猫に小説は書けない

統計学を勉強していてふと思った。


猫に小説は書けない。



ロラン・バルトが『物語の構造分析』の中で以下のように述べている。


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物語活動の原動力は、継起性と因果性との混同そのものにあり、物語のなかでは、あとからやって来るものが結果として読みとられる。してみると、物語とは、スコラ哲学が、そのものの後に、ゆえに、そのものによって post hoc ergo propter hoc という形式を用いて告発した論理的誤謬の組織的応用ということになろう。この定式はたしかに「運命」の銘句ともなりうるものであって、物語とは要するに「運命」の《ラング》にほかならない。

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継起性—出来事が順番に生じること—と、因果性—ある物事を原因として別の物事が生じること—との混同を人は「運命」と呼んだりするわけで、私たちが出来事の連続に物語を見出す原動力は、その「運命」なのだ。

継起性は現実世界に溢れていて(というより現実世界は常に継起的に生じ)、私たちは偶然した一つの選択などと、その後に起こったある一つの結果とを結びつけてしまう傾向にある。

例えば「この大学に入学してなければ君に出会っていなかった。偶然高校の先生が勧めてくれたから選んだんだ」とか、「たまたま鍵を忘れて帰ったから、交差点での事故に遭わなかったのだ」とか、それらは単なる継起に過ぎず、因果とは無関係だが、なにかそれがとても意味深いことに感じられるのが人間というものだと思う。混同が運命を導き、運命が物語を形造る。


継起性と因果性の混同はそもそも人間にとって重要な基本的機能なのだろう。ユヴァル・ノア・ハラリは『サピエンス全史』の中で、社会とは人々が共有している虚構だ、というような旨を述べている。人々が虚構を共有するにはたとえそれが非論理的、非合理的であるとしてもなにかしらの根拠が必要とし、その根拠となるものが神話であり、民話であり、御伽噺であるのだろう。かつては巫女や神官、聖職者などの崇高な地位に立つ者たちが、神や自然と人々とその物語を繋ぐ仲介をしていた。現代ではもはやそうした仲介者を持たないように見えるが、なお人々は確かに虚構を共有しているのは、そもそも人間が備えている物語を作り出す能力、読み取る能力にあり、かつ、そういう意味での物語、言ってしまえば継起性と因果性の混同とそれを運命と呼ぶような出来事はありふれていて、誰が作らずとも、いつでもどこでも物語は生成され続けているが故に、共有される大きな虚構はいまだに崩れず、細分化され、緻密になり、より堅固な要塞を築いている。


では人間が物語を作り出すことができるのは何故か、人間のどのような能力が人間にそうした虚構を信じ込ませるのか、信じ込ませること能力が結果としてなにを生み出してきたのか。

能力の結果、に関してはハラリの『サピエンス全史』に詳しく記載されている。要するに、社会が拡大し、文明が繁栄し、うんぬんかんぬん。

人間が物語を作り出すことができる理由は、バルトの『物語の構造分析』にあるように、継起性と因果性の混同があるだろうと思う。

問題は、人間のどのような能力が人間にそうした虚構を信じ込ませるのか、換言すれば、継起性と因果性の混同はどのようにして生じるのか。


ここで冒頭に戻る。


私は今、統計学を勉強している。統計や確率は人間の非合理性や相関と因果の同一視による誤謬などを次々と暴く。

わかりやすい例として、モンティ・ホール問題や誕生日のパラドックスを挙げたい。これらは私たちの確率に対する直感の誤りをよく示してくれる。人間の直感と数学や統計における計算値との間には大きな乖離が生じることが理解できる。

論理命題や集合などの高校数学レベルの簡単な問題ですら、日常で頻に錯誤に陥る。私に限った話ではなく、論理性や合理性に徹して行動しようとしたところで、ほとんどの人はそれを貫き通すことはできない。そもそも人間には、数学や論理学ほどの厳密な論理性は欠けているし、統計学のように相関や推定・検定による確率的視点という、非合理に対する論理的内省に欠けている。人間の脳はおそらく、統計学的に分析できるような形で機能し、統計的に処理されるため、統計学が対象にしているような自然や科学に近い形式の規則や確率に基づいて働いている。

論理的、合理的に行動できた方が進化にとって有利であるはずではないか、実際に科学技術の発展に寄与してきたのはそうした論理性や合理性なのではないか、と疑念が生じる。当然、物理や数学の発展にはそうした論理性・合理性は不可欠だったはずだが、それ以上に人間をここまで繁栄させたのは、一部の卓越した天才たちではなく平々凡々な庶民たちであり、その庶民たちが小麦によって家畜化されるためには、誰かの手で(あるいは自然によって)作り出された神話や御伽噺で大きな虚構を共有する必要があったのだろうと思う。

物語を生み出す能力、読み取る能力、信じる能力、それが社会を形成する。その能力の一端がバルトの言うように継起と因果の混同であり、その混同は、帰納的推論やアブダクション推論を重視した人間の脳の仕組みに起因していると考えられる。


