終着点にて
死ぬまさにその瞬間に、人はなにを思うのだろうか。死ぬまさにその瞬間まで、人はなにかしら思考しているものなのだろうか。
私は、私の生について考えている。私は、私以外の人の生について考えている。
そうした考えは絶え間なく脳内の会話を作り出し、自身に問い、問われ、そのたびに暫定的な回答をして、それがなにも答えになっていないと知りつつも、生活を続けるために今日を明日へと投げ飛ばして、なんとか日々をつなぐ。
昨日は今日につながり、今日は明日につながるものの、それが永遠に続くわけではないことも知っている。
私の中にある不安。私の中にある正しさ。私の中にある美しさ。私の中にある苦しみ、喜び。
そうしたものの一つひとつに向かい合って生きたい、と思って生きてきたはずなのに、なぜかその線からは外れて、生の意味や価値とは無関係に時間を蕩尽してしまっていた。
有限性を知っているはずなのに。限られたなかでできることもまた、限られていると知っているのに、なにが大切かも知っているはずなのに。
なぜ。
私は私を見つめるだけの能力が、言葉が、思考力が、体力がない。
私は日々の生活を送るのに精一杯で、本当に私にとって大切であるはずの詩や小説に費やすべき時間と体力がまるで残っていない。
日常の忙しさにかこつけて、すべきこと、したいことから逃げてばかりいる。
なぜ。
一体、私はなにに自らの能力と時間を費やしているのだろうか。日常とはなんのことだろうか。人間関係。皆無。人との摩擦。ややあり。衝突。皆無。仕事の悩み。皆無。幸福な時間。恵まれた生活。
では、なぜ?
考えてみて気がついたことがある。
どうやら私は、私が思い描く私の像と、他者が思い描く私の像との乖離に、ひどく困惑しているらしい。そして、その差異を埋める気にはなかなかなれないでいる。
私とつながる関係性のノードが少なすぎる。そのノードを通して私を解釈され、そうして弱い接続によって最終的に描かれる私の像は、極端なほど抽象的で、私が思う私とは大きく乖離する。当然のことだ。だが、乖離を修正するには、そもそものシステム自体を変革しなければならない。ノードの修正、接続の増加、さらには情報の更新、再書き込み。
これは骨が折れる。打算する。労力に見合うだけの利益が得られるかどうか、と。
ついでに、フリーライドする多くの人間に対し嫌悪を感じる。それを不正と感じる。私が私の自画像と他者の見る像との差異を小さくしようと試みるということは、人間関係の枠組みを大きく変革することであり、同時に、他者のなかにある齟齬をも結果的に埋めることになってしまう気がしている。ノードが修正されることによって、像のズレが全体的に修正されてしまうのだ。
要するに、自分が作り出したシステムに誰一人としてタダノリをさせたくないという、いかにもさもしい根性が背後にあるということ。
なんてつまらない人間。なんてケチくさい人間。
もし変える力があるなら変えればいいのに。変えたあとの余剰分など、人にくれてやればいいのに。
こんな、腐った人間の行き着く果てはどこだ。
私は、私以外の人間に対しての誠実さは持ち合わせていない。だが、私は、私自身に対しては誠実でありたいと思い続けてきた。なのに、その自分が揺らぎつつある。他者というのはそれだけ大きい。
人は他者なしでは生きられないのか。人からどう見られて、どう評価されて、認められて、好かれて、大切にされて……私は、そうした地獄からはどうやっても逃れることができないのか。
『月と六ペンス』の主人公であるストリックランドはまさしく、他者をまるで気にしない人物として描かれていた。だが、そのストリックランドは結局、自分を気にかけてくれる、それでいて放っておいてくれる、そうした人物たちに出会うことで、ようやく最期に求めていたものを得た。
他者など気にしない、必要としないと豪語していた人物であるはずなのに、結局は人間関係に帰ってしまっている。やはり、人はひとりでは生きられないものなのだろうか。
