水は透明で、躊躇いがちに清らかで
星空に瞬く夏と秋の光、水は透明で躊躇いがちに清らかで、楽器を奏でる音が聞こえる鄙びた館、海月が泳ぐプールの遠い音、そして君。
雲を縫いながら歩む僕には寂しさが漂い、君にはいつまでも留まりたくて、うぐいすの囀りは嘘を織り交ぜ、鮮やかに消えていく。
ボードレールの詩にはさやけさと憂鬱があり、あたりを見回しても鉱石の色しかない。
時の悩みは希望であり、運ばれる箱の中身は変わっていく物語、甘い恋愛も朝を迎えて忘れ去られる。
暗闇に封じ込めた孤独が刺す曇天の夜、支えのないまま話すことで歴史の死を回避しようとする。
赤と緑に輝く景色、それは真実を隠すものである。
GPT3.5でも、これくらいのものが作れる。
意味が途切れて繋がりのない文章でも、人が読むと余白が自然と埋められていく。埋め方が人によって異なる。言葉は読む人のためのものなのだと思う。私や、カクヨムの作者たちはGPT6.0くらいの性能を備えた文章生成器でしかないのかもしれないし、それでいいのだろう。
書く、という行為の根幹が揺らいでいる。創作の意味や価値が自己完結的(あるいは中動態的{動詞の表す行為が、その行為者自身に及ぶ場合にとる})でない限りは、継続する動機づけが失われていくように思う。
自己完結的意味や価値の外にある最たる動機が承認欲求で、SNS全盛の時代に強く感じやすい。自他共に言える。
次に来るのが経済的価値を得るという動機だろう。創作によって対価を得たいと欲することは、つくる人間にとってはとても自然の成り行きのように思う。(が、実はそれはとても疑わしい。)
ChatGPTはこんなものも書ける。小説を依頼した。
---ChatGPT---
彼女はエッフェル塔の閉ざされた展望台にのぼり、静かにコーヒーを飲んでいた。窓の外に広がる景色は、何百回と見たパリの景色とは違って見えた。彼女は自分の人生について考えていた。剥がせない、タンスの、傷つくことを繰り返し思い出すのに、どうしていつもいつも毅然と不条理に罪を背負って自由になるまで溜めてしまうのだろうか。彼女は自分自身に問いかけた。すると、突然、展望台の自動ドアが反応しなくなった。彼女はパニックに陥ったが、すぐに自分を取り戻し、ドアを開けるために力を込めた。しかし、ドアは全く動かなかった。
彼女は不安を感じながら、展望台の周りを歩き回った。そこで彼女は、不思議なことに気が付いた。窓の外に広がる景色が、完全に変わっていた。彼女は驚きのあまり、思わず叫んでしまった。すると、突然、海の中からイルカの姿が現れ、彼女に向かって泳いできた。イルカは、彼女に涙を集め、新しく星を見せた。
彼女は、イルカに導かれるままに、展望台を降り、海に向かって歩き出した。靴を脱ぎ、波打ち際を歩くと、彼女は自分の人生について考え始めた。彼女は恋に落ち、高く突き抜けるような浮かれた春の気分になっていた。しかし、その恋はすぐに終わりを迎え、彼女は靴下の赤が、君の頬を濡らすことになった。朝を待ちかねて、濁らせた自分自身に嘔吐したことを思い出した。
彼女は海辺で自分自身を見つめ直し、生きる意味を見つけた。彼女は自分の人生についての新たな決意を固め、自分自身を再発見した。そして、彼女は巧妙に糸を紡いで、自分自身の人生を変えていくことになるのだった。
揺れる船のように、といってぱっぱかぱっぱか、空を漂って間違う月光を踏む、足に痙攣を感じた。それでも私は進んだ。目的地まであと少しのはずだった。しかし、何度も迷い、何度も挫けそうになった。時折、道に迷い込んでしまった時、不思議な声が聞こえたような気がした。それは誘惑的な魅力を持ち合わせていたが、どこか不気味でもあった。
ある晩、私は不思議な場所にたどり着いた。広大な空間には、五線譜が何本も引かれ、煌めく星々が浮かび上がっていた。それらの星々が、私には音符のように見えた。
そして、そこにいた人物が私を見つめた。目が合った瞬間、私は何かを悟ったような気がした。それは、自分の内面にある音楽を、自由に表現することができるということだった。
