埋めようにも埋まらない穴だらけの私は愛しい

私は欠けている。私だけではなく、あらゆるものは完璧からは程遠い。欠落こそがその人や物の差異を作り、差異が意味であるならば、私たちは欠落によって意味づけられているといっても過言ではない。今朝、抜歯した。

親知らずの名の由来は、生えてくるころには親の世話になっていない、や、生えてくることにもう親が死んでいる、などの説があるという。実際、私が親知らずを抜いたことなど、親が知る由もなく親はいずれ死ぬのだろうと思う。名の由来がいずれにしても、やはり親知らずであることには違いなさそうだ。

作業は実に簡単だった。口の中で具体的にどのようなことが行われていたのか、私に見ることはできない。まず麻酔を内側と外側に打たれた。麻酔の針が歯茎に刺さる時にはそれなりの痛みがあるが、耐えられないようなものではない。麻酔が効いてくるまで、椅子に座ってぼうとしていた。そのうち先生が戻ってくると、さっそく抜歯する。タオルで顔を覆われているために、感じられるのはゴム手袋の向こうの先生の指先と、引っ張られる唇の痛み、そして眼球の内側あたりで鳴る、ごり、ごり、という低い音だけだった。

「怖い音鳴ってると思うけど大丈夫ですから」

と、先生は軽い調子で言う。身体の奥から聞こえる骨の削られるような音。タオル越しに眩しい無影灯の光。唇の痛み。

「はーい、抜けましたよ。これ、噛んでください」

またまた軽い調子の声が聞こえると、顔と覆いは外され、ガーゼを口に含められる。穴になった奥の歯茎で噛んだ。麻酔のせいで感触はないけれど、なんとなくそこに空間があることだけはわかった。ほんの数分のことだった。


今回がはじめてだったわけじゃない。以前、すでに右奥の親知らずを抜いている。前回かなり苦戦したため、今回は気負いながら事に挑んだ。あまりにあっさりしていて拍子抜けした。痛みも今のところそれほどではないし、腫れも大したことない。私に残された親知らずはあと二本で、それもいずれは抜くことになるのだろうと思っているが、しばらくは抜く気にならない。痛みや腫れがなくとも、身体的な喪失の代償は、案外重いものだ。

親知らずを失ったからといってなにも困ることなどないのに、なんとなく私からはなにかが失われたという強い確信だけが残っている。欠落感。この欠落感は、親知らずを失ったことによって欠けたわけではなく、あらかじめ欠けていたなにかが、親知らずを契機として表現されてしまったのだと思う。私は確かに、あらかじめなにかを失っていて、それをよく、親知らずが教えてくれている。銀の皿の上で、ぬめぬめと血で照り輝いていた、あの親知らずこそが、私の精神的な価値を表象している。


我ながらくだらない戯言だと思う。噛み合わない歯は、歯としての機能を果たしていないのだから、虫歯の原因にもなりやすいそれは、さっさと抜いてしまったほうが良いに決まっている。なのに、私の体と心は噛み合わない。だからといって、どちらかを捨ててしまうことなどもできず、ズレをズレのまま受け入れて生きている。

本来の役割を果たしていない、機能していないから、処分する。実に合理的だし、理にかなっているはずなのに、私はどこかでそれを拒否したがっている。

抜かれた歯は、血に汚れながらも、丈夫そうにでんと転がっていた。私の身体の丈夫さを物語っているように思う。先生も、どうやら抜くのに苦労するらしい。歯科助手の方が「持って帰りますか」と尋ねてきた。私は反射的に首を振っていた。前回持って帰らずに後悔したはずなのに、今回もそれを持ち帰るのを拒んだ。

「写真を撮られる方もいるんですよ」

笑いながら歯科助手の方がそう言った。先生が戻ってきて、口の中のガーゼを取り出し、傷口を確認した。

「はい、大丈だね。じゃあ、もし明日来れたら、消毒だけします。今日はこれでおしまい。あ、歯、持って帰ります?」

二度目も首を振って断った。きっとまた、私は後悔するのだろうと思う。


家に帰ってしばらくすると、失われた穴が傷みはじめる。薬は二種類もらった。痛み止めのロキソプロフェンと抗生物質のサワシリン。簡単な昼食をとってから薬を飲んだ。頭がぼんやりする。

私はこうして何度でもなにかを失って、二度とそれを取り戻せないで、後悔して、何度でも苦い血の味とともに今日を思い出すのだろう。ただ抜歯したというそれだけなのに、失う、ということのなにかを引きずって、その重みまで口の奥で疼いて、馬鹿みたいだ。

失って悲しいのは、大切だった証ではないか。だったら、私はこれまでも失ってきたし、これからも失い続けるのだから、その悲しみを肯定すべきだ。そしてそれは、愛情を肯定することにほかならない。

一度きりのこの人生から、喜びだけを味わい尽くすことなんてできない。人は人との関係の中で喜びを見出し、その喜びは必ずいつかは失われるものだからだ。私がこの奥歯で噛み締めたはずの過去の喜びは、もはや味わうことのできないところへ漂流してしまった。捕まえることはできないし、取り戻すことも、繰り返すことも、やりなおすこともできない。

だったら、どうすれば良かったというのだろうか。


私は今、欠落を口の奥に抱えている。この穴はやがて歯茎が埋めてくれる。どんな穴も、いずれなにかが時間をかけて埋めてしまい、はじめから欠けてなどいなかったかのように私たちを簡単に欺く。私たちが死ぬその日まで欺き続けてくれればいいものを、不意に、日常にひそむ苦い味が、何度もその喪失を思い出させる。かつてそこにあったもの。今ではここからなくなってしまったもの。いつしかそういうものばかりを数えて生きている気がする。悲しみが多いということは、それだけ愛したものが多いという、それだけのことなのに。


薬のせいか、やはり頭がぼんやりする。舌で、奥の歯を探ってみる。もちろん、そこにはなにもない。

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