他人という地獄のなかで

気になる人物がいる。

名を、ルー・アンドレアス・ザロメという。



Wikipediaによると1861年2月12日にサンクトペテルブルクで生まれ、亡くなったのが1937年2月5日。

当時としては十分に天寿をまっとうしたといって差し支えない程度には生きた。その八十年弱の人生で、ある二人の著名な人物から求婚され、しかも、断っている。


その一人が『ツァラトゥストラはかく語りき』や『善悪の彼岸』などの著作で知られる文献学者、フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェだ。

ニーチェがザロメと出会ったのは1882年の春、マルヴィーダ・フォン・マイゼンブークとパウル・レーを通じてのこと。年齢を計算してみると、ニーチェは37歳、ザロメは21歳となる。

後にニーチェはルー・ザロメに求婚し、断られている。彼は、ルー・ザロメのなかに何を見たのだろうか。

"ニーチェにとってザロメは対等なパートナーというよりは、自分の思想を語り聞かせ、理解しあえるかもしれない聡明な生徒であった。"とあるように、年齢差を考えてみても、当初は仲間を見つけたという、ニーチェにとっての希望だったのかもしれない。


また、別の一人が小説『マルテの手記』や詩『オルフォイスへのソネット』で知られる作家ライナー・マリア・リルケだ。

リルケは1875年の生まれで、ザロメより十歳以上若いことがわかる。

二人が出会ったのは1897年のこと。つまり、リルケはまだ22歳で、一方のルー・ザロメは36歳、ニーチェの時とはまた年齢が逆転している。

ここで疑問が浮かぶ。ルー・ザロメは1887年にイラン学者のフリードリッヒ・カール・アンドレアスと結婚している。ということは、リルケは既婚者であるルー・ザロメに求婚したということなのだろうか。


リルケがザロメに求婚した、というのは事実ではないかもしれない。加えて、ニーチェの話もにわかにきな臭くなってきた。


以下のような論文を見つけた。



"フリードリヒ・ニーチェとルー・フォン・ザロメとの間に起こった一連の有名な事件は、ニーチェが『ツァラトゥストラ』を執筆する直前の時期に起こっており、この事件を単なる恋愛スキャンダルと見なしているかぎり、『ツァラトゥストラ』の思想を的確に理解することはできない。本論文は、この事件を伝える原資料を根本的に再検討することを通じて、この事件に関する一般的理解を覆し、次の結論を導き出す。1.ニーチェがルーに求婚したという事実は存在しない。2.ニーチェとの交際に関するルーの証言は、全般的に信憑性が低い。3.ニーチェはルーに永遠回帰思想の相続者であることを期待した。4.ニーチェとルーが決裂した原因は、ルーがニーチェに対して永遠回帰思想を嘲笑する意味の発言をしたことにある可能性が大きい。5.ニーチェが求婚したとルーが強固に主張するのは、自分の思想的力量よりも女性的魅力の方が価値が高いと見なす彼女の価値観の表われである。最後に、以上の結論に基づいて、ルー事件が『ツァラトゥストラ』の超人思想を生み出す重要な前提条件となったという見通しを提示する。"


『ルー・フォン・ザロメ事件の真相究明の試み』仲原 孝



求婚に関する原典がどこにあるのか、それによって事実か否かの信ぴょう性が大きくゆらぐことになると思う。ニーチェが語ったならばともかく、ルー・ザロメ自身が吹聴していたのだとすれば、脚色があってもおかしくない。それは、リルケの求婚についても同じことがいえる。

だが、それとは無関係に、ルー・アンドレアス・ザロメという女性がこの二人を魅了したことは間違いないであろう。

ニーチェはザロメとの一件直後に『ツァラトゥストラ』に着手しており、リルケはザロメに宛てて『フィレンツェ日記』を執筆している。加えて、共に周ったロシア旅行は『神さまの話』などに強く反映されているという。

彼女のどこにそんな魅力があったのかはわからないが、影響力そのものは疑いようもない。




私が二十代の半ば頃のことだった。

社会を憎んでいたのか、恐れていたのかはわからない。できるだけ人と関わることのない仕事を、と思って選んだのが倉庫での本のピッキングだった。時給の安いフリーターでも、一人暮らしで貯金できるくらいに稼げた。というのも、私は、お金の使い方というのをよく知らない。本を読み、週に一度フットサルをして、食い、眠り、必要な服や日用品を買った。家賃も四万程度で、光熱費だって一人なら大したことはない。月十数万の手取りで満足していた。

一年ほど経って仕事にも慣れ、不思議と人にも慣れた。家にこもって本ばかり読んでいるより、人と外で酒を飲む方が楽しいと思うような時期が訪れた。

彼女は私と同い年で、それを知ったのは職場の人との飲み会でのことだった。

十数人集まった飲み会は、普段職場であまり言葉を交わさないのに、予想に反して大いに賑わっていた。宴もたけなわ、盛り上がりの熱そのままに一次会を終え、二次会に残ったのは六、七人。適当に、近くの飲み屋に入った。今まで一度も話したことのなかった彼女が、私の隣に座った。数ヶ月間はすでに共に働いていて、すれ違ったこともあったが、人数の多い職場ではそれも珍しいことではなかった。

