生のあらゆる対称性と非対称性

兄の夢を見た。兄は私にとって明確な不快の対象であり、その兄が、凶器をもって私のものとを訪れる夢だった。

昔住んでいた団地の階段の下、一階に兄がいた。私は階段をおりる。階段は不思議な形をしていて、階と階との間は柵のように高い段に隔てられていて、おりてから最後にそれを乗り越えなければいけない形状になっていた。それは私を団地の中に閉じ込めているようでもあり、あるいは、私を守っているようでもあった。

私は仕方なくそれを乗り越えて、一階ずつゆっくりと下った。私は兄が私を殺そうとしていると思った。なぜそう思ったのかはわからないが、凶器を持っていることは確信していた。なのに、私は下りていった。なにかを期待していた。それは、奪うこと、あるいは奪われることだった。二階まで下りてから、階段からではなく、一階の入り口の真上から下を覗き込んだ。そこなら安全だと思ったのだろう。すぐ下に兄の姿を認め、なぜか、私はその丸い頭をぱちんと叩いた。軽快な音が鳴った。

挑発かなにかだったのだろうか、あるいは単に下りてきたことを兄に伝えるためだったのだろうか。兄はそれにまるで反応しなかった。どうやら私から一階まで行くしか他にないと諦め、さらに階段を下りていった。

兄は包丁を隠し持っていた。隠そうとしているのか、隠す気がないのかわからないくらいに、手に巻いた白いタオルの下に鋭い刃が隠されているのは明白だった。くだらない、馬鹿げている。兄には昔からそうした滑稽なところがある。自分の行為が外からどのように見えているのか、そうした想像力に欠けていて、欠けているからこそ、時には道化を演じることもできるらしい。学校ではそれなりに人気もあったが、やがていじめられることになる。

私はまだ兄に殺されるわけにはいかなかった。死にたくない。兄に殺されるというのでは、余計に腹立たしい。だが、この瞬間に私か兄かが死なねばならないような気がした。となれば当然私は、私ではなく兄が死ぬことを願った。それは必然だ。私は私の死か兄の死のいずれかを選ばなければならなかった。それを兄が理解したのだろう、これは私の夢の中の話なのだから、兄が理解するのも不自然なことではない、兄は不気味な声をあげながら白いタオルを振りかぶると、自らの胸へと突き立てた。私の意思を尊重した。夢はすべて私の願いを叶えるためにあるのだろうか、わからない。刃が胸に刺さる瞬間、腹を殴るような鈍い音がなった。タオルは瞬く間に血を吸って赤く染まっていく。あたりはたちまち雪景色になる。雪景色のなかで、兄は白にとけていって見えなくなる。血の鮮やかな赤だけが、白い景色のなかで激烈な色彩を放っている。私は思った。ああ、良かった。これで良かった、私はまだ死ななくて済むのだ、と。


奇妙な夢のせいで、えも言われぬ違和感だけが朝から胸の底に沈んでいる。カーテンを開けてみると、案の定、冬の曇り空が広がっていた。

不思議なことに悪天候は驚くほど私の感情を悪い方向へと誘導してしまう。太陽がないだけで、私はすぐに不安になる。日の光こそが希望で、夜に生きられるのは、必ず朝が来ることを知っているからで、曇りの日に気が沈むのは、それはその日の晴れを約束するものではないからだろうか、などと思う。私は、私の心の根底にある不安の正体をまだ明確に見定められていない。それがなにか知ったときにはきっと、消えてなくなる類のものなのだろうと、そんな気がしている。

人生に快や不快、幸不幸、喜びや悲しみはつきものだ。とりわけ幸不幸や喜びと悲しみにはある程度の対称性があると思う。喜びの喪失は悲しみである可能性が高く、幸福を喪失することはそれだけで不幸でありうる。ただ、快と不快、楽と苦にはあまり対称性がない。そもそもそれらを対義語の関係置いて対称性の有無を問うこと自体が誤った問題設定なのかもしれないが、快や楽の喪失そのものが不幸や悲しみかといえば、それはまた違うようにも思える。不幸や悲しみは快楽よりも、愛や、もっと日常的で平坦なものに対して置かれるべきだ。日常と日常の破壊・喪失、あるいは現実と現実の破壊・喪失、とでも言い換えることもできる。

ものごとを二項対立で考えると、実際にそれらはとても整理しやすくなるが、本当にぴたりと対称性を持つものなどほとんどないだろう。だが、幸福や喜びとその喪失による悲しみや不幸は、それなりの対称性がある。背景には人間が必ず持ち合わせている二つの要素、生と死があるのだろう(そのくせ生と死は非対称だが)。このどうしたって理不尽で避けがたい、生に確実に伴う死というものが、私たちからあらゆるものを奪う。そうして奪うことによって、私たちの思考を、二項対立へと歪めていってしまう。そんな単純に二つに選り分けられるならば、生は足し算と引き算だけで完結するわけだから、必ずゼロになるそれは、誰にとっても公平で平等で、それはそれで喜ばしいのかもしれない。が、そんなふうにはできていないからややこしい。


