怒り——不正に対する復讐——

学びたいことが多すぎて、どのように過ごせば時間を作れるだろうかと考えてるが、どうやっても一日は二十四時間からは増えない。そのうち八時間は働いている。

私の職場は少し風変わりで、八時間のうち、六時間以上を主業務に当ててはいけないとされているため、残りの時間を小休憩と勉強の時間にする。

そんな贅沢な環境にいながらも、なお時間が足りないと感じる。人間の欲望が際限ないものだとは理解しているつもりでいても、私の知りたいという欲求を止める方法など、そうそう思い浮かびそうにない。

有限性の中で、常に私は選択を迫られる。人生をどう使うか。なにが大切で、なにが価値で、なにが喜びか。なのになぜか、興味もないYoutubeのチャンネルを見て時間を浪費している自分にしばしば驚かされる。そんな時間すらもなにかしらの意味があるのだと、あとから言い訳ばかりして……。


勉強したいことの一つとして、小説の技法や構成などがある。

とりあえず、きちんと学んでみるべきだと考え始めた。散々書いてきておいて今更という感じもしないでもないが、まずはやってみること。文章はたくさん書いてきたけれど、ストーリーを構成したり、バランスの良いレトリックについて深く考えてみたことがなかった。未熟。

と、そんなことを言っているから時間がなくなるのだが、そのときやるべきと思ったことに手をつけないと、時間に置き去りにされていつのまにか消えてしまう。意志というものは消える。定期的にエネルギーを与えてあげないと、雲のように風にふわふわと運ばれてなくなってしまう。


時間は不思議だ。


時間は過ぎていく。

私の過去が、本当に今の私を作っているのだろうか。因果律というものを素直に信じられなくなりつつある。

なんとなくニーチェの永劫回帰なんてものを思い出して、複数の繰り返される私の一つに過ぎないなどと考えてみたくなるものの、その複数性が一致するならば、結局それは唯一のもので、回帰などと言ってみたところで同じではないかと、一周してから同じ場所に戻ってくる。馬鹿らしいけれど、そんな思考に日々時間を費やしていて、やはり時間が足りなくなる。

私の絶対的な一回性に価値を見出すことができるのであれば、私はこの人生だけで十分なのだ。

とか考えてみると、別の言葉がよぎる。


“Einmal ist Keinmal.”


私が私自身に価値を見出してみたところで、私たちの人生はとても軽い。

やってみる、などと悠長なことは言ってられないはずなのに、やってみる、という以外に選択肢などもたない。試してみるしかないのに、人生は一回きりで、そうしてやってみる私の人生には必ず後悔が伴う。そしてそれは、きっと私だけではない。

しいていうならば、私たちにできないが一つだけある。死んでみることだ。私が試しに死んでみたら、そこですべてがおしまい。



私はまた、こうして自殺という話に戻る。


私の好きな映画にドゥニ・ヴィルヌーヴの『静かなる叫び』という作品がある。wikipediaを見ると、


“モントリオール理工科大学で起きた銃乱射事件をモチーフに描いた社会派作品”


とある。

社会派とされるのは、実際の事件を題材にしたことや、映画内でフェミニズムや反フェミニズムが描かれたことによるのだろうが、それ以上に、白黒で作られた画面のなかにあらわれるあらゆる対照があまりに美しくて、物語性もさることながら、映像美に圧倒された。

そして、その美しさは正しいのだろうかと、ぐずぐずと崩れる柔らかい果実のように甘美な余韻を残しながらも、作品そのものの是非を問いかけられてるようなもやもやとした気持ち悪さが胸の中でしばらく疼いた。


銃乱射事件は、拡大自殺という概念にあてはまることが多い。拡大自殺とは、自分を殺す過程で誰かを巻き添えにするような行為であり、日本であれば無理心中などがわかりやすい。また、自爆テロなども、拡大自殺の一つとして数えられることがあるという。

動機の根元にあるのは、一つは絶望であり、もう一つが怒りだ。『拡大自殺 大量殺人・自爆テロ・無理心中』という本の中でセネカの言葉が引用されている。


“怒りとは、不正に対して復讐することへの欲望である”


私にとって、母子家庭における母の死は、子に対する裏切り、半ば子殺しのようなものだった。達成されたか否かは重要な問題ではなく、試みた時点で私の安心できる場所が失われた(あるいは予め失われていたのかもしれないが、当時のことはよく覚えていない)。

