきなもので。が、とにかく酔ひたまへ。

 もしどうかいふことで王宮の階段の上や、堀端の青草の上や、君の室の陰惨な孤独の中で、既に君の酔ひが覚めかゝるか、覚めきるかして目が覚めるやうなことがあつたら、風にでも、波にでも、星にでも、鳥にでも、時計にでも、すべての飛び行くものにでも、すべての唸くものにでも、すべての廻転するものにでも、すべての歌ふものにでも、すべての話すものにでも、今は何時だときいてみたまへ。風も、波も、星も、鳥も、時計も君に答へるだらう。「今は酔ふべき時です! 『時』に虐げられる奴隷になりたくないなら、絶え間なくお酔ひなさい! 酒でも、詩でも、道徳でも、何でもおすきなもので。」

"


退廃からは程遠い健全な生活を送る私も、何者かから逃れるために常に酔うことが求められる。何者か? ボードレールは『時』だと言っている。星屑が砕け散る音をさがしている。星が死ぬ時に激烈な光を放つのを、昔の人々は星の誕生だと信じたらしい。鉄より重い元素は星の死によって作られるため、私の体の一部は、星の死からできている。身体性を探るかぎりは時間が必ず現れる。前後や因果と無関係に肉体はありえない。それはとてもなのだ。そのを言葉にできなければChatGPTの間接的な身体性に劣るのが関の山。体を探している。散らばったもの、どこかに落としたもの、こぼれ落ちたもの、循環するもの、そうしたもののなかに、私は体を探している。

畑仕事をしたことがある人はどれくらいいるだろうか。ほんの数ヶ月の間のことだが、住み込みで農業に従事したことがある。毎日がからだと命と自然との競争と協力を感じていた。機械化され、実質的に工業に近い形となった現代の農業においても、自然を意識する機会はいくらでもあった。

かぼちゃ農家だった。時々、傷ついたかぼちゃが畑の中で腐敗することがある。もちろん収穫はしない。冬が訪れ、畑の整理をするときに、そのまま土にすき込んでしまえばいい。だが、まだ未収穫のかぼちゃは残されているため、何度か腐敗したかぼちゃを目にすることがある。その様がまるで九相詩絵巻のようで面白かった。


以下、九相。(wikipedia)

