生きてなさい、喜びなさい
生を手放しに礼賛せよ、ということではない。
生を、今を、誠実に受け止めろということだろうと思う。
私が好きなものを思い浮かべる。
サッカー、フットサルが真っ先に脳裏に浮かぶ。
好き、という単純な言葉で表してしまうとなんだか物足りなさすら感じるものの、それが生の喜びそのものかと問われれば、ほんのちょっと中心から外れる。でも、近い。それはとても物理的で、身体的で、直接的で、抽象性の一切を排除したような喜びに近くて、経験としてはとてもなまな感覚に訴えかけるからこそ、それは生の喜びに限りなく近い。
書くこと、描くこと、作ること。
なにかを作ること、生み出すこと、形を与えること、切り取ること、切り離すこと、繋げること、結ぶこと、ばらばらにして、まとめて、抽象や具象を行き来すること。これはとても人間的で、人が人たる所以には、なにかを作ることと密接に関係しているのだろうと思う。そして、作り出した瞬間には喜びといっていいものが、被造物と一緒に、生まれるように思う。
生きること、それは私に意味や価値、目的を常に問う。そして意味や価値、目的は、快楽とは違うものであるように思える(が、完全に外れているわけでもない)。私は私を機械だとは認識していないものの、根底の仕組みを唯物論的視点から鑑みれば、ほとんど機械のようなものだとも考えられることは、少なくとも理解できる。自分が単なる機械である、そういうことを否定するために私は書いているのだろうか、ボールを蹴っているのだろうか、絵を描いたり、なにかを形作ったりするのだろうか。私は、私が機械であることを否定しようとしているのだろうか。あるいは、私は私だけが機械ではないと思うために、他人にその役割を押し付けようとしているのだろうか。
自らを機械のように扱うことで、人間はあらゆる苦痛から逃れようとする。私も例外ではなく、私が労働を行うときには、私は私を創造的な人間ではなく、会社の一部として、機械として振る舞おうと努める。というのは、私が私であろうとするとき、社会において求められる歯車とは噛み合わずに、ひどく摩擦を生じるからだ。疎外。英語でいうところのalienationだ。wikipediaによると、
"
哲学、経済学用語としては人間が作った物(機械・商品・貨幣・制度など)が人間自身から離れ、逆に人間を支配するような疎遠な力として現れること。またそれによって、人間があるべき自己の本質を失う状態をいう。
"
のこと。マルクスがヘーゲルから借用したものらしい。
関連した語を調べると、alienは「異邦人、宇宙」などを表し、alienableは「譲渡可能な」という法律用語になる。元々は「他の、別の」を意味するラテン語のaliusが由来だ。疎外というのは本来的な自分をどこか、だれか、なにかに対して無条件に明け渡してしまうことなのだろう。
だが、明け渡すもなにも、そもそも私は確固たる私などというものを所有していたのだろうか?
私の好きなもの、大切なもの、楽しい時間や喜びの時間、あるいは苦しみや悲しみや怒り、そうしたものが私を形作り、私の所属を定めている。それらはいつでも可変で、移り行くもので、昨日と今日とで同じでなければいけない理由などなにひとつとしてない。
だからこそ、私が私であることの連続性を担保するには、どうしたって過去というものが必要になるのだろうけれど、私は、私の過去をほとんど手元に持たない。持つとしてもそれは心のなか、記憶のなかだけのことで、ある意味では誰にも奪うことのできない絶対的な私を、私は持っているのかもしれないけれど、反対に、物質的に表現された私を私はなにも持っていないということを意味している。だから、私は揺らぎやすいのだ。
喜びに立ち返る。
生きています。喜んでいます。
内藤礼について書かれた記事を読んだ。
内藤礼の作品を、多くは知らない。というか、実際に体験したのは豊島美術館だけなのだが、それは私にとってありあまる経験であり、もう一度あの場所を訪れたいという気持ちと同時に、もう二度とあそこには行きたくないという気もしている。それくらいに、その作品は私を揺さぶってしまった。ゆえに、作品について書こうとは思わない。
ただ、忘れていたことを思い出した。あれだけ激しく私を揺るがしたにもかかわらず、私のなかでいつのまにか薄れてしまっていた感覚を。
朝、ベッドのなかでだらだらとスマートフォンでネット記事を読んでいた。和田礼治郎という人の作品の記事が掲載されていた。なんとはなしに目を通した。作品の解説が書かれていて、読んでいるうちに、自分の感覚に合うものである気がしてきた。
この感覚、どこかで覚えている。それに礼の字がなにかを訴えかけてくる。遠くの、深いところに、静かに眠ったままでいるなにか。検索した。内藤礼があらわれた。
思い出したのだ。「私は生きていることを喜んでいます」と。
この喜びという言葉はおそらく、悲しみの対義語にあるべき喜びとは異なる、なにか絶対的な力を持つ生への肯定、あるいは諦観、仕方ないという感覚に近い。
風が吹く。雨が降る。春の日の空がにごるくせに風は冷たい。太陽が眩しい。ハナミズキの花がひらく準備をして膨らんでいる。梅が香る。つばきにメジロ、ときどきウグイス。目が少し痒くてスギを憎む。早くのぼるようになった朝日のせいで寝不足になる。春眠暁を覚えず、なんて嘘じゃないかと思いたくなるような朝。
すべてを私は喜んでいます。そして、このすべては、瞬間です。
サッカー、フットサルが好きなのは、私の全身が、足の指の先から頭のてっぺんまで、文字通りに、純粋に物理的な運動を感じ取っているという瞬間的な喜びに満ちているからだろうと思う。もちろんそこには勝利や優越の感情はあるのだろうが、ただ肉体が動く、というそれだけが嬉しかったりもする。
書く、描く、作る。これはきっと、瞬間を切り取って、過去を形にして未来にまで残そうとする行為だ。私は私の喜びを感じるだけでは飽き足らず、私の喜びを誰かのものとして共有してもらうことを望んでいる、あるいは、未来の私のために私が喜べる土台のようなものを探し求めている、作ろうとしている、残そうとしている。
私が生の喜び、生きることの根底の意味のようなものを問いながらも小説を書くときには、背景を暗くする癖がある。
暗い背景には、光がよく映えるから。コントラストを強くすれば、輪郭がはっきりと浮かび上がってくるから。
でも、明るいなかでも見えるくらいの、強くなくても、烈しくなくても、目に映るような、気がつくような光を描けなければ、それは小説として意味がないのではないか、成立していないのではないか、足りないのではないか?
いつのまにか疎外が当たり前のことのようになって、疎外を中心として物語を描こうとして、とてもつまらないものばかりができあがっているように思う。違う、私が目を向けるべき場所はそこではなかった。
リルケの『マルテの手記』の新潮社の文庫、訳者あとがきのなかにあるリルケの言葉を思い出したので、抜粋を載せる。
"
あなたはあまりマルテの気持に同化されてはなりません。マルテのかなしい絶望感がすぐそのままのかたちで読者のこころの底に食いいってくるのは、あのような暗い救いのない気持の下に、たいへん純粋な、ほとんど無邪気とさえみえる、はげしい生活のちからが流れているのです。むろん、偶然にそれが『没落』という枠のなかへおさめられている点は、見のがしてはならぬことかもしれません。いま僕は偶然にといいましたが、厳密に考えれば考えるほど、マルテの没落そのものはほんとうのテーマにとってごく偶然なものでしかないとおもうのです。
"
私は生きていることを喜んでいます。私は生きていることを喜んでいます。喜びはすぐそこにあるのに、いつもいつも遠ざかってばかり。
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