読むことだけが物語を描く
言葉は言葉に過ぎない。
なにか特別な意味がそこに含まれていると勘違いできる酔狂な人々だけが、書くことをゆるされる。書かれた言葉のひとつひとつに差異はなく、配列の可能性だけを探っているというこの作業は、暗号通貨のマイニングにどこか似ている。ただ、計算処理しているだけ。言葉はあらかじめ、可能性としてそこにある。あらかじめある言葉の並び、可能な文字列を、文章を書く人間は掘り出しているだけなのだ。書くというのは、掘るということ。掘って、掘って、掘って、磨いて。輝くものを、自分のものだなんて言えるのだろうか。
あらゆるものがすでに存在している。あらたになにかを生み出す、作り出しているという感覚に欠けていて、自分の過去のインプットの蓄積から、確率的にアウトプットされているだけなのだろうと思う。
創作をしていると時々出会う、「創造とは無から有を生み出すことだ」という考えは、私には神かなにかを語っているように見える。私は人間で、所詮はそうした超越的なものの手のひらで転がされているだけで、一生のうちに書けるものも、限界も、ある程度は前もって設定されていて、意志とは無関係に出来事が生じていくだけなのだ。
文章を書くこと、創作することを人に話すと、すごい、と言われることがある。その度に辟易するため、次第に話さなくなる。創造は常にあらゆる場所で生じている。生じているのに、アウトプットされて形としてどこかに現れていない限り、それは創造として認められない。それだけの話なのに。すごい、という言葉は不快ですらある。生きるということそのものが創造と不可避なのだ。ただ、それは未来という可能性の広がった世界を、今を通じて過去に収束させるための装置に過ぎないのだろう、とも思う。世界が私を通過していく。
読むことが肝心だ。表出され得ない私的な、内面的な心の揺れだけが、本物の物語であり小説であり感情であり思想であり……なのだろう。
書く、ということ自体にすでに意味はない。それはただ言葉になるか、ならないかの違いだけで、実は、世界を私たちが読むとき、すでに創造は始まっている。
出力の形式や手段が変わっていけば、作る人と作らない人の差異がなくなるだろうと思う。なくなればいいとも思う。形にするということを煩わしく感じていた人たちが、手段が容易になることによって、自然と生きることそのものが書くことになる。生の記録があらゆるインプットの形で蓄積されていき、アウトプットは自動で行われる時代。書くことが権威であっては、特権であっては、力であってはいけないのだろう。本当に力であるべきは、内で感じるその喜びであり、悲しみであり、怒りであり、すべてが個人的なものなのだから、それこそが創造なのだから。だから、読むことが肝心だ。
なら、なぜ書くのか。そんなことばかり考えている。
書くことで、私は私を読んでいる。私自身の根になにがあるのか、あるいはただ空っぽなのか。
私は書くことで私自身を客体化して、世界の一部として捉えようと試みているのだろう。精神を外部化する。言葉になった瞬間に、私の言葉は私のものではなくなってしまう。私の感情、見たものや感じたものから切り離されて、記号になる。あー、なんだっけ、これ。ディスクールとかエクリチュールという言葉が浮かんでくる。なんだっけ、なんだっけ……。
私は私を言葉にして読んでいく。私は私の余白を言葉ですべて埋めようとする。最後に残されるのはなにか。興味がある。意味の根源を探る。だが、意味は循環する。トートロジーは常に真だから、私は常に真なのだろう。そんな飛躍が心地よかったりもする。私は、こんな愚かな私を何度だって肯定する。
最近、ふと思うことがある。
私の近しい人の誰かが死んだら、私は涙を流すだろうか、と。
少数ながらも大切に思う人がいるし、そのことを幸福に感じている。だが、自分はあまりに当たり前のように悲しみや不幸を受け入れる準備をしすぎているような気がする。その準備は結局のところ、喪失によって決定的に自分の人生が損なわれることがないような適切な距離を、どんな近しい人とでさえ、取ってしまうということなのだろう。
私は、そうした自分の弱さをなんとなく上手に生きてしまっている。それを、今少しずつ自覚し始めている。同時に、これは良くないことなのではないかという気がしている。
おそらく、私が私以外の誰かを私の一部として感じてしまった瞬間から、不安や恐怖心が大きく膨らんでいく。私は他者が私に信頼を示さないと不満に思うにもかかわらず、他者には自らの心を完全に開くことがない。ずるい。