今井むつみと秋田喜美の共著、『言語の本質-ことばはどう生まれ、進化したか』の中で、チンパンジーのアイの実験というものがある。

アイにある色の積木に対応する記号を覚えさせる。例えば、黒には△、白には⚪︎など。図にすると、黒→△、白→⚪︎、となる。

アイに黒を示すと、難なく△の記号を選ぶことができるという。

次に、記号を示すことによって、適切な色の積み木を選択させる実験を行う。図にすると、△→黒、⚪︎→白、となる。

どうしてか、これができないらしい。

人間にとってはこれはとても簡単な問題に思える。黒が△であるならば、△は黒だろうと推論することは容易だ。

だが、これは論理的に正しいだろうか。この本の中ではこれを過剰一般化だとし、以下のような例示をしている。


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この一般化は論理的に正しくない。「AならばX」は、「XならばA」と同じではない。「ペンギンならば鳥である」が正しくても、「鳥ならばペンギンである」は正しくないことからすぐわかることだ。

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人のものごとに対する認識は過剰に一般化するようにできている。だが、動物ではそうではない。

アイの例で示されたように、動物は正しい論理的推論を行える(というより人間が考えるような推論を行なっていない?)が故に、原因と結果や単なる相関、継起と因果の混同が生じない、ひいては物語を生み出すこと、物語を読むことができない。

つまり、猫に小説は書けない。

(猫である必要はなかったが、猫が語る小説もあるので猫にした。)


記号接地問題、あるいはシンボルグラウンディング問題と呼ばれる問題がある。

Wikipediaには以下のように書かれている。


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記号システム内のシンボルがどのようにして実世界の意味と結びつけられるかという問題。

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私たちが用いている言語は間違いなく記号システムだ。ロラン・バルトの『物語の構造分析』では、物語を言語と似た構造を持つものと想定することで、単位に分解しようと試みている。となれば、物語も記号システムと解釈できるかもしれない。とりわけ小説などの物語は、音声や映像にほとんど依存していないために、純粋な記号といえる(かもしれない)。

最近、私が「私の(人生の)意味」を考えるときに、私が設置しているかどうかを考えている。私は、おそらく設置していない。私そのものが記号化して、浮いて、文章や物語そのものになりつつあるように思う。年齢を重ねるということは多かれ少なかれそういう面があるのだろうが、本来、家族や友人、社会的立場などがグラウンディングに寄与するのだろうけれど、私には極端にそれらが欠落している。すると、浮く。人は浮く。軽いから浮くのではなく、地に繋がるものがなにもなくなると浮いてしまうのであって、人は本来的に軽いものなのだと思う。存在の耐えられない軽さ、einmal ist keinmal。


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人間というものは、ただ一度の人生を送るもので、それ以前のいくつもの人生と比べることもできなければ、それ以後の人生を訂正するわけにもいかないから、何を望んだらいいのかけっして知りえないのである。

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本の中で生きている。言葉の中で生きている。記号の中で生きている。マトリックス的な現実と虚構の対立の中で私は生きているのではなく、虚実のあわいが曖昧な中を私は生きていて、地についていないから、現実は夢のようで、夢は現実のようで、どちらが優位かは問題ではなくなってしまう。小説だってそうだ。映画やアニメ、ドラマ、あるいは漫画などが私にとっての小説と同列に並ばないのは、記号性の問題なのだろうと思う。映画やアニメ、ドラマなどの映像作品、漫画などの絵を持つ作品は、あらかじめ設置している、実体的な身体感覚と直接に結びついているため、浮きようがないというか、私という現実を通じてようやく浮くことができるという気がする。小説の場合はあらかじめ浮いている。言語が浮いているからだ。

人の意味、人生の意味というのは接地にあるのだろうと思う。正確に述べるならば、それは身体感覚と結びついていて、古い記憶と結びついていて、純粋な喜びや悲しみなどの、究極の自然がそこにある。実際、それらは記号としてもとても単純な形を持つ。たとえば美味しい。温かい。柔らかい。甘い。香しい。あるいは苦い、硬い、痛い、熱い、冷たい。それらも分化された言葉ではあるものの、身体性との結びつきが強く、それを一段階抽象化させた記号として「喜び」や「悲しみ」、「苦しみ」という言葉があるのだろうと思う。

私はその根を探している。根にこそ意味があるのだと思っている。根拠。生の、私が私であることの、「私の(人生の)意味」がそこにあるのだと思う。ドイツ語のgrundは日本語で「理由、根拠、動機、原因」と訳されることがある。接地を探している。そういう主題で一つ書いたがうまくいかなかった。でも、今私がしていることは間違っていないような気がする。接地を、本当の意味での接地を私は探していて、私以外にも探している人がおそらくいて、手段として接地していない小説を用いようとしていることがどこか矛盾しているようにも思われるけれど、やはり、間違っていない。自信といえばいいのか、盲信とでもいうべきか、私はひたすらにそれだけを信じて書くしかなくて、書いている限り私は浮き続けるのだけれど、地に着くための手段が、どこかで繋がることが、あるような気がしている。

認識を変えなければならない。時間の連続性や不可逆性を疑わなければならない。物事の関係性を見直さなければならない。あらゆる視点から一つのものを見るための目を持たなければならない。そのためには勉強しなければならない。時間はいくらあっても足りないわけで、足りないなかで書かなければならないのだから、一秒だって無駄にすべきではないのだ。


猫に小説は書けない。だから人が小説を書く。そして、私も小説を書く。

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