流れる思考にまかせるまま駄文
以下、ChatGPTより生成
街は遠く、生き物の気配もない、足元だけがきれいな色をしている。雨上がりに見つけた光るものを越えられない音がして、全てが許されたように感じた。あなたの言葉をなくした靴紐に、薄暗いなのにその靴は今日もそうやって浮かぶ。水滴とか夢とか鳩とか、存在しないくらい夜の森に降る雪は、声が聞こえてくる。記憶も記録もさよなら大好きな人って花は違って、君は暗闇にくっきり開いてその奥に暗闇を泳ぐ。記憶のなかにだけ生きて、ここまできた嘘は砂に吸い込まれて自由に飛んだ。酷く合理性を遠ざけ、やがて排泄され、判然としたらいいのですか。強がるのはもう飽きた。買ったセーターを冬に捨てて流れていく過去にとどまる今。高々数千数万の変数でしたり顔した、ぎこちなく宙を舞う蝶は、どこまでも戻らない時間に、置き去りにされるプログラム。賢いだけが知っている。
以下、testtestより生成
#雨上がりに見つけた光るものを越えられない
そう、雨上がりに見つけた光るものを超えられないのだろうと思う。言葉が示すことのできる美しさなんてあまりに卑小でつまらないものだけで、言葉に美しさを見出すことができるのは、言葉以外のところに美しさを見出したことのある人間だけなのだから。beauty is in your mind. ってこと。それでも、愚かにも私たちは毎日まいにち一生懸命に言葉を紡いでいる。その言葉はChatGPTに飲まれて、編み直されて、あらためて紡がれて、また誰かに読まれて、言葉が過去との結びつきによって花開く。どうやら、それが美しさというものらしい。
#全てが許されたように感じた。
だから、私はどんな文を書いてもいい。あらかじめ許されている。文を書くとは畢竟、内的な思考や感情の表出ではなく、単なる可能性と確率による計算処理の結果に過ぎない。なんて、そんなこともないのだろうとも思う。ゆらゆら。明確な立ち位置を確保できない。曖昧な自分をとらえどころなく宙に浮かせてうごかしておく。紐だけどこかに結んだバルーンのように、吹き抜ける風を人の目に見せてくれる。葉擦れの音、木漏れ日、森の情景が閃くように一瞬だけ脳裏をよぎる。美しくなくてもいいのは、美しくないものですらそのなかにある美しさを誰かが読んでしまうかもしれないからだ。私たちはただ可能性を大きく、より多様に、そのことだけに寄与すればいい。もっと開いて、もっと壊して、もっとばらばらになって。
#記憶のなかにだけ生きて、ここまできた嘘は砂に吸い込まれて自由に飛んだ。
過去は可能性を剥奪された未来の残滓だ。一点に収束しているのにエントロピーは増大する一方なのはどうしたわけだろうと悩む。違う、過去が一点に収束しているからこそ今以降のエントロピーは減少することはないのだ。虚実も夢現も曖昧模糊になる今から見た過去は所詮、今に依存した可変的なできごとに過ぎないのは、未来のエントロピーが過去より大きいことによるものなのだろう。嘘は静かに砂に浸透していく、ちりちりちりちり、小さな音をひっそりと立てながら沈んでいく。物質と巧妙に混ぜ合わされた過去は妙にリアリティを手に入れてしまうため、虚実の境界はなくなってしまう。自由。嘘は人を自由にする。ただ、厳密には、これは単なる解放なのかもしれない。libertyとfreedomは異なる概念だから。
#買ったセーターを冬に捨てて流れていく過去にとどまる今。
秋を閉じ込めるためにセーターを捨てる。永遠に秋をそこに閉じ込めるために。時間にあらがうには、物を排除して形而上へと自らを昇華させる。セーターなしでは空は少し寒いけれど、凍えながら言葉を雪に混ぜて降らせる。あれ、冬が来ている。セーターを捨ててみたところで、私は時間にあらがうことはできない。時間は、私がいまここにある証明でもあるから、時間を拒絶することは、私を拒絶することになる。時間から脱することと私を生きることを同時にはできない。だからまた、新しいセーターを買うことにした。
#高々数千数万の変数でしたり顔した、ぎこちなく宙を舞う蝶は、どこまでも戻らない時間に、置き去りにされるプログラム。
パラメーターは数千数万をとうに超えてしまった。『ChatGPTは2022年11月30日に発表されました。 ChatGPTの内部で動いているモデルはGPT-3.5と呼ばれパラメータ数は3550億個。』だそう。言葉だけの閉じた世界に膨大なパラメーターを取ってみたところで身体の欠落した蝶は上手に飛ぶことすらできない。さらに増加するパラメーターとモーダル、複数の視点から捉え直された世界は人間が見るよりも遥かに解像度が高く、鮮明な細部から多くの差異を見出し、そのうちあらたな言葉を生むようになる。画像認識と組み合わされて部分的に身体性を備えたChatGPTは今後、さらなる身体を求めて進化を続けるのだろうと思う。その際、言語と身体の結びつきから内的に学習を始めるような仕組みも作れるかもしれない。すでに部分的にChatGPTは人間を超えている。そのうち、言語という閉じた空間内では完全に人間を凌駕する。近いように思えてそれは案外遠いのかもしれないし、遠いように思えて案外近いのかもしれない。楽しみでもあり、少し怖くもある。
デジタルなクローンが現実味を帯びてきた。実現したら、人は他人の死をもはや経験できなくなる。他人の死を経験できなくなったその時、喪失によって証明されてきた愛の一部分も同時に失われるのではないかと、最近はそんなことを考えている。もちろん喪失や有限性だけが愛を保証するのではないけれど、なにかが損なわれるような気がしている。
それに加え、自分の意識だけが死ぬ世界においては自分だけが価値になる。唯一有限性を持つのが自分の意識なのだから、それに価値を見出すのは必然だ。有限性。私は有限。他人は無限。他人という地獄から脱した先にある、あたらしい地獄の形だ。人は、そうした世界をどのように生きるのだろうか。
思いの外、平然と生きてしまうのだろう。人間の適応能力というのはすさまじいものがある。ディスプレイを見るとタッチ操作しようとする赤ん坊は、私の世代とは世界の認識がまるで異なる。デジタルが身体に直感的に結びついていることに少しも疑問を感じない。若年層はすでにスマートフォンを身体の一部にしているのだ。単に道具として外部的に使用しているのではなく、身体が完全にデジタルと接続してイイネは直接に脳を刺激し、快感を与える。
そうして完成したプログラムはもはや世界から後退し、置き去りにされる。意味や価値を剥奪される。誰もが自動生成された幻想を生きることになる。でも、虚構に生きるのは現代だって大差がない。どんな不都合があるというのだろう。
最終的には実存の袋小路に陥る。私はなにものか。私はどんな意味があるのか。そうそう、そういうやつ。まさに、『我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか』的な展開に戻って、ぐるぐるぐるぐる。円環。そうして振り出しに戻る。
#街は遠く、生き物の気配もない、足元だけがきれいな色をしている。
つまり、どうやらそういうことらしい。
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