あらゆるものが地続きに繋がっていて

着実に時間が減っていく。人生は短い。

誰かが言っていた。孤独な人間にとっては、人生は長すぎるのだと。そうかもしれない。


孤独とはなにか。

私自身、よく考えてみなければならないと思う。リルケがいうには、


"Die Einsamkeit ist wie ein Regen."


だそうだ。

繰り返し街に降っては人から熱を奪い、からだを冷やし、あっというまに川や海に流れて消えてしまう。

雨粒が散って合わさってを見ていると、なんとなくそういうことなのかと納得してしまそうになる。

私というひとりの存在は、そうした流れの中で衝突しては散り合わさる、ばらばらななにかの一部なのかもしれない。だとしたら、さほど孤独でもなさそうだ。

『百年の孤独』でガブリエル・ガルシア=マルケスが描いたのは孤独だったのだろうか。『百年の孤独』のなかで描かれる死はどれも奇妙で美しい。一族の祖であるホセアルカディオブエンディアの死は以下のように描写されている。


"小さい黄色い花が雨のように空から降ってくるのが窓越しに見えた。それは、静かな嵐が襲ったように一晩中町に降りそそいで、家々の屋根をおおい、戸を開かなくし、外で寝ていた家畜を窒息させた。あまりにも多くの花が空から降ったために、朝になってみると、表通りは織り目のつんだベッドカバーを敷きつめたようになっていて、葬式の行列を通すためにシャベルやレーキで掻き捨てなければならなかった。”


これが死、これが孤独なのだろうか。

マジックリアリズムと呼ばれるジャンルの魅力は、現実と幻想の境界の曖昧さにあると思う。花が降る、なんてことはありえない。なのに、なぜか現実の感覚としてはっきりとその情景が浮かぶ。そもそも、現実と呼べるようなものと、幻想や空想、あるいは虚構といえるようなものとの間に、明確な境界線なのないのだ。


とりわけ好きなシーンに、小町娘のレメディオスの死(昇天)がある。


"「いいえ、その反対よ。こんなに気分がいいのは初めて」

 彼女がそう言ったとたんに、フェルナンダは、光をはらんだ弱々しい風がその手からシーツを奪って、いっぱいにひろげるのを見た。自分のペチコートのレース飾りが妖しく震えるのを感じたアマランタが、よろけまいとして懸命にシーツにしがみついた瞬間である。小町娘のレメディオスの体がふわりと宙に浮いた。ほとんど視力を失っていたが、ウルスラひとりが落ち着いていて、この防ぎようのない風の本性を見きわめ、シーツを光の手にゆだねた。目まぐるしくはばたくシーツにつつまれながら、別れの手を振っている小町娘のレメディオスの姿が見えた。彼女はシーツに抱かれて舞いあがり、黄金虫やダリヤの花のただよう風を見捨て、午後の四時も終わろうとする風のなかを抜けて、もっとも高く飛ぶことのできる記憶の鳥でさえ追っていけないはるかな高みへ、永遠に姿を消した。"


小町娘のレメディオスが昇天する美しい描写なのだが、嫁であるフェルナンダがこのあと、神様に祈る。せめてシーツだけでも返してください、と。

幻想的なシーンであるはずなのに、一瞬にして俗っぽい現実に引き戻される。

『百年の孤独』では単にこうした死の幻想的な描写だけでなく、時代背景とも交差しながらマコンドという架空の街ができていくまでの過程が描かれている。同時にそれは、ホセアルカディオブエンディアにはじまる一族の歴史でもある。


現実と虚構。過去と現在と未来。自分と他人。死と生。あらゆるものが地続きになっている。日本にも似たような感覚がある気がしていて、また、西洋に欠けている(不足している)感覚でもあるような気がする。だからこそ、西洋のありかたを必死に模倣する形で発展を続けてきた日本においてインパクトを残しただけでなく、西洋にも同じように新しいものとして受け入れられたのだと思う。


ネットの情報の海をたゆたっているうち、『百年の孤独』に関する記述を見つけたので、以下に引用する。


まずは安倍公房。

"

読んで仰天してしまった。これほどの作品を、なぜ知らずに済ませてしまったのだろう。もしかするとこれは一世紀に一人、二人というレベルの作家じゃないか。


(略)


