遠くの音を聞く
宇宙が始まった時に、音はあったのだろうか、とか、考えてみる。
振動を伝えるものがなかったのだから、音だってなかっただろう、聞く人がいなかったんだから、音だってなかっただろう、そもそも音ってなんのことだ、音楽と音は違うものなのか、とか、漠然とした思考が今ここで聴いている音楽をよぎっていく。
ジョン・ケージのインタビューの載った本を読んだ。ジョン・ケージがやろうとしたことは、体系化された音楽、それはクラシックだろうがポップスだろうが構わないのだろうが、そうした音楽から音を解放する、ということだったらしい。詩だ。言葉を言葉の体系から解放するのは詩にしかできないことで、小説は部分的には体系から脱するように見えても、結局はその体系に帰着する。小説は限りなく自由に見えるけれど、実際は「読める」ように書かれなければならないし、ストーリーのようなものがなければならないし、言葉はある程度の意味を持っていなければならないし、むしろナンセンスはナンセンスというセンスを生み出してしまうような、そうした拘束からはどうしたって免れ得ないのが小説というものだと思う。では、音楽が体系から脱することなど可能なのだろうか。小説と同じことのような気もする。ジョン・ケージの音楽家としての思想をもっと深く理解してないがゆえにあまり安易なことは言えないが、ある枠組みから脱することや、枠組みそのものを壊すことは、音楽にあたらしい意味を付与することに他ならないように思えてしまう。
『小鳥たちのために』というタイトルは面白い。ジョン・ケージの名の「ケージ」は檻、あるいは鳥籠を意味している。音楽を解き放つという意味合いがあるのかもしれない。音は溢れている、もっといえば、世界に音楽は溢れている。私は今、電車に乗っている。モーターの音か、線路と車輪の摩擦する音か、ブレーキの音か、それがなんの音かはわからないけれど、たくさんの音が鳴りながら、互いの音を否定することなく、勝手に鳴り響いている。彼が理想としている音楽はきっと、そういうものなのだ。音が独立して、組織立っていなくて、あるいは聞く人が自由に組織立てることが許されていて、そこにいる人たちがその瞬間に演奏者でもありうるような音楽こそが理想なのだ。
私は遠くの音を聞いている。学生時代に聞いていたバンドの音楽。久々に聴くと、単に懐かしさとは違うなにかを感じるけれど、それがなにかはうまく言葉にできない。感傷に近いけれど、どこか違う。エモと呼ばれる郷愁にはどこか自作自演のような滑稽さが伴う。そうしたエモとも違う。確信なのだ。過去があったこと、それが今につながっていることに対する確信。これは接地かもしれない。私は、音楽でだけは地につながっていられるのかもしれない。だとしたら、体系化された音楽が想起するこの感覚を奪う、損なう、そんなジョン・ケージのアナーキズムを否定したくなる。そう、ジョン・ケージは音楽のアナーキズムなのだ。既存の体系や既得権益を無視して別の組織を作るのではなく、なにもなくして自然に返してしまう。ならば私はアンチジョンケージ、アンチアナーキズムということになる。遠くの音が、騒音が、生きていたってことを教えてくれる。でも。
でも、もしかすると、どうでもいい音のなかにももしかしたら接地があるのかもしれないとも思う。電車で話す他人の声が、もしかしたらずっと昔の友人の声に似ていて、私を意味に引き戻してくれるかもしれないし、電車の騒々しい音だって、幼少期に初めて乗った電車の記憶と結びついているかもしれない。私がどこでなにとつながっているかなんて不確定で不安定で不明瞭だから、接地を狙って見つかるものではないから。
意味が剥がれる感覚。言葉の世界においては詩がまさにアナーキズムなのだろうと思うけど、バラバラになった言葉はどうせ、また結ばれてしまう。それが言葉の面白さだと思う。数年前、横浜で最果タヒの詩のインスタレーションを見にいったことがある。詩にしろ小説にしろ、文章というのは必ずリニアリティがある。リニアリティが継起性を作り、因果性との混同を生じさせ、それを私たちは運命と呼ぶから、そこには体系が成立する。では、言葉が言葉ではないなにかに引き戻されるとしたら、そのリニアリティが部分的にでも崩れる時ではないか。最果タヒのインスタレーションにそんな考えがあったかどうかはわからないが、部屋に無数に吊るされた短冊には一文だけが書かれていて、短文として意味をなすかも曖昧で、それが視界のなかに無数に揺れている光景を見て、言葉には偶然性しかないような気がした。必然性や、必然だと思ってしまう運命の力はそこにはなく、言葉はばらばらになろうと努めているようだった。それでも私たちは言葉を結びつけてしまう。意味から意味へ、言葉から言葉へ、短文から文へ、文からまとまった一つの段落のようななにかへ、段落のようななにかは物語へと変化をしてしまうのだろうと思う。どうせ、私たちは体系の中へ戻っていくのだ。完全にバラバラにもなれはしないし、かといってあまりに機械的に組織だった世界や、権威が硬直させてぎこちなく動く系を甘受できない。だからこそ、時々思い出したかのように気まぐれに革命が起こる。それは自然のサイクルの一部のようなもので、体系だって、あるいは自然の一部なのだ。
一つ大きな視点を設定するとそれらの差異が消えてしまったように思えてくる。メタ的にものごとを捉えようとすると、矛盾が矛盾ではなくなってしまう気がするけれど、やはりそれも錯覚だ。視点を変えて解決したように見えたからといって、既存の視点そのものが消えるわけではないのだから。体系とアナーキズムを自然という言葉で内包しようとしたところでなにも進んではいない。自分を納得させるためだけに思考を用いてはならない。進む。進まなければ。でもどこへ?
