頭に浮かぶ言葉、雑然と、駄文

手を動かすためだけに、文章を書く。手が動いている間だけはそこに意味が生まれる。自分が今いる場所とは少しだけ違う場所に行ける。そんなの単なる幻想だってとっくに気づいていても、気づかないふりしたままひたすら手を動かす。心の安らぎやら慰みにすらならないのも知っている。指先の動きを追うようにして、画面に文字がぽつぽつと浮かんでくる。その言葉にどれほどの意味があるのか。言葉がつらなって文になり、文が段落になり、段落がまとまって小説や物語や思想になるのだとして、本当にそこに「意味」と呼ぶべきなにかがあるのだろうか。私が今ここにいること、生まれたこと、いつか死ぬこと。そうした一部として書くということ。私は何のために書いているのだろう。


ふと、中原中也の詩の一節が頭に浮かぶ。


"

死んだっていいよう、死んだっていいよう、と、

うつくしい魂は涕くのであった。

"


ずっと思っている。死にたくない。

私はとにかく死にたくない。死にたくないと毎日のように思いながら、ぼんやりとした視界の中で死んでいくたくさんの人をじっくりと見つめている。無数の死。死を思え、とな。微かな憧れに似た感傷と、ほんのり苦い自嘲とを孕む、日の沈んだ紫色を眺めながら沈んでいく誰かの記憶や過去だけが、私を大地に結びつける、冷たい土の感触だけが、本物の命を教えてくれる。土が安心感を与えてくれる。今日も冷たい、明日も冷たい。熱くならないで、そうして最期に私を受け入れる準備をしている。

未来に何本も線を引いてみる。そのうちの何本かはきっと私の幸福につながっている。私以外の誰かもきっと、そうして未来に向かっていくつも線を引いてみて、どうにかこうにか絡まった中から幸福な未来を選び取ろうとしている。私の悪いところは、ついその先を辿ってしまうことだと思う。どこかで線は、私は、途切れてしまう。

線が意味なら、意味は必ず死と共に途絶えてしまう。だから私は死にたくないのだろうか。私の幸福な未来ですら、必ず終わりを持っていて、私の物語の結末は、私の死以外にありえないなんて、……結末の決まったストーリーをどうしたら楽しくできるかってのを考えなければならないのだろうか。

幸福と同じく、私の不幸ですら必ず終わりを持っている。誰のものでもない、私だけの喜びや悲しみを少しだって誰にもわけてやりたくないってくらいに心がねじけて解けなくなってしまうのは、そんな未来がすべていけないのだ、私は悪くない、罪を負うべきは人ではなく、時間だ。時間という罪悪を生み出したのは誰だったのか。時間外を生きている人たちもいるんじゃないだろうか。だとしたら、そこから死は取り除かれるような気がする。

死を恐れない、あるいは死を受け入れる、受け入れられる心というのはひょっとすると、死後もその線がゆるゆると伸びていくことを想像できる人の柔らかな強さなのではないかと思う。その人は決して死なない。あるいは、死ぬ瞬間まで自分が死なないと信じていられる。私はそれを上手に信じることができないからこそ、死にたくないという思いが強いのか。ならば死んでもいい、とゆるっと思えるようになりたいのだろうか? 違う。私が望むのは、線がするっと未来に向かって伸びていって、どこかでパツンと切れてしまうような私の生ではなく、ぼんやり他人の糸と絡み合って自他の境界を失って私が私以外の誰かと生きることなのだ。なのか? だから書くのだろうか。私の言葉は、私という線を未来にうすく結びつけてくれるのだろうか。私が書くことが、私の生きた証の一部にでもなるのだろうか。私はいったい誰だ、私に意味などあるのか、私は私を生きているのか。頭の中で無数の疑問が浮かんでは泡沫のように消えを繰り返して、夜に寝むった底に最後に、正体が掴めない不安だけが沈んでいる。うまくない。底に沈んだそれをひっかきまわしてやりたい。それすらも、もしかすると、結末の決まったストーリーをいくらか面白くしてくれるかもしれないから。


画面の向こうで多くの人が命を落としていく。フィクションのようだった。私はそれを確かな現実として捉えられているのか。画面を隔てた死は遠く、他人事にしか感じられないのに、私はどこかで傷ついていると錯覚する、私以外の死と私の死がどこか関係していると思ってしまう、勘違い。そんなはずはないのに、どうせ明日にはその死も忘れてしまうのに、冷たい土の下に眠る彼らの上にふんぞりかえって生を余すことなく満喫する極悪人なのに。罪深い。まったくの他人の命で、ほんとうは微塵も興味がないのに、それでマスかいている恥晒し。

死は、静かに日常に溶け込んでいて見えないようでよく見えるから、ずっと無視していられないから、無視するべきはきっと未来だ。過去を、後ろを振り返って、そこに隠れた宝物ばかり掘り返して、それが私のやりたいことかといえば、それも違う。日常の死を甘んじて受け入れ、なんとなくやり過ごすのが得策か。知らん。歳を重ねるごとに、いろいろなことがわからなくなってきている。知識が増えるごとに、知らないことが増えていく。届かないものが無数にあることを知り、それを知ると、人生の有限性がたまらなく憎らしく感じられる。いつか終わりが来るのだ。


祖母が死んだという連絡に続くように、数日後、叔父が死んだという知らせを聞いた。連絡が取れないからと叔母が確認に行くと、すでに死んでいたのだという。自殺だろうと思った。

