赦しを乞うて傷を刻む

幼少期に私の心に芽吹いた罪悪感は、肉体の成長とともに順調に育ち、二十代半ばにしてようやく醜い花をひらいた。


建築模型を作るための銀色のカッターの刃の角度は三十度で、切れ味が良いだけでなく、繊細な線をうつくしく、精確に切り取ることができる。垂直にスチレンボードを切るのにうってつけだが、何度か使うとすぐに切れ味は落ちるのが玉に瑕で、しょっちゅう折らなければならないうえに、替え刃のストックも必要だった。

カッと刃の折れる乾いた音が部屋に響いた。

静かな部屋で、テレビをつけたままだったことに気が付く。暗い部屋に暗い画面がぼんやりと浮かび上がっている。明るい部屋では気づくことのない黒の不完全さに、暗い部屋では気づくことができる。薄く光っている。深夜だというのに、カーテンの隙間からは外の光が入り込む。月のせいか、街灯のせいか。街には人ひとりいないだろうに。光がざわざわ心を騒がせ、うるさかった。

静かなのがいけない。見もしない深夜の映画を流した。英語ではないどこかの外国語だったが、聞き馴染みはなく、少なくともドイツ語ではないことだけはわかった。どこの言葉かわからなかった。目が霞んで、字幕の言葉もうまく読めない。そもそも、はなから読む気などないのだが。ただ、誰かに静寂を埋めて欲しかっただけだ。

画面からはときどきセリフが聞こえるくらいで、音の少ない映画だった。夜を乱すことのない完璧な映画が憎い。昼に見る映画のような耳の奥で暴れ回るような喧騒を求めていた。ただ、光のざわめきを掻き消して欲しくて。

鋭いままの刃をそっと腕にあて、肌の表面を速く滑らせた。皮膚がかすかに引っ張られるような感覚があるものの、引っかかることはなく、思いのほかとても綺麗に切れた。直後、裂け目に痛みが走り、少し遅れて血が漏れ出した。

とろ、とろ、とゆっくり流れる血をティッシュで拭い取ると、また傷口からぷちぷちと血の粒がふくらむ。一定の力で線を引いたつもりだった。多くの血管は傷と垂直方向に走っている、とぷちぷちとまるまる果実のような血を見てなんとなく思った。

皮膚の下に走る細い血管を切ったのだ。皮膚だけ切っても血は流れない。そもそも皮膚のどこまでが自分なのだろうか。垢として私の肉体から剥がれ落ちた皮膚はもはや私ではないと思う。肌の表面に貼り付いているだけの皮膚は私の一部だろうか。神経が通う領域だけが私だろうか。皮膚感覚だけで私の限界を規定できるならば簡単な話だが、私の私に対する感覚はもっと曖昧かつ多岐にわたる。。極端にまで小さな私を規定するならば、意識というものだけが私という気がするけど、極端にまで大きく私を規定するならば、世界そのものが私であり、私が終わるのと同時に、この世界のすべてが終わるのだと思った。

私の死は恐怖を呼び起こすのに、世界の終わりを想像すると、なぜか少し心が踊る。すべてが距離をとってバラバラになり、運動も衝突も摩擦もなく、可視光から赤外線も紫外線も存在しない。ありとあらゆるものが遠ざかって、限りなく物体の周囲は無に近づいていく。この上なく静謐な世界。そこに聞こえるのはきっと、私の心臓の音だけなのだ。


溢れる血を繰り返し拭う。

そのうち血は止まる。


私のからだの内側には、血が流れていた。痛みがあった。痛みこそが、私の肉体の輪郭線を綺麗にまっすぐそこに引いた。

だが、それでもまだもの足りなかった。

今度は少し力を強く、ゆっくりと引いた。速く表面を切り裂いた時よりも重い痛みが皮膚に深く沈む。長い傷を刻む前に、手の力は弱まった。痛い、怖い、という自然な感情が芽生え、私のなかに確かに感情というものがあることに、半ば感動した。

