私には文才がない
死ぬことばかり考えている。どこか、別のところでも同じ言葉を書いたような気がしているが、思い出せない。作家という人たちは、そうした記憶に長けているのかもしれない。私の場合はなにもかもをそこに置きっぱなしにして、私だけが未来を求めて先走ってしまうために、記憶というものは常に曖昧で不確かで、消えやすく儚い。
春になるといつも思い出す短歌がある。
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ももちどりさへづる春は物ごとにあらたまれども我ぞふり行く
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どこかへと進んでいるつもりでいて、置き去りにされているのは私なのだ。
輪を描いている。同じところをぐるぐると回っていて、あらゆるものが遠心力で中心のもつ重力から離れて新しい軌道に入るのに、私だけがひとつのものに執着するばかりで、第二宇宙速度を超えるために十分なエネルギーが得られずにいつまでも燻っている。
春はなにもかもが新しくなる。鳥が鳴く。鳥の声も新しく澄み渡っている。
職場の近くの公園で梅の花が咲いた。梅には目白。なにを啄むのか、梅の木にとまっては花のなかに嘴をさしこんでいる。ヒヨドリも
物の名を知ること、言葉を知ること、知識を増やすこと、思考を深めること。書くにあたって私のすべきことが明確になってきたように思う。私には文才がない。文才がなくとも、文章というものは量を書くうちにそれなりの形にはなっていくものだ。だが、時々ギョッとするような文章に出会い、なんというか、書く気が失せることがある。こんなものどう逆立ちしたって私には書けない、という文章。すぐに自分に言い聞かせる、いや、これは私が書くべきものではないのだ、と。私が書くべき文章は別にある。自分の得意なもの。学生時代に得意だったのは数学や物理だった。一つの問題に集中して、時間を掛けて考え詰めるというのが私の本領だったろうと思う。それは当然、文才とは異なる。文才はむしろ、反射神経のようなものだ。長い時間呻吟したところで良作、良文が生まれるものではない。感性の接続が他者とは決定的に異なっていなければならず、その異なり方が、かけ離れていてはいけない。遠すぎると支離滅裂になるだけで、近すぎると平凡に没する。読むことはできるけれど、私にそれを書くことはできない。ならば、学べ、盗め。それだけの話だ。
春。新しい季節になって自分だけが古びて、枯れていく。
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久かたの光のどけき春の日にしづ心なく花の散るらむ
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散り際の桜は目に美しく映る。生の儚さや無常を象徴するそれが美しいのに、私や他の人の多くの生は、死は、それほど美しくもないだろうと思う。だが、視点を反転させてみる。私が死ぬ時に見るこの世界は美しいだろうか。末期の眼に映る世界はおそらく美しく、美しかったならば、それまでの生のなにもかもが肯定されるのではないかと思う。逆だろうか。肯定できるような人生だったならば、末期の眼に世界は美しく映るのだろうか。
原因と結果を考えること。相関を考えること。偶然や必然を考えること。運命や宿命を考えること。これらは物語の本質であり、文章を書く上でも重要なことだと思う。
物語を読むものはそこに必然性を求める。その必然性は、正確に因果関係である必要はなく、単なる相関や継起に過ぎず、そこに運命を見るのはあくまで読者ではあるとしても、描く人間は読者の持つ知識や感性にそれを委ねるわけにもいかない。(とはいえ、最終的には読者に頼らざるを得ないけれど)。
桜の花が散るのを見て、ただ散ってしまうのが悲しいから、寂しいからと、春の儚さに感慨を抱くわけでもないだろう。私たちはその光景の背後に多くの人を見つけるし、多くの物語や、多くの思い出や記憶を見つけてしまう。無常の本質は、そうした芋蔓式に引き出される過ぎ去ったものたちにある。過ぎ去ったもの、もうここにないもの、手の届かないもの、それらを持っていない人間にとっては、無常を地でいくようなものだから、彼らの自然そのものが無常で、無常が無常を感じることはできない。(感じても、どうせそれは過ぎ去ってしまう。)となれば、無常そのものの無常性ゆえに、どんな人間だって刹那でしかないともいえるのでは。混乱。変化と、変化のなかにいる自己と、それを認識する自己と、自己言及のルーブが生じて誰にもそこに触れられなる、アキレスと亀の競争が始まってしまう。私はそうして、無と無限の数学的な陥穽にはまる。これは論理の罠だ。