私は、私以外の人間に対する不誠実によって、いつか弾劾されるかもしれない。私は私の罪を、他者に対して無関心を装う罪を、弾劾されるかもしれない。
違う。関心がないのではない。
私は怖い。
自分がつまらない人間であることが。取るに足りない人間であることが。そうであることが人に知られてしまうことが。
そうだ。真実は異なっていた。
私は私の自画像と、他者の見る私との差異に困惑しているのではない。本当に恐れているのは、私が自画像といえるほどのものを、まだなにひとつとして持ち合わせていないという、そのことなのだ。そして、私が死ぬまでにその絵を完成させることもないという、そういう予感を、今からすでに持ってしまっていることなのだ。
私はなにものでもない。
私は価値をもたない人間だった。
無意味なのではない。むしろ害悪だ。
世界に間違って生まれ落ちた奇形の最果てに待つ死は、どんなものなのだろう。
安らかさもなければ、穏やかさもない、金属のように冷たくて、井戸の底のように暗い、そんな死に向かってゆっくりと沈んでいく、私は今まさにその過程にいる。
私ひとりいなくなれば、世界はほんの少しだけ完全な円に近づく。こうした奇形児が、ここにはきっと、数えきれないほど産み落とされている。彼らもいずれ、削ぎ落とされる。
私がここにいてはいけない存在なのだと感じさせるものはなんなのだ。この異物感はなんだ。形に合わない場所にむりやりに詰め込まれたみたいな居た堪れなさ、alienatedだ。私は私でないなにかを譲り渡して、外に追い放り出されている。そして思うのだ。私以外にも、こうして外に放り出された奇形児が、世の中にはごまんといるのだ、と。なのに、奇形児たちは互いを理解できずに嫌悪しあうことしかできないのではないか。
無数の奇形が、数え切れぬほどの奇形こそが、この世界にゆたかな歪みを生み出している。歪みがまた、あたらしい奇形児を作り、その連鎖こそが人類の歴史のようにも思えてくる。
ゆで卵みたいにつるんとした世界において、誰が悲劇を語るのだろうか、誰がカタルシスを与えるのだろうか。そうしたつるんとした人々に束の間の悲喜劇を演出して見せるのが、道化たる奇形児たちの役割なのだろう。としたらば、この世界はあまりに残酷すぎるだろう。
私は私の誠実を貫き通すべきだ。
私は、私の奇形をそのまま人々にさらし、忌避されようとも、私の自画像を受け入れるべきなのだ。
そうか、と思う。ここでようやく、モームの書いたものの意味を悟る。
『月と六ペンス』のストリックランドは最期にハンセン病になり、からだがぼろぼろになっていく。
病気になる前から、鏡を見ることはなかった。やがて病状の悪化により、失明する。崩れていく自分の姿を見ることもできなければ、自分が描いている絵を見ることもできない。それでも死に至るまで絵を描き続けた。
そうして彼が最期に見たのは、本当に彼が描きたかったもの、理想の自画像だったのではないか。あるいは、理想郷にいる自分の姿だったのではないか。
少なくとも、モームはそれを望んで描いたのだろう。ゴーギャンをモデルにしつつも、おそらくゴーギャンが望み、得られなかったであろう、原始的、野生的な幸福を、生命の喜びを、モームはストリックランドという主人公に託したかったのだ。
そして私は。
私はストリックランドでもなければ、モームでもゴーギャンでもない、ただの小さなひとりの人間だった。そんな私が望むもの、到達したいと願う場所は、いったいどこにあるのか。私が今いる場所から地続きになっているのか。歩み続ければやがていたるものなのか。
『月と六ペンス』にあるように、永遠の巡礼者として放浪し、ストリックランドではない私は、どうせどこかの路端で息絶えるしかない。
石ころのように捨て置かれ、足蹴にされ、忘れ去られるだけの人間。私はそんな最期を、毎日のように想像している。
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