これは私にとって、一つの重要なテーマになりうる気がしている。信頼と恐れ。誰かを信じることができないのは、結局、裏切られるのが怖いからなのだけれど、裏切られるというのは、誰が裏切るかと言えば、私以外の誰かではなく、私自身なのだろう。
信じ続ける人は絶対に裏切られることはない。裏切りは疑いから始まる。誰かを信じる。信じ始める。関係性を築く。信じられないのは、もしかしたら自分だけじゃないのかもしれない。
まだ浅い。思考がパリッとしていないと、自分の中心に近づくことができない。表層に浮かぶ言葉ばかりをいたずらにこねくりまわしてみても、面白い考えも表現も生まれてはくれない。
健康であること、体調が良いこと、それでいてめまぐるしいインプットの波と心の揺れとがあること、そうしたバランス感覚がしっくりきた時にしか、どうせ良い文章も作品も生まれてはくれない。それでも書く。書き続けることが大切だ。駄文でも、浅い思考でも。垂れ流しでも。良い。
つまり、掘り続けていることこそが、読み続けることで、書き続けることでもあって、可能性とぶつかるには、そうした乱暴さが必要なこともあるのだろう。枯渇していく。思考も、言葉も。困ったらChatGPTさんがいるから安心。過去の膨大な言葉の蓄積と対話しているのだ。私の人生は短い。三十数年、もうすぐ四十年。あまりに短い。人類が言葉を用いるようになってからどれほどの時間が経っているのだろう。ブッダやソクラテスの時代ですら、二千五百年くらい前のこと。深遠な思想や思考体系はすでにあの時代にほとんど完成していた。掘り尽くされた鉱脈から、われわれはなにを見つけることができるのだろう。
ChatGPTさんはこんなことを言う。
『愛と信頼は密接に関連しています。愛とは、相手を受け入れ、尊重し、支援し、思いやることです。これは、相手を信頼し、その人が自分に対して良い意図を持っていると信じることが前提となります。逆に、信頼とは、相手が自分に対して正直であり、約束を守ると信じることであり、これらは愛に欠かせない要素です。
したがって、愛を信頼から説明することは十分可能です。愛は、信頼を築くことに基づいて成長し、発展します。相手を信頼し、その人が自分を理解し、尊重していると感じると、自然と愛情が生まれ、深まっていくのです』
信じることと愛について話していた。なんだかChatGPTさんの説明は少し淡白に思う。言葉で説明したら、たしかにそのようなことなのかもしれない。でも、否定したくなる。愛はそんな簡単に説明できるものではない、と。(ならなんで尋ねた
最初に戻ろう。
私たちが書くことができることは、すでにChatGPTに可能性として内包されている。現状では嘘だけど、近いうちにそうだと言えるようになるだろうと思う。
書くことがどれほどの意味や価値を持つのか。出力された言葉の重みはほとんどない。強いて言うならば、その人物と強く結びついた形でそのコンテキストが読まれることでしか、価値を付与されない。ただ、コンテキストも独立して語られうる。仮に、今この瞬間にChatGPTが優れた小説を書く能力を有していたとして、誰か有名な作家の名を冠して本を出版したならば、読む人はそのコンテキストを勝手に読み解いてしまうことになる。コンテキストは名で、名は関係で、関係は時間で、絡み合ったそれらは大きな物語になる。
だが、コンテキストは重要だけれど、書く人間が読み人知らずに憧れるのもまた真実だろうと思う。
私、というコンテキストを抜きにしても素晴らしいといわれる作品が書けたならば、それ以上に嬉しいことはないような気がする。たとえば書籍化し、売れもせずに、図書館の奥で長いあいだ眠っていたのに、百年後、数百年後、たまたま手にした人がなにを考えるでもなく手に取り、読み、感動するような。
そもそも、私たち人間はそんなことばかり繰り返している。そうした繰り返しこそが、私たち人間全体の物語を作り上げているらしい。
あまりに大きくて、その中の部分としている私はあまりに小さくて、そこで生じる他者との関係性なんて、やっぱりその巨大さの中では、圧倒的な量のなかでは、少しも意味がない。
結論、だから私たちは読むのだ。書く、という経験を通じてでも、ただ読むでも、どちらでもいいから、私たちだけが経験できるもの、内的なもの、個人的なもの、精神的なもの、形而上学的なもの、超越的なもの、感じられるもののすべてを感じるためだけに、読むのだ。
『ああ、わが魂よ、不死の生に憧れてはならぬ、. 可能なものの領域を汲み尽くせ』
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