生きた時代、生きていく時代、私のいない世界

私は生き、いろいろなものを見てきた。

小さい頃、震災でビルが倒壊している光景をテレビ越しに目にした。思春期に、飛行機がビルに突っ込むのを見た。大人になって、津波があらゆるものを飲み込んでいくのを、これもテレビ越しに見た。

そうした大きい出来事は、記憶に深く刻み込まれているけれど、そうではなくて、私はもっとゆっくり、ちょっとずつ、着実になにかを失っていっている。

それはきっと、ほんとうにどうってことのない時間や場所、経験や感覚なのだろうと思う。無くしたことすら気づかないくらいに小さい何かのはずだ。なのに、たとえば昔住んでいた街の景色が変わっていることに気がついたりすると、大きな当惑を感じる。

これは部分的な死なのかもしれない。私はゆっくりと死んでいっているのかもしれない。少なくとも、そうした当惑の終着点にはいつも死がある気がする。今日も失い、明日も失い、失い続けていくうちに、ゼロに漸近していく。だとしたら、私が死ぬのはそうした喪失の無限の彼方なのだろう。

ある種、これは真実にとても近い気がする。喪失は経験だ。喪失の経験を延長した先にこそ死があるという考えを前提としたとしても、全てを失ったその瞬間に失う主体である私は存在しないため、死そのものは喪失としてありえない。

エピクロスのいう、


"

死はわれわれにとっては無である。われわれが生きている限り死は存在しない。死が存在する限りわれわれはもはや無い

"


というやつだ。

人はこんな詭弁に納得しない。

死は遠近法の消失点のようなものなのだろうと思う。それは誰にでも常に意識できるところにあり、たしかにそれは存在しているのだけれど、それそのものが単独で存在するのではなく、線の延長線の交差としてしか表現され得ない。点としてそれはなく、手前から奥に向かって続く人や建物のその奥に、時間の重なりの最奥に、経験と経験とを結んだ先にしか現れては来ない。私はそれを経験することはできないけれど、線の行く末をたどってみることはできるし、理屈上、そこに消失点があることはわかる。なにもかもが、その一点で消える。


描き途中の絵画にも、あらかじめ消失点はあるはずだ。そこにむかって線を引くことができるから、時間のなかで生きることができる。そうした時間の重なりは、時に前後を錯誤してしまったり、手前を薄くあらく、奥を濃く緻密に描いてしまったりもする。記憶の濃淡が絵画全体の構成を決めていく。そうして最後にできあがった一枚の作品は、まだ別の人の作品の一部として組み込まれ、ぼやけていき、やがては名残すら見えなくなってしまう。

色々と線を引いてみている。人が引いた線を、色を、眺めてみている。綺麗だったりごちゃごちゃしていたり、汚かったり、見苦しかったり醜かったり見ていられなかったりと、なにもかもがゆるされている。小さな絵もあれば、大きな絵もある。抽象画もリアリズムも自由だ。ありとあらゆる形。ありとあらゆる色。決められているのは、一点の消失点だけ。そこでなにもかもが集約される。



なんの話だろうか。

最近、死ぬことばかりを考えている。死ぬことを考えると、今までどう生きてきただろうかとか、これからどう生きていくだろうかとか、そういうことばかり感がるようになる。

私の生きた価値はあったかなどと自らに問うと、肯じることは容易でない。無数の疑問が泡のようにぶくぶくと腹の底から湧き出しては、ちょうど頭の上あたりでぱちんと割れて消えてしまう。あれ、なんだっただろう、とか。


揺れている。

たくさんのことを見てきたのに、覚えていること、記憶に焼きついていることは、ほんとうにわずかなことだけなのだ。

それが怖いのかもしれない。

私にとって大切なこと、私にとって価値だと思えること、意味だと思えること、失ってほんとうに苦しいものや人があまりにないこと。

それが怖いのかもしれない。

失ってみて、その喪失感を抱けるうちは、もしかすると幸福なのだろうか。

もはや無くしたことすら覚えていないものが無数にあったはずなのに、そんな物事たちのために、私は涙を流すことなどできないのだから。


わからない。

漠然としている。消えていこうとしている。


今この瞬間の私の思考ですら、次の瞬間には失われてしまおうとするのだから。これは、どうしたものやら。

私には対処の仕方がわからないから。

だから、今日もこうして書いている。むやみやたらと書いている。


書き続けることでしか、死と喪失と、空虚からは逃れようがないのだろうから。

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