小説を書くにあたっての覚え書き

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漠然とした不安、自殺

私が小説を書く理由はなんだっただろうかと、近頃よくそんな考えが頭に浮かぶ。答えを探すために書いているような気がする。あるいは、書くことそのものが生の目的だと思い込もうとするために書いている、というような気もする。

実際のところ、私がなぜ小説を書いているのか、私にもよくわからない。わからなくてもいいとも思う。


今、私の中には漠然とした不安がある。

この不安にという言葉以外の名を冠することは難しいくらいに曖昧模糊としてとらえようがない。


ふと、頭に浮かぶボードレールの詩。異人さん。三好達治訳。



私を私と決定し得る要素は数多あって、その一つひとつを数え上げてまとめてみても私になるものではない。

要素は要素に過ぎず、部分は全体に優越するものではないとも思う。


例えば肉体的性や性的指向、社会的性などは手っ取り早く自分の属性をよくあらわしてくれるけれども、それによって私が定義されることは決してない。


社会的帰属も同じ。生まれ、国、会社や趣味などのコミュニティ。それらは部分的に私のことを語る。でも、それは分割しうる私であって、インディヴィジュアル(分割し得ないもの)としての私とはまた別物だ。



私の不安はおそらく、この私というものの曖昧さや不明瞭さから生まれるものなのだと思う。


その根源は、母の自殺未遂に端を発する。あるいは、思春期の私の複雑な周辺環境が一点に集約された出来事が、母の自殺未遂だったのかもしれない。その重たい桎梏を、今の今までだらだらと引き摺りながら生きている。我ながら愚かだとも思うけれど、自らの愚かさを省みるとなぜか、悔いや苦しみ以上に、笑いがこぼれる。これこそが私の強さなのかもしれない。


母の自殺未遂がいつごろだったのか、あまりはっきりとは覚えていない。時期を思い出せないのに、その日のことはよく覚えている。

当時、長男は高校生だったと思う。私はおそらく小学生で、もう一人の兄が中学生。

母子家庭で、外で働いている母が家で過ごす時間は短かった。仕事で働きに出ているというのに加え、どうやら大人の事情というものが他にもいくらかあったらしい。団地で母と子三人の、四人で暮らしていた。といっても、長男はバイトばかりで家を空けることが多く、次男は典型的な非行少年で、どこで油を売っていたのかはよく知らないが、少なくとも学校には行っていなかった。

その日は母の休日だったのだろう。偶然、長男も家にいたらしい。

団地のすぐ隣が小学校だった。当時は週に三日か四日、多ければ五日はサッカーの習い事があり、ない日も同じクラブの友人と遊ぶことが多かった。その日も例に漏れず、小学校で友人とボールを蹴っていた。

友人が私を呼んだ。お兄ちゃんが来てるよ、と。高校生の兄と話すことなどほとんどなかった。会うことが稀だったため、兄と話すとなると、私は少し緊張した。

団地と学校の間に細い道が一本あり、フェンスで隔てられている。裏門から回るにも、正門から入るにも遠回りせねばならず、いつもそのフェンスを乗り越えていた。

そのフェンスにもたれかかる兄に、なに、と尋ねた。すぐに家に帰れ、と言われた。有無を言わせぬような強い口調にわずかに反抗を感じながらも、私は素直に頷いた。

帰ると、母の恋人が家にいた。だが、母はいない。私にはまるで事情がわからない。彼は携帯電話を片手に、繰り返し電話をかけていた。その緊張した面持ちと、兄の恐ろしい顔とに、ただならぬことが起こっていることはなんとなく理解できた。

兄が一枚の手紙を私に渡した。薄い紙に引かれた罫線は綺麗に整っているのに、そこに載せられた文字の頼りなく不安定な線がなにを意味しているのか、読んでみてもよくわからなかった。小学生である自分に兄はなにを期待していたのだろうか。思い出してみても、状況を理解するのも打開するのも、とうてい私には難しいように思う。

手紙が意味しているのは、どうやら母が自殺するという旨の内容だったらしい。私にもそれくらいはわかっただろう。だが、後から断片を整理してみて理解できたことであったが、その理由の一端が私にあったことが、私を後々ひどく苦しめた。

母の恋人の電話の先は、当然ながら母だった。母がようやく出た。だが、まともに話せないらしいことがわかった。母の恋人が彼女の居場所を聞き出した。さっそく彼と兄とが向かう。その際、私は携帯電話を渡された。絶対に切っちゃダメだから、必ず繋いどいてくれ、と言われて。