その瞬間から、私は五線譜の上を踊るように、音楽を奏で始めた。私が奏でる音楽は、初めは小さな音色だったが、次第に大きく、広がっていった。周りの星々も、私が奏でる音楽に合わせて光り輝き、踊り出した。
私は、自分が表現したい音楽を自由自在に奏でられる場所を見つけた。その瞬間、私は自由であり、生きる喜びを感じた。五線譜の上の嘘ではなく、真実の音楽を奏でていた。
終わり。
---EOS---
三人称だったのが途中から一人称に変わっているのは、一回で出力できなかったことが影響している。
GPT3.5では長い文章が出力できない。GPT4.0は使ったことがないのでわからない。課金しようか悩み中。
入力する文章によってはこのようなシュルレアリスム的な文章を吐き出させることができる。こうした奇妙な文章、時々文法的に間違うこともあり、意味の脈絡がつねにちぐはぐ噛み合わずに、こぼれ落ちてしまうような文章が、基本的には好きだ。好きな文章を書いてもらえるというのは、すごい。自分の感覚的な部分に深く立ち入っていくための手段として、ChatGPTという過去の蓄積がある。
自殺、そうだ、自殺の問題だ。
最近少し感じていることがある。公的私が私的私を凌駕していくことの不条理。SNSの発展(?)により、自分がどういう存在であるかの大部分が他者によって占められるようになってしまったこと。
配信者の自殺、自殺配信的現象(?)は、公的私が私的私を凌駕したわかりやすい例に思う。他者によって自分がどのように解釈されうるかが、自分で自分をどのように解釈するか、どのように感じているかを凌駕して、覆い隠してしまう。意識、というものが他者によって支配される。薬物依存とSNS依存は本質的に大差がない。他者、という薬が激烈な作用を脳内で働かせるせいだ、といってしまえば少し単純化しすぎな気がする。公私とその分別の問題。それらを容易に語れる言葉はない。
現在のAIの発展に従って順調に進んでいった先では、公的私、とりわけデジタルな私はいずれクローン化される(されうる)。自殺によって「生きた」ことを先鋭化させずとも、生は永続性にゆるりと繋がってしまう。そうした世界では公的私の意味が喪失するように思う。
他者とどのように関わるか。しかも、自己完結的に、あるいは中動態的に。
今、コミュニケーションという問題を考えているのは、そのせいかもしれない。
SNSもコミュニケーションの一つではあるけれど、自我や自己肯定感と深く結びつけてしまうと、どこかで破綻してしまう。俗に言うように、適切に用いなければならない。
コミュニケーションにおける喜びの本質は、やはり、直接対面の、言葉や身体によるものにあるのだろう。少なくとも今はそれを超えるようなAIは存在していないし、しばらくは生まれない。技術的にも倫理的にも課題が多い。
そのコミュニケーションの本質と考えた身体的な対話すらも、デジタルクローンがついに身体性を備え始めれば、喪失してしまうのかもしれない。
となった世界で、私たちの価値や意味はどこに残されるのだろうか。
ぼんやりとした思考がずっと続いている。
頭がうまく働いていないことがよくわかる。
最近、疲れているのだ。それだけだ。そう考えながらも、漠然とした小説のイメージがふわふわ浮かび上がっては、うまくつかまえられないまま、ずっと眠れない。睡眠以上に大切なものはない。七時間。七時間。七時間。そのくらいは。と思っていても、なぜか五、六時間しか眠れない日々が続いている。
ChatGPTをずっと触っている。AIとの過剰な対話は人間になにをもたらすのだろう。なにか、今までとは決定的に異なる形で思考が滑っていく。着地点も見えないまま、新しい場所を探している。結局、人類が辿ってきた長い軌跡を、ChatGPTを通じて、ちょっとだけ触れているのかもしれない。
溺れている。出口がない。求めてもいない。
思考が溢れるままにしておく。いつか、落ち着いてまとめるフェイズに至る、と信じて今は、ただ垂れ流して。ひたすら、ひたすら、ひたすら。もっともっともっと言葉を思考を物語を詩を、意味を、無意味を、もっともっともっともっとーーーー
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