音楽は直接的だ。耳と心はからだの内側でコードでつながっている。びりびりするのはそのせいだ。言葉はどうだろう。言葉は感覚器官と結びついているのだろうか、言葉はどうして心につながることができるのだろうか、おかしなことだ、不思議なことだ、いつも私はここに辿り着くことになっている。言葉は浮いている。経験や習慣を基盤にして言語ゲームと名付けて言葉を理解したつもりになっても、これもどこか視点のすり替え、メタ化のように思えてならない。音楽の直接的なところが羨ましくもあり、でも、言葉にはそれとは違う、もっと大きな力があるとも思う。
私は小説を読み、なにに感動するのだろうか? 最近読んだ作品だと、最も感銘を受けたのはカミュの『ペスト』だと思う。『ペスト』を読んでなにに感動したか、それは物語だ、物語の中に現れる人物の生のあり方だ、誠実さだ、真摯さだ。物語は言葉でなければならなかったのか? そんなことはない、それは映画であろうと、漫画であろうと舞台であろうと、私を感動させたはずだ。でも、なにかが違う。音楽は耳からするすると入ってきて自然に心と契約を交わすけれど、言葉は私の意志の仲介を必要とする、思考が邪魔するのを許す、物語の語り手は作者や登場人物のようであって、実は私なのだ。あれは私のために書かれた小説だ。この感覚。この絶対的な感覚こそが、小説を他の創作物と性質を異にする点なのだろう。書いているのも、読んでいるのも、私だから。音楽は、確かに誰かが作って、誰かが歌って、誰かが私に届けたものだけれど、言葉だけは自分の中で意味を結ばなければならない。感覚に近い記号はあらかじめ接地している、遠くの音が過去との結びつきを強く持つのは、どうせあらかじめ接地しているという音楽ならではの暴力的な感動のせいなのだろう。音楽は、どうやったって心を動かす力を持っている。良くも悪くも。
ここで言葉が息切れしてきた。ただ書く、無闇に書くというのも考えものだ。思考の赴くままに書いている。思考は脈絡がないように見えて、何かでそれぞれが地続きになっているから、それを丁寧に辿っていくと、自分のことが少しだけ見えてくる。
私は私をなによりも理解することから始めなければならない気がしている。私がどのように生きてきたか、生きたいか、どういう人間でありたいのか、どういう人間であるのか。徹底的に、客観的に、冷静に、見極めなければならない。
書くというのは忍耐力がいる、体力がいる、それでいて誠実さや丁寧さまでも求められる過酷な仕事だと思う。どうして好き好んでこんなことをしているのか、自分でもわからないし、きっとこれを読むかもしれない誰かだってわからない。馬鹿げている。そんな馬鹿げていることを人間が長い間続けてきたからこそ、私は今、誰かが書いた言葉を文を物語を読むことができるのだ。
まだまだ読み足りない。読みたいと思っていて、手を出していないものが無数にある。もっと厳選して、良いものだけを読みたいのだけれど、読まないと、良いものかどうかの判断はつかないのだから、とりあえずひたすらに読んでみるしかないし、こうして書いてみるのも、私のなかにどんな言葉が埋もれているのかわからないから、とりあえず書いてみるしかないのだと思う。
なにが生まれるのか。あらかじめわかっていて書いているわけじゃない。私のなかにある言葉しか、私からは生まれない。でも、もしかすると、うまいことやれば、私のなかにないはずの言葉を私から生み出せるような仕組みもそのうち作れるのかもしれないような気がしている。ちょっとプログラミングとか機械学習とか、そのあたりの勉強が必要だけど、自分以外の誰かに書かせる、というのを能動的に進めてみるのも、私が私を見つける過程で意味があることという気もする。結局、他人に自分を照らし合わせて見てみないと、私の意味なんてわからないのだから。なぜかといえば、意味とは差異だから。意味とは、私と私以外が異なっているということだから。私は私以外を見つめる必要だってあるのだ。
とか書きながら、私はイヤホンを外した。
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