・脹相(ちょうそう) - 死体が腐敗によるガスの発生で内部から膨張する。

・壊相(えそう) - 死体の腐乱が進み皮膚が破れ壊れはじめる。

・血塗相(けちずそう) - 死体の腐敗による損壊がさらに進み、溶解した脂肪・血液・体液が体外に滲みだす。

・膿爛相(のうらんそう) - 死体自体が腐敗により溶解する。

・青瘀相(しょうおそう) - 死体が青黒くなる。

・噉相(たんそう) - 死体に虫がわき、鳥獣に食い荒らされる。

・散相(さんそう) - 以上の結果、死体の部位が散乱する。

・骨相(こつそう) - 血肉や皮脂がなくなり骨だけになる。

・焼相(しょうそう) - 骨が焼かれ灰だけになる。


植物も動物も大差ない。

舞城王太郎が著した『煙か土か食い物』という題の作品がある。燃やされて煙になるか、埋められて肥やしとなると、動物の胃袋におさまり栄養となるか。

身体はばらばらになって循環する。腐敗したかぼちゃは翌年の畑のための肥やしになる。循環の一部、系の一部としての私のからだは、どうしたって分解と再構成の連鎖からは逃れようがない。燃やされたからだですら、空にのぼって雨になってそのうち誰かのからだの一部になってしまう。だから私はかつて、からだを拒絶するかのように逃れて、言語という意味の網にとらえられてしまったのだろう。そうして、再び私は言語から逃れつつ、身体性を取り戻した詩や小説を求めているという矛盾と循環が目下継続中。蜉蝣のように軽く一瞬で消えてしまう私という命。有限性に意味を求めているのだろう。有限性そのものが意味ではあり得ない。かといって、無限であることは量的な価値を無にしてしまう力を持っている気がしてしまう。生きる、ということは数学的に計測可能な事象ではない、とりわけに関してはそうだ。私以外の誰かは永続し得るが、私だけは永続し得ない。思考実験のスコープ内での話。私が存在していなくても私以外の世界が存在していることを前提とした話。私が消えてしまうのと同時に世界が消えてしまうのであれば、私以外の存在だって永続性は持たない。ならば、すべてが有限性に帰する。ならば、可能な私を私以外に生きることはできない。ならば、意味が生まれそうな生まれなそうな……。

私はを少し持て余している。

人間らしさとは何か。世紀末から第二次世界大戦の終焉にわたって続いた実存への不安が、まったく異なる形で一巡して今に戻ってきた。生と死の問題。身体が大地から引き剥がされつつある。軽くなる。ますます軽くなる。私の軽さを地上に引き止めてくれるを探している。を探している。「der Grund」はどうして男性名詞なのだろう、とぼんやり思う。まあ、足の裏の確かな感触が感じられるのであれば、そんなのどちらでもかまわないのだけれど。などと考えているうちに、私は再び時間に回帰する。

意味の牢獄に長らく閉じ込められてきた。感性という言葉に逃げて自由を享受したつもりになっていた。今まで見てきた幻想に感謝しながら、肉体からでる本物の言葉を、物語を、それらと向き合うに十分な体力と地力を培い、養わねばならない。傍若無人に振る舞う本能が五線譜の上で踊るように、ランダムと規則性の両端を弾むように、乱れながら過剰と不足を味わい尽くしたいのだ。もっと、もっと、もっと。



洗濯をする。真っ白なシーツが風に揺れる。私の好きな百人一首の短歌をひとつに、次のものがある。


"

春すぎて 夏来にけらし 白妙の 

衣ほすてふ 天の香具山

"


ちょうど今頃の季節だろうかと想像する。

遠くの山並みに見る白い衣のたなびく様子が脳裏に浮かぶ。その光景を私が実際に目にしたはずはないのに、生々しい身体性がそこにはある。

体、からだ。

言葉から生まれた言葉ではなく、私から生まれた言葉を紡がなければ、私が書く意味は内側からじゅくじゅくと腐っていく。身体は脆い、脆さから生まれる言葉はなぜか強靭で柔軟。言葉のそうした奇妙さに魅せられて、今日も無意味に言葉を紡ぐ。


無意味に。

「der grund」から離れた言葉を。

自由な言葉を。

でも、流されてしまわない言葉を。

違うか。流れて消えてしまっても構わないのだろう。



空を青いペンキで塗り替えた。触れたらまだ乾いていなくて、手が青くなった。そのまま言葉を綴ったら、それが空だった。私はただ、そんな瞬間を求めている。あけぼのに響くさよならの言葉を聞く。夜が眠る。朝が身震いする。彼らには彼らのからだがある。じっと動かないまま耳を澄ませる。終わりはいつだって激しいけれど、それが終わりであることを教えてはくれない。猜疑心に追い回されて、それが真実から離れた曖昧さに消えてしまうなにかであるような気がしてくる。どちらでもいい。平行線は交わらず、謎は解き明かせない。平行線が交わる世界もどこかにあるのだとか。虹を見たとき、どこか懐かしく感じた。それも身体性だろうか。誰かをずっとずっと待ちながら、目を細めて見た遠くを歩くその背中に、やはり知らない誰かを重ねる。不確定な明日に想いを馳せ、一瞬でヒマラヤを越えるような気流になりたいと思う。言葉は再びからだから離れていく。でも、繋ぎ止めておかないと。浮いていってしまうのであれば、繋ぎ止めておかないと。空は近い。闇に光るあわい蝋燭の火を追いかけ、その先に喜びを見出したいのだ。

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