「Sさんは絵を描くんだって」

そう言ったのは誰だったか、今では覚えていない。私はそれを聞いて、彼女に興味を持った。漫画やアニメが好きで、ついでのように美術も好きだった。

「へえ、どんな絵を描くんですか。イラスト?」

「イラストっていうか……」

彼女は口ごもった。詳しく聞くと、彼女は日本画科を卒業していて、主に岩絵具で描いているという。彼女への興味は一層と強くなり、夢中になって絵や哲学、宗教の話を始めた。私も彼女も当時は気づかなかったが、二人は完全に飲み会の席で孤立していて、誰も入り込めない雰囲気になっていたと、後から周囲の人に聞いた。

私はその日、はじめて自分の近くに感じられる人と出会った。それは、私にとっては奇跡だった。


夢中になって話した夜はあっという間に終わり、それでも話し足りなくて、二次会の後に二人でファミレスに向かった。酔いが覚め、次第に翌日、正確には当日の仕事のことを考え、さすがにそろそろ帰らなければならないといって、次に仕事で会う日を互いに確認してから帰った。

距離が縮まるのに時間はかからなかった。仕事の後に二人で図書館に立ち寄ったり、ファミレスでご飯を食べてドリンクバーだけで長居したりと、それまでの私の滞っていた時間がその数週間に濃縮還元されたかのような密度で過ぎ去った。


学生時代、私はフッサールの現象学に夢中になっていた。

彼女がファミレスで話してくれたのは、李禹煥リウーファンという芸術家のことだった。グラスが二つ置かれたテーブルを挟んで、やや身を乗り出し気味に、身振り手振りで説明してくれた。抽象的な言葉が多く、本来であれば意図や意味がとらえられずに互いにもどかしさを感じていたかもしれない。

だが、彼女の説明はなぜか私に通じた。

「それってなんか、現象学に似てるかも」

「現象学?」

私は現象学のことを説明した。フッサールのこと、ノエシスノエマなどの用語を用いず、丁寧に、自分の言葉で話した。私の稚拙な説明もまた、なぜか彼女に通じたらしかった。


やはり、いくら話しても話題が尽きることはなかった。

また職場で会えるのだ。話が尽きるまで、何度だって会って、ご飯を食べて、話せばいい、それだけだった。

私は家に帰ってからすぐに李禹煥リウーファンについて調べ、そこで驚くべき発見があった。彼は学生時代に哲学を学んでおり、その中心が現象学だったというのだ。

この単なる偶然の一致に私は不思議な高揚感を覚えた。私と無関係に生きてきた彼女が、私とはまるで違うところで生き、まるで別の視点から、同じものを見ていたのだという気がした。


もちろん私はその驚きと喜びをすぐに彼女に伝えた。

「瀬戸内トリエンナーレって知ってる?」

「なにそれ?」

彼女の反応は意外なものだった。

直島や豊島など、瀬戸内海の島々の美術館や野外などで展示を行っている、三年に一度の芸術祭だ。彼女は唐突に、「一緒に行こう」と言い出した。

「一緒にって、それって泊まりになると思うけど」

私はすでに彼女に好意を抱いていた。何度か二人で食事をしただけで、一度だって恋愛の話も、互いにフリーかどうかなんて話もしていなかった。泊まりと聞けば私はたちまち意識せざるを得なかったのだが、彼女にとってはそれは二の次らしかった。

李禹煥リウーファンの美術館があるの。一緒に観に行こうよ!」

ようやくここで、二人の奇妙な一致を喜んでいるのだと知った。誰かと通じ合えたと感じた、はじめての経験だった。


私たちは付き合うことになり、そして別れた。

恋人ができたのははじめてではなかったし、無論、最後の恋人でもない。ただ、今でも彼女には特別な思いを抱き続けている。恋愛ではない。この感情をうまく表す言葉を私は持たない。彼女は私の人生を変えた。



私は、私の望むことを生きるようになった。

他人、とりわけ母という存在を強く意識し、望まれたを必死になって演じながら生きてきた。なぜなら、母が私のもとを去れば、私はとうてい生きてはいけなかったからだ。

幼少期に植え付けられた恐怖心と不安は長きにわたって私を縛り付けてきた。私が母という重荷を切り捨てるための転換点として、彼女との出会いがあったのかもしれないと、振り返ってみて思う。


彼女は自由だった。純粋に絵を描き、もがき、苦しんでいた。その姿をみて、彼女は彼女自身を生きているのだと思った。


まるで別の場所から、私と同じものを見て生きてきた彼女は、私よりもずっと前を歩いていた。

今、どうしているか知らない。少し近づけていたら嬉しい。

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