私は兄を失うことによって悲しみを得なかった。これは、対称性から考えると一つのことの証明になるように思う。私は兄に対して愛情を抱いていない。また、不快の対象として彼への嫌悪を抱いているが、非対称ゆえに、私は彼が消えることに対して快楽を覚えることもない。どうせ死ぬはずだった誰かが、今死んだという、それだけのことだった。まあ、夢の話だけれど。

現代は快楽に溢れている。対称性から見れば、これは人間にとって当然のことなのだろうと思う。快楽を失ったところで、私たちは不幸にもならなければ、悲しみに襲われたりもしない。本質的に空虚であったことは明らかになるかもしれないが、それはあらかじめ失われていたことが、快楽の覆いを取られてその中身が空であることが明らかになるというだけのことであって、実質的にはなにも失わない。たとえば大切な人を亡くしたり、大切にしていたものや風景が失われるのと、同じではない。厄介なのは、快楽や幸福・喜びが綺麗に線引きできるものではなく、幸福の中には快楽が含まれていたりもするし、逆に快楽の中に喜びなんかが隠されていることだってある。それはどこかで明確に線を引けるものではないからこそ、同種のものだと混同しやすいのだろうとも思う。そうした混同によって、人は一時凌ぎ的に快楽に溺れることを望んだりもする。幸福や喜びも短命だが、快楽はより刹那的だ。長短の差こそあれ、どちらがより良いかを決めるようなものではないのかもしれないが、あえて選ぶらならば、私は幸福や喜びを快楽に対して優越するものとしたい。私にとって一番大切なものはそれらとは別のところにあり、それこそが、私の生の中心だからだ。

それは、今まで述べてきたものとはまるで異質の価値を持つ。それは、意味だ。意味とはなにか、をここで問うことはしないが、人間にとっての意味は意志のとても近いところにあり、それはどこか、人間というものの強さを象徴するようでもある。だからこそ、私は意味が好きなのだろうと思う。

カミュが『ペスト』で描いた人間性に対する誠実さも、意味、あるいは意志によるものだと考えることもできる。それは神に頼るわけでもない、敗北したといって無抵抗を決め込むわけでもない、かといって誰かが誰かを救うような大きな力を持つわけでもない、悲しみや不幸が波のように押し寄せてくる中で人はなにを選びとることができるのか、選び取らなければならないのか、そうしたことを問うている。深い部分にあるのは意味だ、そして意志だ。実質的な無意味に対して、リウーやタルーは意志をもって意味を与えたのだろうと思う。世界は、自然は、人間の性質は、ことごとく私たちから喜びや幸福を奪い去っていく。その理不尽をつねに冷たい目で見つめながらも絶望することなく、悲観主義に陥ることもなく、誠実に向かって意味へと向かおうとすることの意志こそが、私が最も価値を置くものだろうと思う。でなければ生を肯定することは難しいし、私は生の肯定を拒むことはできない。拒みたくない。意味、そして意志こそが、人間に向けられる自然の刃に抵抗するための唯一の武器となるものだ。生に約束された死という不条理を克服することは、今のところどうしたってできない。つまり、あらかじめ悲しみや不幸は約束されていることになる。だが、その悲しみや不幸の中には、意志によって暴かれるべき意味が隠されている。消えてしまった、なくしてしまったから無意味なのだとしたら、どうせ人間の生きていることなどはじめからすべて無意味なのだから、それを反転することでしか、人間は喜びや幸福を受け入れることはできないはずなのだから。


あるいは、別の言葉で言い換えるならば、それは愛ということになるのかもしれない。いつか訪れるはずの喪失や、訪れてしまった喪失に対して、悲しみとともに温かな感情をも喚起するものは、愛と呼ばずして他にどう呼べばいいのか。

無意味だけど、無意味ではなかった。なにも残らないけれど、なにも残らないわけではなかった。そう思うこと、思えること、思いたいという意志を持つこと、意味があったと信じること。それを自分以外の誰かや超越的な何かに依存することなく、自分自身の思いによって実現すること。私は自然やこの世界の仕組み、不条理に抗いたいのだろう。愛や意味や意志によって。それこそが人間の根底にある戦いなのだと思うから、人が本当に向き合うべき問題なのだと思うから。


誰かを愛すること、愛したこと、失った悲しみのなかにすら、その愛を見つけ出すこと、意味を信じる意志を持つこと。そうしたことを、私は小説に学んだ。小説に学んだからこそ、私には決定的になにかが欠けているように思う。私の意志は現実味を欠いていて、単なる夢物語なのではないかと思う。その夢物語を、夢物語として終わらせたくはない。意味のある生、意味のある物語に変えたい。それが、世界の理不尽、自然の不条理に対して今の私のできる、精一杯の抵抗なのだろう。そしてなにより、書くことがその抵抗の中心を成しているのだろう。

負けてたまるか、負けてたまるか、負けてたまるか。敗北があらかじめ定められたこの戦いに勝利する術などないとしても、それでも、今日も私は、反抗の証としての文章を書き続けている。

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