裏切りは不正であり、その不正は確実に怒りの種を植え付けた。

なぜ私だけが不幸なのか、なぜ私だけが家族に恵まれないのか、なぜ私にだけ父がおらず、なぜ母は自殺未遂によって私を裏切ったのか。

私は私にとっての正義を探し求めた。正義と呼べるような大層なものがどこかに転がっているものと思い込んで、それに似たものがあればすぐに飛びつき、幻滅した。普遍的かつ絶対的な正しさなどどこにもなさそうなのに、諦念すらも自分の慰めにはならなかった。私はそうして、順調に怒りを育てた。

怒りの矛先が他者に向かえば、それは殺人への強い動機となる。私は母を憎み続けていた。二人の兄も同じように憎んでいた。家族という一つの共同体の中で、当時、私だけが完全に未分化だった。個人、としての私より先に、四人家族、母子家庭の末子という私を失い、はなから脆弱だった居場所が崩れると、ついに私は私一人で私になる必要が生じた。

私はおそらく、不正に対する復讐への欲望を、つまり、怒りを核にして自分を築こうとした。私の正しさを求める動機は、正義感から生じたナイーブな感情ではなく、怒り、そして他者への攻撃性そのものだったのだろう。

私はずっと、母に対する復讐を望んでいた。母を殺すことで、不正が正されるものと信じていた。同時に、私は私自身を殺すことをも考えた。私の怒りの矛先は気分次第であらゆるベクトルを持ち、自他共に傷つけていった。ひどい青春時代だったように思う。

殺すまでもなく簡単なことだった。自殺し損なった母を完全に自分から切り離した途端、怒りという桎梏はあっさり外れた。そして気が付く。今まで私を縛り付けていた母の裏切り、その不正に対する怒りは、まさしく私にとっての生きる意味だったということに。人生最大のアイロニーだった。なにも、そうした形で私が私自身の無意味というのを自覚しなくてもよかっただろうに、それが最もわかりやすく、生じやすい道だったのだろうと思う。

私にはなにも残らず、なにも残らなかったという意味において、母の不在の鎖に縛られ続けるのだと知った。



ここで再び、『静かなる叫び』に戻る。

怒りと同時に絶望が生じると、死への欲望とあいまって、拡大自殺へと発展する。

『静かなる叫び』に登場する銃撃犯は、彼の正義を反フェミニズムに据えた。彼が大学や社会で冷遇されるのは、女性の台頭によるものだ、と。説得力や論理的整合性の有無とは関係なく、怒りと絶望だけで引き金を固く握るのには十分だったのだろう。彼は女性ばかりを狙って、次々と学生を殺していった。そして最後に、自分自身を打って自殺する。

このシーンが、私の目にはあまりに強烈に映じた。倒れた彼の体から流れる血が、ゆっくりと床を広がっていく。隣には女子学生の遺体がある。彼女の体からもまた血が溢れ、床を埋めていく。やがて広がった二つの血が混じり合って、その境界が失われてしまう。

それは私を動揺させた。憎しみと無理解と無関係に引き起こされた暴力の結末を、美しく、しかも暴力を用いた悪と、それによって害を被った無垢とが、まるで同じものとして描かれてしまう。本当にそれでいいのか、私にはわからなかった。


“地獄とは他人のことだ”と書いたのは、サルトルだそうだ。実存と対立するのは常に他者で、重なり合わないそれらは、摩擦と衝突を繰り返し続けるしかない。一時の一致を見たとしても、無常の中で過ぎ去っていき、その感動も長くは続かない。すべてが遠ざかって、薄まって、光を失って、消えていく。宇宙の終わりに似ていた。



こうして私の思考は自由に横滑りしていく。この心地よい横滑りは、単に次の小説を書くための覚え書きに過ぎない。

ふわふわと漂っている着想を言葉に固めて磔にしてしまうことで、新しい着想が生まれる余地を頭のなかにあらたに作る。繰り返しのなかで、私にとって価値のあるもの、意味のあるものが、少しずつ生まれる。それを一つに繋ぎ合わせて、大きな物語になってくれることを願う。

なによりも書くことだ。書き続けることだ。量をたくさん書くことだ。書いたものを読み返して、繰り返して、思考して、経験して、という過程の中で、私は私を再構成していく。


そして、最後の最期に。

私はいったい何者になるのだろうか?

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