自ら死を選択することが可能なのは、心が正常な判断を下せないくらいに追い詰められることがあるからで、人は冷静に自殺を選ぶことなどできないと思う。いや、あるいはあり得るのかもしれない。冷静な自殺は、冷静な殺人に似ている。稀だが、皆無ではないだろう。だが、どうせならば、死にだっていくらか熱がともなっていてほしいものだと願う。どうせ私は死ぬ。どうせ君も死ぬ。どうせ死ぬ私たちの無意味さを愛おしいとも思う。人にとって完全に公平なのは死だけだから。死刑宣告は例外なく下されるのだから。牢獄の中、ただ待つか、行為するか、抗うか。

私は人間中心主義者だ。そして、プラグマティストでもある。と思う。カミュの『ペスト』を読み直している。カミュは常に、人間というものを中心に据えているように思う。ペストに閉ざされた世界の中でただ絶望して死を待つか、あるいは逃亡するか、あるいはにわかに露わになった死という平等を喜ぶか、神の証明のためにその身を犠牲にするか、ただ淡々と、誠実に、自らの可能な義務を果たすのか。自分の義務と呼ぶべきものがなにかなど、私にはわからない。ペストの登場人物の一人、リウーは医師で、医師であってもペストという極限状況ではできることに制約があり、時には非難の矢面に立ち、それでも医師としてできうることを続けるその誠実さには、静かに心に響くものがある。少年漫画やハリウッド映画のような派手なヒロイズムはそこには皆無だ。極限状況の中でも、日常の延長として生き続ける胆力、すべきこと、できることを実行する意思、すさまじいものがある。

私たちもペストの中を生きている。誰もがペストの中を生きている。目の前から問題が消えることもなければ、手を差し伸べるべき人がいなくなることもない。誰かを救おうと思えば千手観音だって手が足りないし、そもそも自身を助けることですら困難に感じられることすらある。私たちは毎日のように死というハズレくじ(あるいは当たりくじだろうか?)を運良く引かずにいるだけであって、必ず最後にはそこに辿り着くことになっている。生は絶対的に閉じている。ならばどう生きる? ペストが問うのは人間の生そのものだ。私たちの意味そのものだ。

コロナでなにかが変わっただろうか。なにも変わらなかったという人もいる。私はそうは思わない。なにかが変わったと思っている。私の中のなにかが変わったのではなく、人々のなにかが変わった。良く、あるいは悪く。それはわからないけれど、人と人の関わり方、意味の捉え方、作られ方、情報の速度、正誤、背後にある悪意、善意。なにもかもが大きく変わった。モラルが大きく書き換えられたのだと思う。新しい時代が近づいている。ペストを経験した私たちの前には当然のように死があるし、死を前にして、生を振り絞るように行為にうつる人が増えたのだ。同じように、行為を恐れて、閉じこもる人が増えたのだ。バラバラになる。かつてないほどバラバラになった人々が作り出す社会というものは、もはや共通の物語を持たなくなる。私の本当は、他の誰かの嘘になる。確かに以前からそうだったのだろうが、ある程度の大きな常識の基盤を共有していたはずだ。それは国家だったり、宗教だったり、人種や民族、言語、そのほかにもきっとあるなにか。

バラバラになって初めて人は、自らの意味が問われる。属性を剥がされた人間はなにものでもいられなくなる。違う。人間はもともとなにものでもなかった。玉ねぎをいくら剥いたって中心や芯と呼ぶべきものなどなくて、幾重にもぺらぺらと剥けていってしまうのと同じことだ。そこで泣くのは誰か。どこにも属すことのできない異邦人として放り出されてしまう人々は、どこへ行くのか。現代の疎外はテクノロジーによってもたらされるのか。誰もが根を持たない、なにものでもない、浮いている。浮いているのは私だけではなかった。

遠野遥の『浮遊』という小説がある。彼の作品をいくつか読み、よくわからなかったのはこの作品だけだった。浮遊。私の考えている浮遊と何か共通しているのだろうか。落ち着く場所がないから、落ち着かないまま走り続けていく、生きる、そういう生き方をしている人を見ることがある。不安になる。私もそのような生き方をしている時がある。その間はただ走っているだけだから、ゆっくり考えることなどせず、ただ邁進している。何かにぶつかり、足が止まる。振り返って、ずっと走っていたはずなのに、まるで景色が変わっていないことに気づく。もしかしたら浮いていたのかもしれない。地面を蹴らなければ進まない。進んだ先に地面があるとは限らない。それでも前に足を出してみないといけないのが人生らしい。恐れているばかりではいけないらしい。かといって、能動性が必ずしもプラスに働くわけではないらしい。人生というものは一度きりらしいので、試しに死んでみるなんてことはできない、らしい。どうしたらいいのかわからないから、浮く。


私が私を誠実に生きることができるのであれば、多分それがすべてなのだろう。浮くのは、私が私から離れているからか、あるいは、そもそもそんな私などどこにもないということなのかもしれない。

どっちでもいい。どうでもいい。

ただ、時間は限られていて、短い。Einmal ist Keinmal.一度きりはないのと同じ。人生なんて最初からどこにもなかったのかも、とか思ったりもする。

言葉が足りなくなってきた。私の中に埋もれている言葉が減ってきた。頭が疲れてきた。それでも無理やり、からからの脳みその最後の一滴までしぼりとるように、言葉をどうにか繋いでいく。誰かに読んで欲しいのか、読んでもらう気などはなからないのか。字が、続く、どこまでも、それが、文になったり、なににもならなかったり。

百年後には私も、私が生きたという証も、きっと何一つ残されない。


そういう無意味な私であるけど、今日も元気に生きています。長々と書いて言うべきことは、案外それだけなのかもしれない。

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