まるで魔術師みたいにギュッと魂を捉えてしまうあの力は解説で尽くせるものではありません。とにかくマルケスを読む前と読んでからで自分が変わってしまう。一番肝心なことは、ああ読んでよかった、という思いじゃないか。もし知らずに過ごしたらひどい損をするところだった、見落とさないでよかった、という、これこそ世界を広げることだし、そういう力を持っている作家との出会いというのはやはり大変なことです。文学ならではの力というべきかもしれない。

"

安部公房『死に急ぐ鯨たち』


次に、池沢夏樹。

"

1950〜60年代のころ、この世紀の早い時期に書かれたジョイスの『ユリシーズ』とブルーストの『失われた時を求めて』によって、文学はやれることをやりつくしてしまった、あとは縮小再生産でいくしかないということが、欧米を中心によく言われていました。そこへ、『百年の孤独』が出た。ガルシア=マルケスは、カフカやフォークナーに随分学んだけれども、「百年の孤独』そのものは欧米のどんな小説の伝統とも無縁であって、その技法は西欧的技法とはまったく違う。その新しさと、小説というものの可能性を切り開いたパワーが、世界に衝撃を与えたのです。小説はまだこんなことができるのか、と読書界が興奮につつまれたのを、ぼくはよくおぼえています。

"

池澤夏樹『現代世界の十大小説』





どうやら私には、私の持つ属性の重ね合わせによって自分というものを認識しようとする癖があるらしい。

そもそも属性というもの自体が便宜上人によって創造された意味としての線引きに過ぎないわけで、境界だとはっきり言えるようなものはどこにもない。

もっとも厳密に語ろうとするのであれば、世界の最小単位としての素粒子こそが量的に語りうる定義可能な境界といえるのかもしれないが、カントのアンチノミーのごとく、分割の最小を突き詰めてみたところで立ち所に矛盾が生じてしまう。そもそも、そうした小さな世界においては、私たちは物質を確率的にした捉えられないため、どちらにしても破綻している。

となると、私は私以外の存在とを区別するための境界を持てないということになりかねない。一つの存在としての私、統合された全体としての私などどこにもなく、相互に干渉し合う数多の現象の断片のようなものとして、私がある、といえるかもしれない。

だとしたら、私は私の感じる不安をいくらか慰めることができる気がする。

全てがつながっている。現象と別の現象が必然的に連続するのと同じように、にいる私とどこかでこの文章を読んでいる誰かとだって関係していて、運命とでも呼ぶべき糸がぐちゃぐちゃに絡み合っている。

私の存在は無意味ではありえない。この意味の肯定は、結局のところ無意味に帰着する。すべての存在に意味があるのだとしたら、そこに差異はなく、差異のない世界おいては、やはり意味もない。熱いと冷たいが同じ意味を示すのであれば、熱いと冷たいの二つがあっても仕方がないのだから。


こうして私はまんまと円環に嵌る。自分という存在そのものを問うこと自体が滑稽だとも思う。もっと素直に、自分が誰かと一緒に過ごして幸福か、とか、誰かが私と過ごして幸福そうにしているか、とか、そうしたことにもっと真剣に向き合えば、おのずと答えは出るだろうに。


そんなことを思いながらも、今日もこうして言葉を綴る。



時間の前後関係。現実と虚構。自己と他者。

学生の頃、フッサールに関連の書籍を読んだ。現象学が私に与えてくれたヒントは、私のこうした込み入った思考を助けてくれている。

属性を私から取り除こうとすることは、結局のところ、エポケーなのかもしれない。私は無意識的に現象学的還元を自分に対して試みようとしているのだとしたら、私は少し書き過ぎているように思う。

違う。

こうして書き出してみることこそが、私が私たる所以、私が私について、あるいは私以外について書きたいことを明らかにしてくれる、ひいては私が真っ先に捨てるべきものを選別することで私に近づくことを可能にしてくれるのかもしれない。


私はなにを求めているのだろう。なにが欲しいのだろう。どうして文章を書いているのだろう。

私はどうしようもなく『百年の孤独』に魅了された。もちろん、他にも『マルテの手記』、『忘れられた巨人』、『シーシュポスの神話』、『グレート・ギャツビー』、……と私を魅了してやまない作品はいくらでもある。

ただ、なぜ私は今『百年の孤独』について考えているのだろう。わからない。



終着点の見えない文章になってしまった。

とりあえず、ここで終わりにしておく。それでも私は続いていく。

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