電話を受け取った。唸るような声が聞こえる。嗚咽だった。どうやらなにも言葉を話せないらしかった。私も私で、なにを言えばいいのかわからない。ただ、お母さん、お母さん、と繰り返していた。死ぬな、という言葉や、生きてほしい、という類の言葉は出ないらしかった。何度も、何度も、お母さん、と壊れたおもちゃのように繰り返すも、向こうから聞こえるのは相変わらず嗚咽だけだった。私は怖かった。母を失うこと。そしてそれ以上に、母が死ぬことによってそれからどうやって生活していけばいいのかわからない、ということが。喪失の可能性よりも、自らの生活を案じていたのだ。

お母さん、お母さん、と繰り返す私の言葉も虚しく、嗚咽は徐々に遠ざかった。そして、電話は切れた。私は終わったのだと思った。どうやって生きていくのだろうかと考えた。母が死に、兄は高校生で、放課後にアルバイトをしている。次男は家にまともに寄り付かない。一人だ。私一人で、どうやって生きていくのだ。そのことばかりが頭を巡って、母の死が二の次だったというより、よぎることすらなかったのだと思う。

私はすでに歪んでいた。身近な人の死を悲しむよりも先に自分の身を案じるなどという愚かさは、単なる動物的な生存本能ではなく、より自分の性質に由来するようなさもしさから生まれるものなのだ。この自戒ともいえる考えが長く私を苦しめることになるのだが、思い返してみればなんてことはない、いずれにしても小学生の子供が負うような責任ではなかったという、ただそれだけのことだ。だが、私がその責任から逃れることができたのは、十数年後だった。

私は切れてしまった携帯電話をどうしたかは覚えていない。自室の押し入れに籠城し、外からの情報をできる限り遮断した。私が私を守る手段を知らなかった。そうしてなにも入り込めない空間を作り出すことでしか、安らぎが得られないと思った。それも、ほんの気休め程度の。たとえばその時、私が本、読書というものを知っていたのであれば、少し違った未来が待っていたかもしれない。あるいは、サッカーにもっと上手に逃げ込めれば、別の未来が待っていたかもしれない。私が逃げ込んだのは、小さな子供部屋の、汚い押し入れの中だった。


しばらくして、母とその恋人、そして兄が家に帰ったことがわかった。私は電話を切ってしまったことの罪悪感と恐怖で、押し入れに籠ったままだった。兄はそれを咎めることはしなかった。ただ一言、大人たちで話すから入ってくるなよ、と母の自室に三人で入っていった。後から母の両親、私の祖父母が家に来た。大人たちが集い、今後の対応について話し合ったらしい。

子供である私は常に、家族の中でも蚊帳の外であった。大事な話をするにしても、どうにも説明するのに労を要するため、誰もが話すのを嫌った。私は母の死だけを実感として得て、抜け殻でしかない自殺未遂した母を家で迎えることもなく、狭い、暗い押し入れで、朝が来るのを待ち続けていた。



今では当時の記憶と少し距離を取れるようになったと思う。だからこそ、こうして文字に起こすことに抵抗がなくなったのだ。

母の自殺未遂は私の人生に大きな影を落とした。というと実に陳腐でくだらない、ありふれたできごとになる。私にとって重要だったできごとが、言葉にした途端にどうしてこれほどまでに軽くなってしまうのだろうか。不思議だ。


自殺というのは、私にとって面白いテーマだ。

母の一件もあり、私は自殺というものにとても興味がある。当然、私も死にたいと考えたことは一度や二度ではないし、死について考えるたびに自殺という選択肢が必ず第一に思い浮かぶ。だからといって、今すぐ死にたい、という気持ちは毛頭ない。

人がなぜ自殺することが可能なのか、どのようにして死が救いだと思い込み、その幻想に魅了され、やがてそれを実行に移すのか。あるいは、失敗するのか。


自殺に関する有名な著作はいくつかあると思う。ショーペンハウエルの『自殺について』やデュルケームの『自殺論』がまっさきに頭に浮かぶが、実はどちらも読んだことがない。

私の人生において重要な転換点の一つになった本が、アルベール・カミュの『シーシュポスの神話』だ。この本の主題は生の意味や不条理で、必然的に自殺という問題から目を逸らすことができない。論文というよりはエッセイに近いと思う。十年ほど前だろうか、私は強く感銘を受けた。


人生は本質的に無意味だ。このことが私を安心させる。



今この瞬間に思うところを思うままに書いた。推敲もしていないが、時間をかけた文が良くなるとも限らないから、どうにも書くというは厄介だと思う。


中途半端ではあるが、今日はこのあたりで終わりにしておこう。今もまだ、書く理由の確固たる答えは見つからないけれど。

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