胸にそっと手をあてる。確かに脈拍がある。鼓動している。私は確信する。ここにはまだ心がある。痛みを感じることができ、恐怖を感じることができ、まだ、生きている。傷は、その証明だった。


カッターでは動脈に届かないどころか、太い静脈すらもなかなか切れないので、とうてい死ぬことなどできない。

死のうとしていたわけではないが、傷の延長上に死があるのだと漠然と期待していた。そのうち痛みを感じなくなり、意味を見つけられなくなり、生への執着も死への恐怖も消え、ゆっくりと砂糖が水に溶けるみたいに、土のなかに沈んでいく。苦しみも悲しみもない場所。優しい死者以外に誰もいない場所。熱のない場所。恐怖さえ越えられれば、そこでおしまいだ、と。


傷は、今でも消えていない。そして私は生きている。


生きたかった。赦されたかった。花開いた醜い罪悪感を消し去るためには、これ以外に手段がなかったのだ。



自ら切るという行為が、私のうちで育まれた罪悪感に対する手っ取り早い罰であり、罰は同時に、犯した罪に対する赦しでもあったのだと思う。

リスカの動機は人それぞれだが、自殺を目的として行う人は多くないだろう。少なくとも、自殺の手段としてうまくないのは、軽く手首を切ってみればすぐにわかる。痛みが近いところにある。痛みは躊躇いを生むのに十分な力を持っている。多くの人は、生きるために切るのだ。

生理学的には、痛みに伴って脳に生じる内因性オピオイドが快感を生じさせて依存になる、という説がある。辛さが痛覚を通じて快感に結びつくと聞いたことがある。それと同じで、痛みは即座に快楽を生じさせるらしい。本質的には薬物依存とそう大差はないのだろう。



なにが私のこうした状況から救い出したのかがわからない。自分自身で抜け出したとは思わないし、特定の誰かが私を救ってくれたとも思っていない。特に意味もない、いろんな物事の重ね合わせが、たまたま今のような私を作り出した(救い出した、掬い出した)のだ。

自傷行為が無駄だったとは思わないが、おそらく他の方法もあったはずだ。考えること、誰かに頼ること、自分を律すること、あらゆることができなくなっていた。そのまま一番低い場所に手をついてみて、深い穴の底から上を仰いでみた。ぽっかり空いている暗い空に、星が輝いていた。酒に酔っていた、不幸に酔っていた、死の近くから見る冬の空は、とても綺麗だった。


当時から十年近い月日が経過した。

あいかわらず、一人前の人間とはいえない大人だと思う。誰かのためになるような大層なことはできないし、方々で多くの人に迷惑や不快感を与えているだろう。ただ、決定的に変化したのは、別にそれでも構わないと思えるようになったことだと思う。


今、私が過去の私に出会ったとしたら、寄り添えるだろうか。


小説という媒体を用いて、私はそれを試みている。今のところ、誰かの心に、心の一番深いところに触れたことは、まだないと思っている。

(幸福なことに、私の小説を読み、一定の評価をしてくださる方はいる)

同時に、小説を書くという仕事は、私に対する私の言い訳なのかもしれない。今、こうしてあること。こうでしかありえなかったこと。誰かを傷つけ、嫌な気持ちにさせ、たくさんの悪を撒き散らしてきたことに対する、長いながい言い訳なのかもしれない。


私になにが書けるのか。私がなにを経験してきたか。なにが好きなのか。なにが嫌いなのか。私の正義はどこにあるのか。私はなにをしたいのか。どんな小説を書こうと思っているのか。

ちょっとずつ進む。この小さな空間で、もがきながら。苦しみながら。痛みながら。


大丈夫。

わざわざ傷など刻まなくても、私は私の苦しみを、しっかり苦しめている。


私のたわいない言い訳は、まだまだ続きそうだ。

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