ユヴァル・ノア・ハラリが『サピエンス全史』の中で歴史は二次のカオス系だと述べていた。二次のカオス系とは、予想や判断が対象そのものに影響してしまう系のことで、株式市場を想像してみるとわかりやすい。たとえばアルファベットの株価が来年に倍になる、という予測があったとする。一年で百パーセントの利益となれば買わないものはいない。その予測はすぐさま市場に反映され、株価はそれに相応しい額までただちに高騰してしまう。仮にアルファベットとの一年の平均した株価変動が十パーセントだとしたら、九十パーセントくらいは一瞬で上がるというのが筋だ。株式市場はもっともわかりやすい二次のカオス系だろう。
私も同じく、二次のカオス系だ。私が私に対して判断を下したり思考したりする場合に、その判断や思考そのものが二次的に私に影響を与えるために、さらに判断や思考は変更を迫られる。いわゆる論理的思考というのを突き詰めると、人間は論理的に身動きが取れなくなる。そもそもバタフライエフェクト的な事象をひとたび考えだせば、この世界のすべてが二次のカオス系で、論理的思考は無と無限の数学的な陥穽にはまって抜け出せなくなる。
これはフレーム問題と同じだ。人間がフレーム問題に陥らないのは、その脳の非論理的な働きによる。それをヒューリスティクスと呼び、AIは論理的思考からヒューリスティックな思考へと脱却したからこそ、(そしてその背景でハードの飛躍的進歩があったからこそ、)既存の枠組みを大きく出た、破壊的なイノベーションを起こすことができた。つまり、人間にしかできなかった適度ないい加減さが、徐々にAIにもできるようになりつつあるということだ。
論理は重要だ。論理によって、私は私の思考を支えているという実感があるし、論理は私の武器でもあると思う。だが、論理からの逸脱や、誤謬そのものが、物語の核である可能性もある。誤解や勘違い、偶然を必然だと思い込むこと。人間の不確かな、曖昧な能力こそが、ありとあらゆるものを物語に変える力を持たせるのだろう。
桜が散るのはまだ遠い。今はまだ梅が咲いたばかり。近くにいって、その香りを嗅ぐ。毎年のように梅の香りを嗅いでいるのに、どうしてか、毎年春にならないと、その匂いを思い出すことができない。たとえば金木犀の香り強烈で、記憶から剥がれないくらいに強く、それに似た香りを嗅いだときに、金木犀だと思う。それはもしかすると、背景に物語があるのかもしれない。幼少期を過ごした団地の公園には金木犀が植えられていた。秋になるといつもその強い香りが窓から匂ってきた。幼少期の記憶というのは、それなりの年齢になった今となっても消えない。たとえば薔薇の香り、梅の香り、他にも花の香りや食の香り、どれにしても直接的な記憶と結び付いてはいないようだけれど、金木犀だけは、団地の公園の光景が香りと共に浮かんでくる。単にマドレーヌ効果という言葉で片付けられるものだろうか。疑わしい。
私がここのところ考え続けている問題、シンボルグラウンディングと本質的に深く関わっているように思う。シンボルグラウンディングの本質には、間違いなく記憶の問題が関係している。原初的な記憶とシンボル(言葉)の結びつきがどのように形成されたか。金木犀は私にとって金木犀という文字すら知らない幼少期に言葉としてそれを知っていて、匂いという感覚と不可分な程に固く結びついている。これは、接地という以上に強い言葉で説明されるべきのように思う。特に、思い浮かばないけれど……。
迷子。私には文才がない。私の才能の欠如をどのように補うべきか、補うことができるかなどを考えているうちに、私は論理へと移り、論理から非論理へと移り、非論理から金木犀へと辿り着いた。
こうした思考の移ろいそのものは自由で、この自由な動きの中にはやはり非論理性があり、この非論理性は私にとっては必然であり運命であり、実は奥底でなにかで結びついているであろう私だけの論理でもあるのだ。
この私が個人的に持つ論理性や繋がりを外に現したときに、他人にとってもある程度の説得力を持つと、それはその時はじめて意味のある物語になる。物語が意味を持つには、共感に似たなにかがそこで生じる必要がある。心に動きがなければならない。物語が本来持つ文法にある程度は則った形で書けば、それなりに心を動かすものが出来うるのだと思う。それは、私の物語ではなく、一般的に存在するありふれた物語であり、また、それは読者のための物語ですらない。書くからには典型を脱しなければならない。なのに、典型から離れすぎると他人には読めない物語になってしまう。私的文法(詩的文法?)を小説では扱えないのだ。
ますます迷子。子というのにふさわしい年齢からは遠く離れて、気がつけばもうすぐ不惑。相変わらず惑い迷いうつろう私は、今日も明日も書き続ける。私の文章も、私の言葉も、まだまだ拙い。きっとこれからも拙い。特別優れた文を書く力もないし、人と自分を分けるような特別な人生経験もない。ただ、やってみるだけ。ひたすら私に能うことを、淡々と、息でもするように、歩くように、笑うように、私は続ける。
今日もまた、私には文才がない。
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